第18話 丘の市場で、乳を揚げる
峠を越えると、谷の向こうに赤茶けた屋根がまとまって見えた。
斜面には石垣で区切った牧草地が続き、街道の先には羊毛を積んだ荷車がいる。誠吾は火輪の速度を落とし、荷車が道を譲ろうとする前に十分な間隔を取った。急ぐ旅でもない。窓から入る風が冷たくなったので、上着を1枚引き寄せてから、前の車輪が踏んだ轍を避けて進んだ。
町の名はトルナといった。
入口の木札には市の立つ日が書かれており、明日は周辺の牧場から品物が集まるらしい。町へ下りる道沿いには毛織物の店や車輪を直す作業場が並び、広場にはまだ片づけ途中の露店が残っていた。
旅商人の荷車を留める区画で場所を借り、車体を水平に落ち着かせる。厨房を確かめてから買い物籠を持ち出すと、広場の端へ着いたばかりの小さな荷車が目に入った。
積まれているのは、蓋を布で覆った乳の壺だった。
乳売りの女性は、店先にいた客へ声をかけながら壺を下ろしている。誠吾も邪魔にならないところで待ち、並べられた品を見た。
白い乳酪と、少し色の濃い硬そうな塊。その脇には、焼いた乳酪を小さく切った皿もあった。
「夕方にも搾ったものが入るんですね。羊の乳なら、少し味を見てから買いたいんですが」
「それなら、こちらよ。朝の分は乳酪に回したから、今あるのは届いたばかり。器は持っていらっしゃる?」
誠吾は籠へ入れてきた蓋つきの容器を見せた。女性は頷き、小さな柄杓へ乳を取ってから、味見用の器へ注いでくれる。
《食材眼》で状態を確かめ、まず匂いを嗅いだ。
草を思わせる匂いの奥に、柔らかな甘さがある。ひと口含むと、牛乳よりも厚みのある感触が舌へ残った。飲み込んだあとにも脂の丸みが消えず、冷たいものを飲んだだけなのに、しっかりした食べ物を口へ入れた気がする。
続いて買った焼き乳酪には、表面に薄い焦げ目がついていた。塩気と香ばしさのあとに、さっきの乳と同じ甘い匂いが戻ってくる。
誠吾はもう1切れを口へ運び、それから乳の壺を見直した。
「料理に使いたいので、乳を1リットルほどください。乳酪も、この焼いてあるものを少し」
「それなら温めるとき、鍋底には気をつけてね。火を強くしたまま放っておくと、すぐに貼りつくから」
「ええ、底から混ぜながら使います。これだけ濃ければ、菓子にしても味が残りそうですね」
乳売りの手が、容器の蓋を閉める前に止まった。
「甘く煮た麦ならうちでも食べるけれど、菓子にするなら、どんなふうに使うのか見てみたいわ」
「乳を固めて、衣をつけて揚げようと思っています。俺のいた国にも、そういう菓子があるんです」
女性は乳と誠吾を順に見たあと、小さく笑った。
「それは見たことがないわね。私はアグネ。明日もここにいるから、売るなら教えてちょうだい」
「セイゴです。広場の向こうにある、赤い窓の車で料理を売っています。うまく仕上がったら、明日の品に加えますよ」
容器を受け取ると、見た目よりずっしりしていた。
誠吾は乳を揺らしすぎないよう籠へ収め、火輪へ戻った。
◇
乳の一部を小鍋へ取り、砂糖と澱粉を合わせる。
甘味を強くしすぎるつもりはなかった。あの乳酪を焼いたときに残っていた、乳そのものの匂いを菓子でも出したい。
火を入れる前によく混ぜ、鍋底へ澱粉が残っていないことを確かめた。それから弱めの火にかけ、へらを底へ沿わせて動かす。
初めは白い液体だったものが、温まるにつれて重くなる。縁から粘りが出始めると、混ぜた跡が一瞬残るようになった。
そこで手を緩めず、鍋底から返していく。
厨房の大きな仕事を任されるようになってからも、こういう仕込みを自分の手でやるのは好きだった。温度が上がり、とろみがつき、へらを持つ手へ返ってくる重さが変わる。目だけでなく、手でも火の入り方を確かめられる。
しっかり練り上げたところで火を止め、浅い容器へ流した。表面を平らにして、手早く冷ます。
固まり具合を見る分だけ小さく分け、残りの乳は冷蔵庫へ入れた。
待っている間に米を炊き、翌朝の餃子に使う肉と野菜を補充する。丘の町まで来たが、看板の料理を外すつもりはない。乳の菓子だけでは昼飯にならず、初めての客には選べるものもあったほうがよかった。
夕食を済ませる頃には、少量に分けた乳の生地が落ち着いていた。
指で押すと弾力があり、包丁を入れれば角を残して切れる。1本を持ち上げ、曲がり具合を確かめてから、粉を薄くまぶした。
溶き卵をくぐらせ、細かなパン粉をつける。角へ衣がついていない場所を残さず、余分な粉だけを落として油へ入れた。
細かな泡が周囲を包む。
中まで長く加熱する必要はない。衣が薄いきつね色に変わったところで引き上げ、網へ立てかけるように置いた。
油を切ってから皿へ移し、少し待って端を割る。
乾いた衣の中から、白く滑らかな生地が現れた。湯気に混じって、昼間に飲んだ乳よりも甘い匂いが立つ。
誠吾は熱を確かめてから、ひと口だけ食べた。
衣は軽く歯に当たり、中は舌で押せるほど柔らかい。噛むというより、熱い乳の塊がゆっくりほどけていく。そのあとに残るのは砂糖ばかりの甘さではなく、羊の乳の濃い風味だった。
もうひと口食べてから、皿を置いた。
衣を少し厚くつけた部分だけ、パン粉の香りが勝っている。翌朝は粉をさらに細かくし、卵をよく切ってからつけよう。
残った生地は覆って冷蔵庫へ収めた。揚げた残りを茶と一緒に食べ、最後に油の状態を確認して火を落とす。
窓の外では、市の準備をする槌の音がまだ遠くに聞こえていた。
◇
朝の広場には、昨日はなかった荷車が何台も並んでいた。
乳酪を載せた台、毛糸を吊った棚、乾燥させた香草の束。誠吾が餃子を包み終えて販売窓を開けると、荷ほどきをしながら朝食を取っている商人たちの姿が見えた。
品書きには、料理名の横へ短い説明を添えた。
焼き餃子には、肉と野菜を薄い皮で包んだ焼き物。炒飯には、卵と肉入りの炒め飯。最後に少し間を空けて、羊乳の揚げ菓子と書いた。
菓子は小皿に2本。熱い中身へ急にかぶりつかないよう、ひと言添えて出すつもりだった。
最初の客は、向かいで木製の道具を並べていた男だった。炒飯の説明を読み、卵と肉が入るならそれを頼みたいと注文する。
誠吾が鍋を振り始めると、男は品物を並べる手を止めず、音のするたびにこちらを見た。出来上がった皿を受け取って自分の売り台の裏へ戻り、腰を下ろして食べ始める。
その姿を見た隣の客が品書きの前へ来たところへ、別の声が重なった。
「その鍋の音、聞き覚えがあると思ったのよ。川の祭りで隣にいたの、覚えていらっしゃる?」
誠吾が顔を上げると、陶器を売っていた女性が立っていた。カルフェンで、火輪の隣に店を出していた人だった。
「ええ、もちろん。片づけのときにも世話になりました。こちらでも商売をされるんですね」
「祭りの帰り道は、この市に合わせることが多いの。あなたの車なら、もっと先に行っていると思っていたわ」
「途中で豆や羊肉を買っていたら、ちょうどよくなりました。昨日はこちらで乳を仕入れたところです」
女性は品書きを眺め、揚げ菓子のところで指を止めた。
すぐには頼まず、まず餃子をひと皿注文する。祭りの間は持ち帰って食べることが多く、焼きたてを座って食べたいのだという。
鉄板へ餃子を並べると、彼女は隣の椅子へ籠を置き、肩を回した。
知らない町でも、顔を知っている客が窓の前にいる。誠吾はその様子を見ながら、スープの火を少し弱めた。
◇
アグネがやって来たのは、朝の客足がひと息ついた頃だった。
手には乳の空き容器を入れた籠を持っている。火輪の品書きを確かめると、揚げ菓子を1皿頼み、陶器売りの女性の向かいへ座った。
「本当に乳を揚げるのね。帰ったら話そうと思っているんだけど、どう説明すれば伝わるものかしら」
「乳に甘味をつけて、とろみの出る粉と一緒に練ってあります。それを冷やして切り、衣をつけて揚げるんです」
誠吾は冷蔵庫から生地を取り出し、切った断面を窓越しに見せた。アグネは白い角の残った形を見て、ようやく頷いた。
昨夜より細かくしたパン粉を薄くつけ、油へ落とす。朝の光の中では、衣の色が変わる様子も見やすかった。
皿へ移して出すときには、端を少し割って熱を逃がせると伝えた。
アグネはフォークで1本を半分にし、白い中身をしばらく眺めてから口へ運んだ。続けて食べようとはせず、噛み終えてから、残り半分の切り口へ鼻を寄せる。
「搾った乳を煮たときの匂いが、ちゃんとする。衣のところとは、ずいぶん食べた感じが違うのね」
「乳の味が濃いので、砂糖を増やさずに済みました。軽い乳なら、同じ加減では薄くなるでしょうね」
陶器売りの女性も、アグネの皿を見て追加を頼んだ。ただ、餃子を食べたあとだから1本でいいという。
誠吾は1本分の値段を伝え、茶も用意した。
イルヴェから買った茶を注ぐと、炒った香りが卓上へ広がる。女性は揚げ菓子を食べ終え、茶を飲んでから空いた皿へ目を落とした。
「これなら、縁の低い皿のほうが取りやすいわね。うちに小さいのがあるから、片づけ前に見にいらっしゃい」
誠吾も皿を見た。
油を切って出しているので、深さはいらない。白い菓子には色のある皿も似合いそうだった。
「あとで伺います。菓子だけでなく、少しずつ分けて出す料理にも使えそうですから」
アグネはその間に、残していた1本を食べ終えていた。皿のパン粉をフォークで集めるのをやめ、茶の入った器へ手を伸ばす。
「昼前に乳を受け取りに来る人がいるの。あの人は甘いものが好きだから、ここを教えておくわ。私は次に来るなら、卵の炒め飯を食べてみたい」
誠吾は礼を言い、返ってきた皿を受け取った。
甘い菓子が好きな人ばかりでも、乳が好きな人ばかりでもない。昼飯を探して来た客には、まず飯を出せばいい。
品書きの前に立った次の客は、菓子を見て少し迷ったあと、炒飯とスープを注文した。
◇
昼を過ぎると、広場で働く人より、買い物籠を持った客が増えた。
揚げ菓子は食事のあとに1本だけ頼まれることもあれば、2人で1皿を分けることもあった。乳の風味が強いほうが好きだという客もいて、誠吾は同じ甘味でも好みが分かれるところを確かめながら揚げた。
残りが少なくなったところで、追加の仕込みはしなかった。
冷やして固める時間が要る。急いで数を増やすより、今日は用意した分をきちんと出し切るほうがよかった。
最後の皿を出し終えて品書きへ売り切れの札を添えると、朝に炒飯を食べた道具売りの男が窓へ来た。
「そっちも食べておけばよかったな。まだ飯のほうがあるなら、今度は肉を包んだ焼き物を頼みたい」
「餃子ですね。焼けるまで少しお待ちください。スープもまだ温かいですよ」
鉄板へ並べた餃子が、細かな音を立て始めた。
菓子がなくなっても、火輪の営業は続けられる。誠吾は湯気の具合を見ながら蓋をし、横で洗った鍋を水切りへ戻した。
午後の客が途切れてから、陶器売りの店で小皿を6枚買った。
青い釉薬のかかった皿で、中央が浅く、縁が少しだけ持ち上がっている。重ねたときの収まりもよく、火輪の棚へ並べる場所がすぐに思い浮かんだ。
売上から食材代と場所代、皿の代金を分け、それでも残った硬貨を財布へ収める。
それからアグネの店へ行き、乳を追加で注文した。
「明日の朝も、同じくらい用意しておいてもらえますか。もう1日、ここで鍋を振ろうと思っています」
アグネが受け取りの時刻を伝える間、隣の荷車から乳酪が下ろされていく。誠吾はその中に、昨日は見なかった大きな丸い塊を見つけた。
切り口には細かな穴があり、表面は薄い飴色をしている。
乳の注文を済ませてから、誠吾は籠を持ち直し、その乳酪の前へ足を止めた。




