第19話 乳酪の焼き餃子と、ただいまの町
乳酪の切り口へ包丁が入ると、刃に薄く脂がついた。
大きな丸い塊から切り分けられた欠片には、小さな穴がいくつも開いている。表面の飴色に比べ、内側は淡い黄色だった。誠吾は差し出されたひと切れを買い、まず何も添えずに口へ入れた。
初めは少し硬い。噛むうちに細かく崩れ、舌の上で温まると、乳の甘い匂いとしっかりした塩気が出てきた。
昨日買った焼き乳酪とは、味の出方が違う。飲み込んだあとにも、木の実を噛んだような香ばしさが残った。
「牛と羊、両方の乳を使っているんだ。若いうちに食べるものもあるが、これはしばらく寝かせてある」
荷車から品物を下ろしていた男が、切り口を布で覆いながら教えてくれた。50歳くらいだろうか。太い指には、乳酪を扱った跡が白く残っている。
「そのままでもうまいですね。温めたときの味も見たいので、切り分けて売ってもらえますか」
「大丈夫だよ。うちでは薄く削って、熱い麦粥へ混ぜることもある。塩が利いているから、煮る鍋のほうを薄味にしておくんだ」
誠吾は頷き、使う量と持ち帰る量を考えた。
薄く削れば肉の間にも入る。青菜と合わせてもよさそうだが、塩気を見誤れば乳酪だけが目立ってしまう。まず少量で、火を入れたあとの匂いを確かめたかった。
必要な分を切ってもらい、代金を渡す。アグネから聞いた翌朝の乳の受け取り時刻も確認して、火輪へ戻った。
買ったばかりの青い小皿を洗い、棚へ収める前に1枚だけ仕込み台へ置いた。
乳酪を削ると、包丁の側面へ細かな欠片がつく。その匂いを確かめながら、誠吾は冷蔵庫の肉と野菜を順に見た。
炒飯へ入れることもできるが、まずは餃子だろう。
乳酪の脂を皮の中へ閉じ込め、葱の香りを合わせてみたい。箸で持ったときには形を保ち、噛んだところで肉汁と一緒に味が出るくらいがいい。
誠吾は前掛けを締め直し、少量の仕込みに取りかかった。
◇
肉餡の味つけは、いつもより薄くした。
醤油と塩を控え、刻んだ葱を少し多くする。乳酪は大きな塊のまま包まず、細かく削って肉の中へ散らした。ひと口目から乳酪に当たるものもあれば、最後まで肉ばかりになるものもある、という仕上がりにはしたくなかった。
混ぜた餡を皮へ載せ、縁をきっちり閉じる。
まず6個だけ焼いた。鉄板で底に焼き色をつけてから蒸し焼きにし、蓋を取ったあとで余分な水分を飛ばす。仕上げのごま油は普段より少なくした。
焼き上がったものを青い皿へ移すと、白い皮ときつね色の底がよく映えた。
端の1個を割る。肉の間から、乳酪の溶けた脂を含む汁がじわりとにじんだ。長く糸を引くほどではないが、餡の切り口はしっとりしている。
熱を逃がしてから食べると、焼いた皮の香ばしさに続いて、肉と乳の味が重なった。
葱も利いている。ただ、噛み終えたあとに残る塩気が、思ったより強い。
誠吾はたれをつけずにもう1個食べ、乳酪の包みへ目を向けた。
冷たいまま味見したときと、熱い餡の中では感じ方が変わる。ほかの調味料を減らすだけでなく、乳酪そのものも少し控えたほうがよかった。
残った餡を作り直すほどの量は仕込んでいない。試作用の分を食べ切り、新しく量り直してから、肉と葱、乳酪の割合を書き留めた。
次に焼いたものは、肉の味が先にあり、あとから乳酪の匂いが戻ってきた。口に脂が残りすぎず、葱を噛むともう1個へ手が伸びる。
誠吾は皿を手前へ引き寄せ、残りをゆっくり食べた。
これなら、いつもの餃子と並べて売れる。
夕食のあとの試作で腹は十分に満ちたが、手間をかけた甲斐はあった。鍋と鉄板を洗い、翌朝に使う分の乳酪を分けて冷蔵庫へ収める。
ローデルへ持っていく分は、別の包みにした。あの豆の調味料といい、この乳酪といい、土産話だけで済ませるには惜しい味だった。
◇
翌朝、アグネの店で乳を受け取ると、彼女は空の容器を重ねながら火輪のほうを見た。
「今日は卵の炒め飯を食べに行くつもりよ。昼の混む前なら、座れるかしら」
「ええ、昼前なら大丈夫だと思います。菓子も仕込みますが、乳酪を使った焼き餃子も少し用意しますよ」
「昨日、切ってもらっていたものね。焼き物のほうへ使うとは思わなかったわ」
「肉と葱へ混ぜて、皮で包みました。菓子とはずいぶん違う味になっています」
アグネは笑い、最後のひとつを籠へ収めた。
誠吾は乳を持ち帰ると、先に菓子の生地を練って冷やした。それから餃子を包む。いつもの肉と野菜の餡と、乳酪入りの餡を混ぜないよう盆を分け、冷蔵庫へ入れる位置も決めておいた。
昨日の市ほど荷車は多くないが、広場には町の客が来ている。品書きを出して間もなく、朝食を探していた2人連れが足を止めた。
餃子の説明を読んでいた片方が、乳酪入りの文字へ指を添える。
「肉と野菜だけのものと、こちらを半分ずつ食べてみたいんだが、同じ皿にできるかな」
「できますよ。3個ずつ焼きます。乳酪入りには塩気がありますから、まずはたれをつけずに食べてみてください」
誠吾は盆から3個ずつ取り出し、鉄板へ並べた。
同じ皮を使っているが、焼き上がったものを皿へ載せる向きは揃えず、左右へ分けた。どちらが乳酪入りか伝えると、客は隣の連れへ片方ずつ渡してから食べ始めた。
乳酪入りを先に食べた男は、次にいつもの餃子へ酢を少しつけた。交互に食べ終え、空いた皿を窓へ返すときには、好みが分かれた。
「俺は乳酪のほうだな。こいつは、野菜の入ったほうをもう少し食べたいそうだ」
「それなら追加は別々に焼きましょう。焼き上がりまで少しお待ちください」
追加の注文を受け、誠吾は2つの盆を手前へ引いた。
珍しいものを出せば、全員がそちらを選ぶわけではない。いつもの餃子を選んでくれる客がいることも、誠吾には嬉しかった。
蓋の下から蒸気が上がり始めたところで、横の小鍋へスープを移した。
◇
昼前に来たアグネは、約束どおり炒飯を注文した。
斑羽鳥の卵は使い切っていたので、今日は《遠隔仕入れ》で買った日本の卵を使っている。肉も日本の豚肉で作った焼き豚だった。
現地の材料にこだわって、ないものを探し回る必要はない。あの濃い卵はよかったが、使い慣れた卵にも、自分が積んできた30年分の扱い方がある。
油をなじませた鍋へ卵を入れ、膨らむ縁へ米を合わせる。玉杓子でほぐし、焼き豚と葱を加えて返すと、鍋から立つ匂いにアグネが顔を上げた。
大きな鍋を振り回して見せるつもりはなかった。底へ広げて熱を当て、米がほどけたところで返す。必要な動きだけで仕上げ、温めた皿へ盛った。
アグネは匙で表面を少し崩し、湯気を逃がしてから食べる。最初のひと口を飲み込むと、皿の端にあった卵をすくって確かめた。
「卵が細かく混ざっているのに、食べるとちゃんと分かるのね。煮た麦とはずいぶん違うけれど、匙で食べやすいわ」
「米を潰さずに炒めています。卵も火を入れすぎると硬くなるので、鍋に入れてからは早いんですよ」
半分ほど食べたところで、アグネは乳酪入りの餃子も2個頼んだ。誠吾が少量でも出せると答えると、残りの炒飯を急いで食べず、焼き上がりを待っている。
青い小皿へ載せて出した餃子を、彼女は熱いうちに半分へ割った。
「これは、乳酪だけを焼いたものより肉の汁があるのね。うちで売っているものでも、こうなるとまた違う料理だわ」
切り口を見ていたアグネは、残りの炒飯へ目をやった。それから餃子をひと口食べ、匙を持ち直す。
誠吾はその食べ方を見て、乳酪入りにも飯を添えたくなる味があるのだと分かった。
食後の菓子まで勧めることはしなかった。腹を満たし、少し休んでもらえれば十分だった。
アグネが代金を置く頃、誠吾は明日の朝には町を出るつもりだと伝えた。
「もう少しいるかと思っていたけれど、料理を売りながら回っているんだったわね。次はどちらへ向かうの」
「いったんカルフェンへ下って、それからレドニアへ戻ります。向こうにも、食べてもらいたい人がいるんですよ」
「乳酪を包み分けていたのは、その人たちの分ね。それなら帰り道も楽しみでしょう」
誠吾は頷き、皿を受け取った。
帰る道にも用事がある。そう思えることが、自分でも少し意外だった。
◇
トルナでの最後の営業を終えると、誠吾は道中で使う食材を整えた。
乳の菓子は用意した分を売り切り、少し残った乳は自分の食事に使った。乳酪入りの餃子は残らなかったが、いつもの餃子には余裕があったので、すぐに冷凍庫へ移しておく。
旅先で買ったものを渡すときに、何だったか分からなくならないよう、包みには土地と品名を書いた。熟れ豆の壺にはベルテの名も添える。
すべてを商売に使い切るより、少しずつ味を見てもらいたかった。ローデルなら乳酪を煮込みへ使うかもしれず、ミレナならパンに合う食べ方を知っているかもしれない。
棚へ収めた青い皿の間には、薄い布を挟んだ。
夜のうちに厨房を片づけ、朝は火元と扉の固定を確かめるだけで出られるようにする。寝る前に財布を開くと、皿や土産を買ったあとにも、トルナへ着いたときより硬貨が増えていた。
誠吾は翌朝の食事代だけを分け、財布をしまった。
翌日、まだ露店の並びきらない広場でアグネたちへ挨拶をし、火輪を出した。
町を離れる坂から振り返ると、乳の荷車が広場へ入っていくところだった。こちらの店は片づけても、あちらでは今日の商売が始まる。
誠吾は窓を閉め、下り坂の先へ視線を戻した。
◇
カルフェンへ向かう道では、往きに見た牧草地を反対側から眺めることになった。
《羊の鈴》の前では速度を落としたが、庭に人影はなかった。まだ朝の仕事の途中なのだろう。無理に呼び出すことはせず、そのまま川へ下った。
川沿いの広い場所でひと休みし、車内で昼食を取る。昼過ぎにカルフェンへ入ると、祭りのときに並んでいた天幕は取り払われ、広場は荷の積み下ろしに使われていた。
ネリオの仕事場にも寄ったが、近くにいた漁師から、まだ川へ出ていると教えられた。誠吾は礼を言い、また寄るときに顔を見ようと東街道へ戻った。
道の先には、レドニアへ向かう石橋がある。
初めて通ったときは、分かれ道のたびにバセルの教えた道順を思い返した。今は橋の向こうの曲がり方も、荷車を待つのに使える広い場所も覚えている。
それでも、速度は上げすぎなかった。曲がり角の先に家畜がいることもあれば、道の中央を歩く人もいる。運ぶ荷が料理道具でも食材でも、無事に着かなければ仕事にならない。
レドニアの城壁が見えたときには、陽が西へ傾き始めていた。
門を通り、東市場へ向かう。肉屋の軒には燻製肉が下がり、魚屋では主人が台を洗っていた。火輪を見つけた荷運び人が手を上げ、隣の店へ何か声をかけている。
誠吾がいつもの区画の前で車を止めると、向かいの店からエルダが出てきた。
「おかえりなさい。ずいぶん、いろいろ積んで帰ってきたような顔をしているわね」
運転席を降りた誠吾は、少し笑った。
「ただいま戻りました。川の海老に、豆の調味料に、丘の乳酪。鍋に入れてみたいものが増えましたよ」
「それなら明日は、うちの青玉菜も使ってもらわないとね。朝に採る分を取っておくわ」
「お願いします。まずは、いつもの餃子を包みたいところです」
エルダは頷き、自分の店へ戻っていった。
火輪を区画へ入れ直し、厨房の扉を開ける。持ち帰った包みも青い皿も、棚の中で無事だった。
誠吾は手を洗い、仕入れの籠を取り出した。魚屋が戸を閉める前に、明日は何が入りそうか聞いておきたかった。




