第14話 網の魚を、湯気で食わせる
葦の間へ舟が入ると、水面を渡っていた風が弱まった。
岸から伸びた枝に細い縄が結ばれている。ネリオは櫂を舟へ収め、縄を手繰って筒形の籠を引き上げた。水が落ちる音に混じり、中で海老の跳ねる音がした。
「入口を流れへ向ければ入るというものでもなくてな。水が増えたら場所を変えるし、底に泥が溜まれば、上げて洗ってやる必要もある」
舟縁へ寄せられた籠には、大きな海老に混じって小魚も入っていた。ネリオは浅い木箱へ移し、売るには小さなものを川へ戻していく。
誠吾は膝元の空籠を押さえたまま、その手元を見ていた。
荷揚げ場で選ぶときには、殻の張りや身の大きさへ目が向いていた。ここでは、その前に、水の流れと底の様子を見なければならない。ネリオが何もない葦際へ迷わず舟を寄せる理由も、誠吾にはまだ分からなかった。
「同じ川でも、仕掛けを置く場所で揚がるものが変わるんですね。市場で見る籠が日によって違うわけが、少し分かりました」
「昨日と同じものが欲しくても、こっちの都合では揃わんからな。祭りの店が続くと、その説明に困ることもあるよ」
誠吾は頷き、海老を移した箱を受け取った。濡れた木の底で、長い触角が互いに触れ合っている。
いくつかの仕掛けを見て回るうち、町の屋根は葦の向こうへ隠れた。川の中央を進む大きな船とは違い、この舟は岸の細かな入り組みに沿って動いていた。
次に向かったのは、少し開けた入り江だった。
ネリオが目印の浮きを寄せ、網を引き始める。水中で銀色の腹がひるがえった。
「魚を外すから、ここを持っていてくれ。身体は真ん中に残して、腕だけで寄せればいい」
誠吾は教えられた場所を掴んだ。
見た目より網が重い。魚が跳ねるたびに手元へ力がかかったが、《現地仕入れ》の補助もあり、腕には余裕があった。だからといって強く引かず、ネリオが魚を外す速さに合わせた。
網から外された1尾が、蓋付きの桶へ入れられた。硬そうな鱗が朝日に光り、尾が桶の内側を叩いた。
誠吾の目が、その魚へ止まった。
「石鱗魚ですね。レドニアの食堂で食べましたが、これはずいぶん厚みがある。こちらでもよく揚がる魚なんですか」
「ああ。川筋は繋がっているからな。ここの深みには、大きいのも入ってくる。腹の丸いのと、背に肉のついたのでは食べた感じが違うから、買うならよく見てくれ」
ネリオは桶の蓋を少し開け、背の形を見せた。
誠吾は《食材眼》で状態を確かめながら、鰓の後ろから尾へ続く線を見た。身が厚く、皮の下にも脂がある。鱗を丁寧に落として、皮ごと食べたい魚だった。
鍋で揚げる姿より先に、蒸し器の中へ横たえた姿が浮かんだ。
「蒸して食べてみたいですね。葱と生姜を合わせて、最後に熱い油をかける料理なんですが、この魚なら皮もうまそうです」
「うちでは焼くことが多いな。蒸すなら、柔らかい身を崩さずに食えそうだ」
ネリオはほかの魚も外し、網を整えた。誠吾は桶から目を離し、預かった網を渡しやすいよう畳んで寄せた。
料理は、岸へ戻ってからだった。
◇
町へ戻ったときには、荷揚げ場の朝の慌ただしさも落ち着いていた。
誠吾は選んだ石鱗魚と海老の代金を払い、ネリオの仕事小屋まで荷を運んだ。魚は蒸し器に収まりそうな大きさのものを3尾買った。2尾は今日食べ、残る1尾は下処理して持っていくつもりだった。
「昼前には帰れると思って、女房に飯を用意してもらっている。よかったら食べていってくれ。舟に乗ってると、思ったより腹が減るものだからな」
「それなら、魚を料理させてもらえませんか。蒸したものを、奥さんにも食べていただきたいです。店を出せる場所があれば、道具は全部揃っています」
ネリオは小屋の脇にある平らな空き地へ目を向けた。
「そこは使って構わんが、あの車を取りに行くなら、俺も荷を運ぶよ。どこへ置いてきたんだい」
「店は加護で収納してあります。人や獣がいない、十分に空いた場所なら出せるんです。ここを使わせてもらえれば、すぐ始められます」
桶と籠を離れた場所へ置き、誠吾は地面を見回した。車が収まるだけの幅があり、枝も張り出していない。
火輪を召喚すると、ネリオは半歩下がり、現れた車を端から端まで眺めた。
「なるほどな。これなら、舟に店を載せる必要もないわけだ。大した加護を持っているんだね」
「おかげで、行けるところが増えました。魚もいい状態で持ち歩けるので、仕入れすぎなければ、旅先で食べる楽しみも残せます」
誠吾は戸を開けて換気設備を動かし、魚を扱う支度をした。
ネリオの妻が家から出てきたのは、ちょうど鱗を落とし始めた頃だった。小屋の横に火輪があることに驚いていたが、夫の説明を聞くと、窓の内側へ視線を移した。
「今日は私たちが食べさせるつもりだったんだけどね。そんな魚を見つけたら、セイゴさんの方が料理したくなったわけだ」
「ええ。網から上がるところを見たら、どうしても。飯は炊きますから、おかずを少し分けてもらえれば嬉しいです」
妻は笑い、豆と根菜を煮た鍋を持ってくると言って家へ戻った。
◇
石鱗魚の鱗は、包丁を当てるだけでは取り残しが出た。
尾の付け根から少しずつ起こし、腹側と鰭の周りまで確かめる。鰓と内臓を取り、腹の中を洗って血を残さないようにした。料理用の盆へ移すと、身の厚さがあらためてよく分かった。
皮へ浅く切れ目を入れ、薄く塩を振る。
蒸し皿には葱の太い部分と生姜を敷き、魚が皿底へ張り付かないようにした。腹にも少し香味野菜を入れ、酒を振って、湯気の上がる蒸し器へ収める。
蓋が閉まるのを確かめてから、誠吾はもう1尾へ取りかかった。
2尾を同じように下ごしらえし、段を分けて蒸す。大きさが近いものを選んでおいたので、片方だけ火が入りすぎる心配も少なかった。
小鍋では、醤油を土台にしたたれを温めた。甘みは控えめにし、鶏清湯を少し合わせて角を取る。仕上げに載せる葱は細く切り、水へさらしてから十分に水気を切った。
その間に、ネリオは使った網を広げていた。
誠吾が販売窓から見ていると、妻が煮込みの鍋を運びながら夫へ声をかけた。
「そこまでにして、手を洗っておいで。昨日までと違って、今日は客が先に料理をしてくれてるんだから」
「分かってるよ。あとここだけ直しておけば、午後に干せるからな」
2人のやり取りを聞き、誠吾は炊けた飯をほぐした。町の食堂では聞けない暮らしの音が、窓から入ってくる。
蒸し器の蓋を開けると、湯気が顔の前を覆った。
魚の皮は艶を帯び、切れ目の奥の身が白くなっていた。厚いところまで火が通ったことを確かめ、皿を取り出す。蒸したときに出た汁はたれの味を薄めないよう切り、下に敷いた葱と生姜も外した。
新しい葱と細切りの生姜を魚の上へ載せ、熱した油を細くかける。
じゅっと音がして、白い葱がわずかに透き通った。生の鋭さがほどけ、熱を受けた甘い香りが厨房へ広がる。
温めたたれを周りから回しかけ、誠吾は大皿を両手で持ち上げた。
「お待たせしました。石鱗魚の葱生姜蒸しです。骨は残っていますから、身を外しながら食べましょう」
机にはネリオの家の煮込みと、小さな漬物の鉢が並んでいた。真ん中へ魚を置くと、妻が自分の鉢を脇へ寄せ、皿の向きを直した。
「この大きさなら、いつもは身を分けて焼くんだよ。丸ごと皿へ載ると、なかなか立派だね」
誠吾は取り分け用の匙で、背の身をそっと起こした。
皮の下から、白い身が厚く外れる。崩れたところに透明な汁が浮き、葱と一緒にたれを少し絡めると、表面に薄い油の艶が乗った。
ネリオは最初のひと口を、何も足さずに食べた。
次には皮を身へ重ね、飯の上へ載せた。噛んでいる間、視線が大皿から動かなかった。
「焼くときは皮を強く焼いて食うが、こうすると、その下の脂が身に残るんだな。骨のそばまで、ずいぶんしっとりしてる」
「いい魚だったので、火を入れすぎないようにしました。葱だけでも食べられますが、たれを少しずつつけると飯にも合いますよ」
妻は皮のついた身を小さく分け、葱を載せて口へ運んだ。続けて煮込みをすくい、味を変えてからまた魚へ戻る。
誠吾も自分の分を食べた。
口へ入れたときには柔らかいのに、舌で押しただけで溶ける身ではない。噛むと層に沿ってほどけ、皮の下から旨味が出た。葱の歯触りを合わせると、次のひと口を大きく取りたくなる。
ネリオの妻が、空になった飯の器を差し出した。
「もう少しもらえるかい。魚を食べていたら、先に飯がなくなってしまった」
誠吾は器を受け取り、炊飯器へ戻った。窓から机を見ると、ネリオが妻の取りやすい方へ大皿を回している。
魚の片面を食べ終えると、誠吾は中骨を外した。下側の身にもたれが回り、最初より濃い味になっていた。
箸を休めて冷めるのを待つ者はいなかった。話は途切れがちになり、骨を置く小皿と、魚を取る匙の音が続いた。
◇
食後、ネリオが網を干しに戻ると、誠吾は妻と器を片付けた。
煮込みの鍋には、根菜が少し残っている。誠吾が味付けを尋ねると、妻は棚から小さな瓶を持ってきた。
「これを最後に入れるんだよ。上流の村で作る、酸味のある豆の調味料さ。うちでは煮込みや魚の汁に使う。多く入れると塩辛くなるけどね」
蓋を開けると、醤油とは違う発酵の匂いがした。匙の先へ少しもらうと、潰れた豆の粒が残っている。
誠吾は口の中で味を確かめた。塩気と酸味のあとに豆の旨味があり、蒸した魚へ少量載せてもよさそうだった。
「これを作っているところへ、買いに行けるんでしょうか。店で使う前に、土地の食べ方も見てみたいんです」
「川沿いの道を上流へ行けば、昼までには着けるよ。村の共同窯の近くで売っている。うちの瓶も、そこから船で来る荷を買ったものだから」
干し場から戻ったネリオが話を聞き、道を教えてくれた。大河に沿って進み、石を積んだ古い渡し場の先で、畑のある道へ入るらしい。
「車なら行ける道だ。途中、荷車が並ぶところだけ待ってやってくれ。あの辺りは、豆を運び出す時期に混むからな」
誠吾は手帳へ道順を書いた。
海老と魚を買って町を出るつもりだったのに、昼飯の鍋から次の行き先が見つかった。瓶の中身をもう一度見せてもらい、店へ着いてから分かるよう、色と豆の形も覚えておく。
礼に魚を蒸したのだからと、調味料を持たせようとしてくれたが、誠吾は味見した分だけありがたく受け取った。欲しい量は、作っている人から買えばよかった。
残りの魚を下処理して冷蔵庫へ収め、厨房を片付ける。午後の光の中で、ネリオの網が乾き始めていた。
「またカルフェンへ来たら、朝に顔を出します。海老でも魚でも、そのとき揚がっているものを見せてください」
「それなら歓迎するよ。食いたい料理ができたときは、こっちからも言わせてもらう。女房は、次はあの汁に麺を入れたものを食いたいそうだからな」
「ええ、覚えておきます。2人分、ちゃんと身も入れて作りますよ」
誠吾が答えると、妻は昼に使った布を畳みながら笑った。
机と椅子をしまい、戸を閉めた。火輪へ乗り込むと、朝とは違う場所からネリオたちが手を振っていた。
町を抜け、上流へ向かう道へ入る。
助手席の袋には、買ったばかりの海老が冷やして収まっていた。冷蔵庫には石鱗魚、手帳には豆の調味料を作る村への道がある。
昼飯を作って食べ、片付けてからでも、まだ出かけられる明るさが残っていた。
川が見えるところで道が広くなり、誠吾は火輪の速度を少し上げた。次に寄る村では、まずあの豆の調味料を使った飯を食べてみるつもりだった。




