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『中華一筋30年のおっさん、キッチンカーごと異世界へ ~仕入れて、作って、腹いっぱい食わせる旅暮らし~』  作者: あちゅ和尚


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第16話 川を離れて、羊のいる道へ

 朝の火輪へ来たのは、昨夜の女と、その父親だった。


 父親は70歳を過ぎているように見えたが、足取りはしっかりしていた。娘の持つパンの籠へ手を伸ばし、机に置く前から中を確かめている。


「家で待っていれば持って帰ってくると言われたんだが、話を聞いていたら、作るところから見たくなってね。朝から邪魔をしてすまない」


「どうぞ、座っていてください。辛味は入れずに作っています。熱いままお出ししますから、食べやすいところまで冷まして召し上がってください」


 誠吾は鍋を揺すり、豆腐の角を崩さずに汁を回した。


 昨夜より肉を少し細かく刻み、葱も短く切ってある。特別な料理へ変えたわけではない。食べる相手が分かっているので、口へ運びやすくしただけだった。


 器へ盛って渡すと、老人は匙で豆腐を割り、湯気が落ち着くのを待った。まず豆腐を食べ、次には肉の混じった汁をパンにつける。


「なるほど、熟れ豆をこう使うのか。豆の味は分かるのに、いつもの煮込みとはずいぶん違うな」


「先に肉と炒めています。こちらの豆は味がしっかりしているので、ほかの味付けはあまり足しませんでした」


 老人は頷き、器を自分の方へ寄せ直した。


 娘が食べるのを手伝おうとすると、パンだけ小さくしてくれと頼む。誠吾も自分の分を盛って、少し離れた椅子へ座った。


 朝の共同窯では、もう薪を入れる音がしていた。ベルテが戸を開け、空になった壺を外へ運び出している。


 昨夜まで知らなかった村で、朝飯を食べている。


 誠吾はパンへ汁を含ませ、窓の外の仕事を眺めた。老人は急がずに食べたが、途中で匙を置くことはなく、最後には器を少し傾けて肉を集めていた。


「次に寄るときにも、これを作ってくれると嬉しいよ。娘から聞くだけで済ませなくてよかった」


 食べ終えた老人はそう言い、代金を払った。誠吾が器を受け取ると、娘は籠に残ったパンを分けてくれた。


「こちらは、道中で食べてください。昨日の夕方に焼いたものですが、まだ柔らかいですから」


 礼を言って受け取り、誠吾は厨房の棚へ収めた。


     ◇


 出発前に、ベルテへ上流の道を尋ねた。


「この先も川沿いに行くか、北の丘へ入るかで、ずいぶん景色が変わるよ。丘の方は羊を飼っている家が多い。乳を固めたものや、羊の肉を買いたいなら、そっちがいいだろうね」


 誠吾は道順を聞きながら、川と畑の向こうを見た。昨日までは遠く霞んでいた丘の輪郭が、朝の光でははっきりしている。


「それなら、今日は北へ行ってみます。羊の料理も食べてみたいので、飯を出すところがあれば教えてください」


「丘へ入る道の途中に、荷車が休む水場がある。そこから先は、道に詳しい人がいるはずだよ。うちは豆を船で出すことが多いから、北の宿までは詳しくなくてね」


 分かるところまで教えてもらい、誠吾は礼を言った。


 ベルテが仕込んだ豆は、冷蔵庫へ収まっている。朝の代金も、昨日の料理代と一緒に売上の袋へ入った。旅に出るために店を閉じたのに、通りがかりの村でも鍋を使って金をもらえたことが、少し面白かった。


 棚と戸を確かめ、火輪を動かす。


 村を抜けてしばらく走ると、道が分かれた。片方は川に沿い、もう片方は緩い坂を登っている。


 誠吾は速度を落とし、後ろから来る荷車がないことを確かめて、北へ曲がった。


 川の照り返しが木立に隠れ、代わりに乾いた草の匂いが窓へ入ってくる。低い畑の間を進んでいた道は、やがて土手と疎らな林の間を縫うようになった。


 坂が続いても、火輪の走りは変わらない。誠吾は路面の荒れたところで速度を落とし、棚から物音がしないか耳を澄ませた。


 運転席からは、まだ見たことのない場所が次々に現れた。


 畑で手を止めて車を見る人もいれば、道の端へ山羊を寄せてくれる子供もいる。そのたび窓越しに礼を言い、急がずに通り過ぎた。


 誰かと待ち合わせているわけではなかった。昼にどこへ止まるかも、朝の時点では決めていない。


 見晴らしのいい場所へ出ると、誠吾は窓を少し大きく開けた。


     ◇


 教わった水場には、昼前に着いた。


 石で囲った泉のそばに、馬を休ませる場所と、荷車を寄せる広い地面がある。人の飲み水を汲むところと、獣へ水をやる桶は分かれていた。


 誠吾は通り道を塞がない端へ火輪を止めた。先にいた馬を驚かせないよう、しばらく待ってから外へ出る。


 朝にもらったパンを食べるつもりだったが、冷蔵庫を開けたところで、昨日の石鱗魚が目に入った。


 下処理は済んでいる。今日は半身を昼飯にし、残りは冷凍しておこうと思った。


 骨から身を外して切り分け、皮へ浅く切れ目を入れる。軽く塩を振って水分を拭き、油を引いた鍋へ皮を下にして置いた。


 最初は触らず、鍋肌へ馴染ませる。


 皮の縁から細かな泡が立ち、白い身の下側がゆっくり色を変えた。焦らず待ってから返すと、皮はきれいな焼き色になっていた。


 魚を取り出し、残った油へ刻んだ葱と生姜を入れる。


 今日は若い熟れ豆を使った。昨夜の濃い方と違い、炒めても酸味の輪郭が残る。少量の汁で緩め、豆の粒を潰しすぎないよう混ぜた。


 味を見てから、魚を戻す。


 たれを上からかけず、皮を上にして鍋の端へ置いた。身の下側へ味を含ませ、焼いた皮の歯触りを残して皿へ移す。


 パンを切っていると、販売窓の外で足音が止まった。


「料理を売る車だったんだね。ここで昼飯を探していたんだけど、今は注文を受けているところかい」


 窓の向こうに立っていたのは、40代くらいの女だった。少し離れた荷車には、布で覆った箱が積まれている。帽子を脱いだ額には、荷を扱ったらしい汗が浮いていた。


「いま作ったのは私の昼飯ですが、魚ならもう1人分作れます。豆の塩気と酸味で味をつけた焼き魚です。炒飯や餃子は、今日はまだ支度していません」


「魚が食べられるなら、ありがたいよ。朝からパンと干し肉だったからね。値段を教えてもらえれば、それを頼みたい」


 誠吾は仕入れた魚と使う量を考え、代金を伝えた。女は了承し、荷車へ戻って財布と水筒を持ってきた。


 残りの半身を取り出し、火を入れる。


 自分の皿は少し冷めるが、焼き魚はそこまで待たせずに作れる。パンも十分あった。女が馬の様子を見て席へ戻る頃に、ちょうど魚の皮が焼けた。


 誠吾は机を1つ出し、自分の皿と並べて置いた。


「お待たせしました。骨はできるだけ取っていますが、残っていたら気をつけてください。皮は、汁へ沈めずに食べると歯触りが残っています」


「ありがとう。私はイルヴェ。茶や乾かした香草を買い集めて、町へ運んでいるんだ」


 誠吾も名乗り、向かいへ腰を下ろした。


 イルヴェは皮の端を匙で押し、割れたところから身を取った。たれを少しつけて食べ、次にはパンへ豆を載せる。


「この豆、川沿いの村のものだろう。煮込みに入れるのは知っていたが、焼いた魚にも使えるんだね」


「昨日、そこで買いました。若い方は肉に塗って焼くといいと聞いたので、魚でも試してみたんです」


 誠吾も自分の皿へ匙を入れた。


 皮は少し落ち着いていたが、歯を入れるとまだ薄く割れた。中の身はしっとりしていて、熟れ豆の酸味が脂によく合う。パンで皿の汁を拭うと、朝には穏やかに感じた麦の香りまで強くなった。


 イルヴェは途中で水筒の蓋を開けた。


「よかったら、茶を少し飲んでみないかい。甘くはしていないから、飯のあとにも合うと思うよ」


 誠吾は礼を言って、車から自分の湯呑みを持ってきた。


 注がれた茶は薄い褐色で、焙った穀物にも似た香りがあった。ひと口飲むと、軽い渋みのあとに甘い匂いが鼻へ抜ける。


「いい香りですね。葉を乾かすだけでなく、火を入れているんでしょうか」


「仕上げに焙っているよ。もっと青い香りのものもあるけど、私は道中ならこれが好きでね。熱くても、冷めても飲みやすい」


 誠吾は湯呑みを両手で持ち直した。


 知らない魚を買い、知らない豆で料理を作ったあとに、また別の味が出てきた。湯呑みの底へ残る香りを確かめ、イルヴェが売れる分も持っているか尋ねた。


 女は頷き、小さな包みなら分けられると言った。


     ◇


 食後、イルヴェは荷車から茶の包みを出してくれた。


 代金を払って受け取り、誠吾は北の道について聞いた。羊の肉と、この辺りの料理を食べてみたいと伝えると、イルヴェは道の先を指した。


「このまま丘を越えていくなら、《羊の鈴》という牧場宿へ寄るといい。肉も乳も、家で扱っている。宿の主人は羊を潰す仕事もするから、買いたい部位があれば相談できるよ」


「それはありがたいですね。食堂だけでも使えるところでしょうか。寝泊まりは車でできるので、まずは料理をいただきたくて」


「飯だけの客も来るから大丈夫だよ。私も明日はそこへ寄るつもりなんだ。あんたの車なら、日があるうちに着けるだろうね」


 誠吾は曲がり道の目印と、途中で細くなる場所を聞いた。


 イルヴェは食器を片付けるのを手伝い、代金を払って荷車へ戻った。馬を休ませてから出るというので、誠吾の方が先に支度を終えた。


「お茶、ごちそうさまでした。明日お会いできたら、今度はこちらで淹れますよ」


「それは楽しみにしておくよ。魚の皮を、こんなふうに焼いて食べた話も、仕入れ先へ持っていける」


 イルヴェが手を上げ、誠吾は火輪へ乗り込んだ。


 昼飯に使った魚は、1尾分きれいになくなった。骨と頭は冷やしておいたので、あとで汁に使える。自分だけで食べるつもりだった半身は売上になり、代わりに茶が棚へ入った。


 誠吾は走り出す前に、教わった道を手帳でもう一度確かめた。


     ◇


 午後の道は、川沿いとはずいぶん違っていた。


 緩い坂を上がるたびに視界が広がり、刈り終えた草地が遠くまで続く。木立の向こうから鐘の音が聞こえたかと思うと、白や褐色の羊が斜面へ散らばっていた。


 誠吾は道を横切る群れを見つけ、早めに火輪を止めた。


 犬を連れた男が先に渡り、羊がそのあとへ続く。後ろの数頭が草へ気を取られて遅れたが、犬が回り込むと、ゆっくり列へ戻っていった。


 最後の羊が渡り切ってから、男が礼をする。


 誠吾も窓から手を上げ、火輪を動かした。鍋の中へ入れる肉ばかり考えていたが、しばらくは斜面の群れを目で追っていた。


 《羊の鈴》は、道が広くなった先にあった。


 木の看板へ鈴をつけた宿で、建物の裏には柵で囲った草地がある。馬を繋ぐ場所のほかに、荷車を寄せられる平らな一角もあった。


 誠吾が戸口で声をかけると、腕まくりをした主人が出てきた。50歳前後に見える、肩幅のある男だった。


「食事だけでもいただけると聞いて来ました。車で旅をしているセイゴといいます。今夜、羊の料理を食べられるようならお願いしたいんですが」


「今日は羊と麦の煮込みがあるよ。パンもつけられる。車は、あの柵の手前へ置いてくれればいい。食ってから泊まる場所を探すなら、暗くなる前に決めた方がいいぞ」


 誠吾は車で寝られることを説明し、空いている場所で一晩休ませてもらえるか頼んだ。主人は荷車の出入りがない側を示し、誠吾は言われた場所へ火輪を寄せた。


 食堂へ戻ると、窓際の席に深い皿が運ばれてきた。


 煮込みには骨付きの羊肉と麦、白い根菜が入っている。汁の表面には小さな脂の粒が浮き、匙を沈めると、肉が骨から離れた。


 口へ入れる前から、羊の香りがした。


 にんにくと香草が利いているが、肉の匂いを覆い隠してはいない。噛むと脂の甘さが広がり、そのあとに麦の歯触りが残った。


 誠吾はパンを取り、汁を少し含ませた。


 昼に食べた石鱗魚もよかったが、この肉なら強い火で焼いたものも食べてみたい。肩の肉を薄く切り、香辛料と一緒に鍋で炒める姿が浮かんだ。


 空いた机を拭きに来た主人へ、誠吾は顔を上げた。


「いい肉ですね。料理に使う分も買えると聞いたんですが、明日の朝、見せていただけるでしょうか。肩や腹のあたりを、状態を見て選びたいと思っています」


「明日は朝から1頭さばく予定だから、出る前に声をかけてくれ。厚く切って焼くのか、煮るのかで、勧めるところも変わるよ」


「薄く切って、強い火で炒めてみたいんです。脂が少し入ったところがよさそうなので、さばくところから見せてもらえたら助かります」


 主人は誠吾の皿を見て、肉の残り具合を確かめた。


「それなら肩を見てもらおう。腹も、気に入れば切ってやれる。まずは温かいうちに食ってくれ。汁のおかわりもあるからな」


 誠吾は礼を言い、皿を手元へ寄せた。


 外では、日が傾いた草地を羊が移動していた。首の鈴が鳴り、食堂には焼きたてのパンが運び込まれる。


 誠吾は汁のおかわりを頼んだ。明日の仕入れを考えるのは、もう少し食べてからでよかった。



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