第17話 羊の肉を、パンに挟んで
羊の鈴が鳴り始めた頃、誠吾は火輪の販売窓を開けた。
朝の風には、刈った草と湿った土の匂いが混じっている。牧場宿の裏手では、柵の中にいた羊たちが順に放され、草の茂った斜面へ歩いていくところだった。昨夜、煮込みを食べた食堂にも明かりがつき、パンを温める匂いが漂っている。
顔を洗って仕事着に着替え、包丁を確認してから外へ出ると、宿の主人が裏の作業場へ手招きした。
「ちょうど始めるところだ。買う場所を決める前に、ひと通り見てもらったほうが早いだろう」
「ありがとうございます。羊は肉になったものを扱うほうが多かったので、この土地でどう分けるのかも見ておきたくて」
作業場には屋根があり、床も作業台も水で洗われていた。主人は清潔な前掛けをつけ、用意した刃物を手の届く位置へ並べている。
誠吾は邪魔にならない場所に立ち、羊が食材になるまでの仕事を見せてもらった。
手順を知っていることと、その動物を日々扱っていることは違う。主人は刃を大きく振り回さず、皮と肉の間へ刃先を送り、関節の曲がる向きを確かめてから骨を外していく。途中で誠吾が支えを申し出ると、持つ場所と引く方向を短く伝えてくれた。
「腹は脂が多いが、こいつは厚すぎない。細く切って焼くなら、肩と混ぜてもいいと思うぞ」
切り分けられた肉には、白い脂が薄く重なっていた。肩の赤身は濃く、指で押せばしっかりした弾力が返ってくる。
《食材眼》で状態を確かめ、それから切り口へ目を戻す。脂のつき方も、筋の走り方も、昨日食べた煮込みを思い出しながら見ると面白かった。
「肩を少し多めにして、腹も合わせて2キロほどいただけますか。脂は使いますが、厚い筋のところは分けておきたいんです」
「それなら、この辺りが使いやすい。筋の強い端は、煮る分として別にしておこう」
主人は肉を秤に載せる前に、誠吾が指した場所をもう一度確かめた。どこを何に使うのかが決まれば、刃の入れ方も変わる。そのやり取りには無駄がなく、誠吾も仕事の続きを任されたような気分になった。
代金を払い、包んでもらった肉を火輪へ運ぶ。すぐ使わない分を分けて冷やし、残りも平たく広げて冷蔵庫へ収めた。
下処理を終えて手を洗うと、指先にかすかに残っていた羊の脂の匂いが、温かな水と一緒にほどけていった。
日本の厨房でも羊は使った。炒め物にも煮込みにもしたが、こうして牧場の朝から見せてもらい、自分の鍋へ持ち帰る機会は少なかった。
窓の外では、さっきの群れがもう丘の中腹にいる。
誠吾は少し眺めてから、仕込み台へ向き直った。
◇
肩肉は筋の向きを見て、繊維を断つように薄く切った。腹肉も大きさを揃え、噛み切りにくそうな膜だけを丁寧に外す。
薄ければ何でもいいわけではない。細かくしすぎれば鍋の中で縮み、肉を食べた感じまで弱くなる。箸で持ち上げやすく、口へ入れれば2、3度噛んで旨味が出るくらいを狙った。
車内の端末で玉葱と香辛料を補充し、受取庫から取り出す。選んだのはクミンの粒だった。
袋を開けると、乾いた草を熱したような、どこか土を思わせる香りが立った。昨日の羊の煮込みに使われていた香草とは違うが、あの脂なら受け止めてくれる。
小鍋で軽く煎り、粗く潰す。粒を全部粉にせず残したのは、噛んだときにも香りが出るようにするためだ。
そこへ、仕事をひと区切りつけた主人が顔を出した。
「ずいぶん香りの強いものを使うんだな。肉の匂いと合わせるつもりか」
「クミンという香辛料です。羊の脂とよく合うんですよ。まず少し焼いて、肉との釣り合いを見ようと思ってます」
誠吾は潰したものを小皿へ取り、主人の前へ置いた。主人は指先につけて匂いを確かめ、作業場とは違う顔で鍋の中を覗いた。
温めた中華鍋へ腹肉を少量入れると、脂が薄く溶け出した。そこへ肩肉を広げ、触りすぎずに焼く。赤身の縁が縮み、鍋に接していた面へ焼き色がついたところで返した。
玉葱を加えると、脂の弾ける音が少し軽くなる。葱、生姜、少量の塩。最後にクミンを振り、鍋底から大きく返した。
湯気と一緒に立ち上がった匂いへ、主人の目が動いた。
誠吾は火を止めて肉を2切れ取り、小皿へ分けた。自分の分を口へ入れ、脂の溶け具合を確かめる。
肩には噛み応えがあり、腹は歯が入ると甘い脂をにじませた。クミンは羊の香りを消していない。熱い肉を噛んだあと、鼻へ抜ける匂いが膨らみ、もうひと口食べたくなる。
ただ、玉葱から出た水分が少し多かった。
「玉葱を減らして、火を入れる順も変えます。肉はこのくらいでよさそうですね」
主人は皿に残った脂を指で拭う代わりに、持っていたパンの端へ吸わせた。それを食べてから、窓の脇に置かれた生肉へ目を戻す。
「腹のところをこう使うなら、厚い塊で残すより食べやすいな。うちでは煮る鍋へ入れることが多いんだが、昼飯にも向きそうだ」
「パンにも合いますね。表面を少し焼いてから挟めば、仕事の合間でも食べやすいと思います」
主人の手に残っていたパンを見て、誠吾も昼の形が決まった。
◇
宿では昼前になると、牧場で働く人たちの食事をまとめて用意しているという。
普段は食堂へ戻って食べるが、今日は離れた柵の修繕がある。昼飯を運ぶつもりだったところへ、ちょうど誠吾の提案が重なった。
「それなら10人分、うちで頼みたい。肉を挟んだパンなら、向こうでも皿を広げずに済む」
「承りました。パンは宿のものを使わせてください。中へ入れる野菜も少し欲しいので、その分は買います」
「葉物なら朝に採ったものがある。パンと一緒に持ってこよう」
主人が食堂へ戻る間に、誠吾は必要な肉を量った。
10人分を一度に炒めることもできるが、仕上がりを考えれば分けたほうがいい。肉と玉葱をそれぞれ揃え、香辛料も小皿へ取り分けておく。注文が決まっている仕事は、焼き始める前に整えられることが多かった。
届いたパンは、丸く焼いたものだった。外は薄く張り、中は目が細かい。途中まで横に切り込みを入れると、肉を挟んでも裂けにくそうな厚みがある。
葉物は淡い緑色で、軸を噛むと柔らかな甘味がした。洗って水気をよく切り、細く刻む。酢と塩で軽く味をつけ、余分な水分を絞った。
肉の脂を受け止めながら、食べ終わりを重くしない役目だ。川柑も少し残っていたが、全部を同じ酸味にするより、この葉の味を生かしたかった。
運び出す時刻に合わせ、鉄板でパンの切り口を焼く。
それから中華鍋を熱し、羊肉を入れた。
脂が鍋肌を滑り、赤身へ細かな焼き目がついていく。肉をいったん取り出し、残った脂で玉葱を炒めた。縁が透き通り、甘い匂いが出たところで肉を戻す。
葱と生姜を合わせ、塩で味を決める。クミンを振ったら、長く火にかけずに返した。
皿で食べるより、ほんの少しだけ味を強くする。パンと葉物が加わったとき、肉の味がぼやけない程度でいい。
焼いたパンへ葉物を敷き、熱い肉を挟む。上を押し潰さず、底と横を紙で包んで持てるようにした。
10個を運び用の籠へ立てて収める頃には、窓の前に羊の脂と香辛料の匂いが満ちていた。
受け取りに来た若い働き手が、籠を持ち上げる前に中を覗いた。
「食堂まで戻らなくていいと聞いて助かりました。あっちの柵、まだ半分も終わっていないんです」
「温かいうちにどうぞ。包みは底を残して剥いてください。肉の汁が少し出ますから」
若い男は頷き、籠を胸の前で水平に持ち直した。坂道を急ぎすぎずに上っていく背中を見送り、誠吾は次の鍋を火にかけた。
今度は自分と主人の昼飯だった。
◇
日除けの下でパンを食べていると、丘の道から荷馬車が1台下りてきた。
手綱を握っていたのはイルヴェだった。馬を水場へ連れていく前に火輪を見つけ、御者台から片手を上げる。
「こちらへ向かったんですね。昨日のお話で、羊の肉が気になっていらしたようでしたから」
「朝にいいところを分けてもらえました。お茶を淹れる約束もありましたし、ひと息ついていってください」
イルヴェは馬の世話を済ませ、宿の主人と挨拶を交わしてから日除けへ入った。草原を渡ってきた上着には細かな埃がついている。
誠吾が手元のパンを皿へ置くと、彼女の視線が挟んだ肉へ止まった。
「それも買えるなら、昼食にしたいです。朝にパンを少し食べただけなので、匂いを嗅いだら空腹を思い出しました」
「1人分なら、今から炒められます。羊肉と玉葱を香辛料で炒めて、葉物と一緒に挟んだものです」
値段を伝えて注文を受け、誠吾は手を洗って厨房へ戻った。
仕込みを全部使い切る前でよかった。冷やしておいた肉を取り出し、1人分の鍋を振る。イルヴェは窓越しに、肉が返されるところから見ていた。
「さっきからする香りは、その粒なんですね。旅先で似たものを嗅いだ覚えがあります」
「クミンです。肉の脂が熱いうちに合わせると、香りがよく出るんですよ」
出来上がったパンを渡してから、昨日買った茶を淹れた。
湯を注ぐと、炒った葉の香ばしさが上がる。肉を扱ったあとに嗅ぐと、昨日よりも柔らかな匂いに感じられた。
イルヴェは最初、包みを大きく開こうとして、底ににじんだ汁を見て手を止めた。持ち方を直してかぶりつき、ゆっくり噛んでから茶へ手を伸ばす。
「このお茶を買ってくださってよかった。肉のあとに飲むと、もうひと口食べやすくなりますね」
誠吾も自分の湯呑みを持ち上げた。
羊の脂が残る口へ、温かい茶が通っていく。苦味は強くないのに、飲み込むと口の中が落ち着いた。パンの焼けた香りともよく合う。
「こうして合わせてみると、使いどころが増えますね。肉料理を出すときに覚えておきます」
イルヴェは頷き、今度はパンの端からこぼれかけた玉葱を指で押し戻した。話を続けるより先に、それをもうひと口食べた。
昼の風が日除けを揺らし、遠くの羊の鈴が鳴った。
食べ終えた主人は、空になった皿を重ねながら北の道へ目を向けた。
「まだあちらへ行くつもりなら、峠の先にも牧場の品を集める町がある。肉も乳も出るから、あんたには面白いかもしれない」
イルヴェもその町を知っていた。彼女はそこで茶と乾燥させた香草を売る予定だという。道が分かれる場所と、荷馬車のすれ違いに気をつける坂を、湯呑みを置いた卓上で指を動かして教えてくれた。
誠吾は窓から火輪の冷凍庫へ目をやった。
カルフェンで買った海老があり、豆の村で仕入れた壺があり、今日は羊肉が加わった。どれも運べる。レドニアへ戻ったときにローデルへ食べてもらいたいものも、少しずつ増えていた。
◇
昼過ぎ、柵の修繕へ行っていた男が籠を返しに来た。
中には畳んだ包み紙がまとめてあり、パンは1つも残っていなかった。
「皆、木陰で座って食べました。皿が要らないのは楽ですね。主人には、また柵の仕事がある日もあれがいいと伝えておきました」
「ありがとうございます。宿のパンがしっかりしていたので、うまく挟めました」
男が去ったあと、主人は籠を受け取り、切り込みを入れる手つきを空中でなぞった。
「薄切りの肉を焼いて挟むくらいなら、うちでもできそうだ。香草はいつものものになるが、パンを先に焼くのはやってみよう」
「切り口を焼いておくと、汁を吸っても崩れにくいですよ。葉物の水気も、よく切っておくといいです」
誠吾は洗い終えた道具を拭きながら答えた。主人からは代わりに、煮込みへ入れる骨の焼き方を聞いた。昨夜、皿の底までパンで拭って食べた汁の旨味には、そのひと手間も効いていたらしい。
昼食の代金を受け取り、泊めてもらった礼を伝える。
買った羊肉のうち、道中ですぐ使う分は冷蔵へ、残りは用途ごとに薄くまとめて冷凍庫へ入れた。仕込み台を洗い、鍋を収め、折り畳み机の脚を払って積み込むと、昼飯を食べた場所は元の土の庭に戻った。
イルヴェの荷馬車は、先に北へ出ていた。
誠吾も運転席へ乗り、主人へ窓から声をかける。
「煮込み、ごちそうさまでした。また通るときは寄らせてもらいます。肉を買うにも、いい場所ができました」
「そのときに分けられる肉は、ちゃんと見せるよ。坂の先は日陰があるから、路面に気をつけてな」
火輪をゆっくり動かすと、荷崩れしないよう収めた壺が、棚の仕切りの中で小さく音を立てた。
丘を上り、曲がり角の手前で宿を振り返る。屋根の向こうには羊の群れが散らばり、主人はもう返ってきた籠を手に食堂へ歩いていた。
道の先には、草地を縫うように続く上り坂がある。
誠吾は風の入る窓を少しだけ閉め、峠へ向かって火輪を走らせた。次に休める場所を見つけたら、あの茶をもう1杯淹れようと思った。




