第13話 殻までうまい海老と、祭りのあと
麺を持ち上げると、細い湯気が顔へかかった。
誠吾は丼へ少し顔を寄せ、まず汁を飲んだ。海老の頭と殻から取った旨味に、少量合わせた鶏清湯が厚みを添えている。塩を利かせすぎず、醤油も香りが分かる程度に留めたので、あとから海老の甘さが残った。
具は、さっと火を通した青玉菜と刻み葱だけだった。昼から海老の身を何皿も出しておいて、自分の丼には1尾もない。それでも、麺をすすってもうひと口飲むと、具を増やすよりこのまま食べたくなった。
椅子へ深く腰を下ろし、丼を手元へ寄せる。
販売窓の外では、川灯を見終えた人たちの話し声が続いていた。誰かが笑い、子供が眠たそうにぐずっている。店を閉めたあとの厨房で、誠吾は汁を最後まで飲み干した。
丼を置いてから、翌朝使う小鍋をもう1つ出した。海老の汁を、今度はネリオにも飲んでもらおうと思った。
◇
川灯祭の2日目、荷揚げ場には昨日より早く着いた。
ネリオが分けておいた浅い籠には、殻の柔らかい海老が入っていた。見た目の色はほかと大きく変わらないが、指先で触れると背の殻まで薄い膜のようにしなる。
「女房が言ってたのは、これだよ。焼くと身が乾きやすいが、油で揚げれば殻まで食べられる。いつもの分と一緒に買うなら、試せるだけ持っていってくれ」
誠吾は《食材眼》で状態を確かめ、硬い部分の残り方も見た。食用に問題はなく、鮮度もよい。ただ、柔らかいからと、洗いも下処理もせず鍋へ入れていいわけではない。
「口元の硬いところは、取って使っているんでしょうか。普段の食べ方を教えてもらえると助かります」
「そこは落とすよ。長い触角もな。あとは汚れを落として、よく水を切る。揚げる店じゃ、腹側も開いて掃除していた」
実物を見ながら教わり、試作用の分を買い足した。赤いたれの料理に使う海老も仕入れ、帰りには川柑と葱を補充する。
火輪へ戻ると、まず柔らかい海老を少量だけ下処理した。指をかける場所を誤ると殻まで裂けるため、普段の海老より丁寧に扱う。洗ったあとは布で水分を取り、薄く粉をまぶした。
熱した油へ入れると、海老の周りに細かな泡が集まった。
衣を厚くつけていないので、殻の赤みがそのまま浮き出てくる。脚が開き、尾の先が色づいたところで引き上げ、油を切った。
少し冷まして口へ運ぶと、歯の先で薄い殻が砕けた。
身だけを炒めたときの弾力とは違う。外側は軽く、噛むと内側から熱い汁が出る。頭の中には濃い旨味があり、ひと口食べたあとにも殻を揚げた香りが残った。
誠吾は指先についた塩を払ってから、もう1尾に手を伸ばした。
こちらには、細かく砕いた森椒を塩へ混ぜて振る。噛んだあと、木を思わせる香りが鼻へ抜け、油の重さを感じさせなかった。
これなら、たれを絡めなくても皿になる。
ただし、森椒は少しでいい。多く振った部分では、海老より香りが勝った。誠吾は塩の割合を直し、川柑を添えてもう一度試した。
仕上がりを決めた頃には、隣の出店でも棚を組み直す音が始まっていた。
◇
昼にネリオが来たのは、誠吾が休憩へ入る少し前だった。
妻と2人で、空いた机に腰を下ろす。今日は赤いたれの海老を頼むつもりだったらしいが、品書きに加えた『柔殻川海老の香り塩揚げ』へ目を止めた。
「今朝の海老を、もう出しているのか。女房に食わせたいから、それを1皿頼むよ」
「揚げたてをお出しします。汁も試してもらいたいので、そちらは少し待ってください」
誠吾は海老を揚げながら、小鍋へ温めておいた汁を移した。
赤いたれの料理とは、同じ材料でも匂いの出方が違う。油の泡が静まるにつれて殻の香ばしさが強くなり、隣の女が商品を拭く手を止めてこちらを見た。
揚がった海老へ香り塩を振り、切った川柑を添える。2人の前へ置くと、ネリオの妻は先に夫へ皿を押した。
「最初に、殻が硬いだの何だの言わずに食べてごらん。昨日は剥いてあったけど、今日はちゃんと殻もあるからね」
ネリオは海老をひとつ取り、尾の方から噛んだ。指先で残りを持ち直し、今度は頭まで口へ入れる。
「いつものやつより、身が柔らかく感じるな。殻を気にせず噛めるからかもしれない。塩に混ぜた香りも、この海老には合ってるよ」
「森椒という実です。レドニアで食堂をやっている方から教わりました。肉に使っていたんですが、殻の香りにもよさそうで」
妻もひとつ食べ、次には川柑を搾った。身を噛み切ったあと、皿へ落ちた細い脚まで拾って口へ運ぶ。
「これ、食べ終わっても殻の山が残らないんだね。私なら赤いたれと、こっちを両方頼んで分けたいよ」
誠吾は2人の前へ、小さな椀を置いた。
「剥いた方の頭と殻は、こちらに使いました。昨夜はこれへ麺を入れて食べたんですが、汁だけでも飲んでみてください」
ネリオは椀を持ち上げた。口をつける前に匂いを確かめ、飲んでから、手元に残っている揚げ海老へ目を落とす。
「俺たちも殻で汁を取るが、これはずいぶん口当たりが軽いな。もっと濃い色になるまで煮る店が多いんだ」
「長く煮て、少し苦みが出た分もありました。これは途中で味を見て、よさそうなところで漉しています。鳥の澄んだ汁も少し合わせました」
妻は黙ってもうひと口飲み、椀を机へ戻した。
「朝の仕事を終えたあとに、これと柔らかいパンがあれば嬉しいね。うちで海老の殻を捨てるとき、ちょっと惜しくなりそうだ」
誠吾は麺を合わせる食べ方を簡単に説明した。小麦粉で作った細い生地を茹で、この汁へ入れるのだと伝えると、妻は椀の中を見ながら頷いた。
赤いたれの甘辛さも、殻を揚げた軽さも、汁の穏やかな旨味もある。同じ籠から買った海老で、違う食べ方を見せられたのが嬉しかった。
ネリオは代金を払い、妻が食べ終えるのを待ってから立ち上がった。
「明日も柔らかいのを分けておくよ。ただ、毎朝こればかり揚がるわけじゃない。数が少ない日は、先にそう言うからな」
「ある分を見て決めましょう。殻の硬いものは剥いて使えますし、無理に揃えてもらわなくて大丈夫です」
ネリオは安心したように頷いた。誠吾も、毎日同じものを出す約束はしなかった。
◇
夕方の営業では、塩揚げを持ち歩く客が増えた。
容器の底へ紙を敷き、揚げた海老を重ねすぎずに入れる。蓋をすぐ閉めると蒸気でしんなりするので、出来たてを渡すときは、そのこともひと言添えた。
昨日と同じ時間に来た男は、赤いたれの海老を買ったあと、新しい品書きを見てしばらく立っていた。誠吾が次の客へ料理を渡し終えると、連れに持たせていた財布をもう一度出す。
「こっちも1つ頼みます。昨日は川を見ながら食べたんですが、今日は帰る前に、違うものも食べておきたいので」
「川柑は、まずそのままひとつ食べてから搾ると違いが分かります。熱いうちは中の汁にも気をつけてください」
男たちは通りの端へ寄り、容器を2人の間に置いた。ひとつ食べるたびに次を選び、赤いたれのついた匙と、塩揚げを持つ手を交互に動かしている。
誠吾はその様子を見て、包材の減り方を頭へ入れた。皿で出す昼と、容器で渡す夜では、同じ料理でも支度するものが変わる。油の切り方も、盛り付ける向きも、客がどこで食べるかを考えておいた方がよかった。
塩揚げが終わると、品書きからその札だけ外した。
代わりの海老を日本から買おうとは思わなかった。赤いたれの料理や炒飯はまだ作れるし、柔らかい殻の海老は、ここで揚がったものを食べてもらいたかった。
遅い時間に寄ったバセルは、売り切れた札を見て肩をすくめた。
「商いをしていると、食いたい時間に抜けられないものだね。今日は赤いたれの方を、飯と一緒に頼むよ」
「明日も揚がれば出します。夕方の早い時間なら、まだあると思いますよ」
「それなら、先に寄ってから店へ戻ろう。祭りの最後に、食べ損ねた料理を気にして帰るのも惜しいからね」
バセルはそう言って、運ばれた皿へ匙を入れた。誠吾も笑い、次の餃子を鉄板へ並べた。
◇
祭りの最終日は、朝からよく晴れた。
バセルは約束どおり早めに来て、塩揚げと餃子を包んでもらった。昼に一緒に商いをしている者と分けるという。
最初の日に来た親子も顔を見せた。子供は魚の灯りを持っておらず、今日は両手で餃子の容器を受け取った。母親が空の小皿を返そうとしたので、誠吾はそのまま使ってもらうことにした。
夕方には出店仲間からの注文も入ったが、昨日までに食べている人たちなので、説明する時間はほとんどいらなかった。辛味を抜く客の分は先に分け、持ち帰りは出来上がる頃に声をかける。
初めての町で戸惑っていたのが、数日前だったとは思えなかった。
夜、最後の営業を終えると、誠吾は隣の女と互いの店から残った料理を少しずつ分け合った。女が近くの店で買った豆の煮込みは、香辛料がよく利いていて、冷めても味が薄く感じない。
「祭りが終わったら、セイゴさんも別の町へ行くんだろう。もし来年も寄るなら、またこの辺りで店を出しておくれ。飯を買いに遠くへ行かなくて済むからね」
「ありがとうございます。すぐに出るつもりだったんですが、もう少し川の方を見ていこうと思っています。ネリオさんにも、いろいろ教わりたいですから」
話しているうちに、通りでは店を畳む音が増えた。人が減ると、川からの風がまっすぐ火輪まで届いた。
誠吾は食べ終えた器を片付け、冷蔵庫を開けた。
売る分は使い切ったが、自分で食べるための海老は、朝のうちに少し取り分けてある。下処理を済ませたものを蓋付きの容器へ収め、冷凍庫に移した。
旅の途中、あの塩揚げを食べたくなる日がありそうだった。ローデルにも少し食べてもらいたい。全部を売ってしまわず残しておけるだけの余裕が、この祭りでできた。
売上から仕入れと補充の代金を引き、貯えの袋へ硬貨を足す。海老の料理が2つ増え、汁の使い道も見つかった。朝に顔を出せば、必要な籠を見せてくれる人もいる。
誠吾は帳面を閉じ、翌朝のために目覚ましを合わせた。
◇
祭りの翌朝、通りには荷車が並んでいた。
出店を片付ける者たちへ挨拶し、誠吾も日除けと机をしまった。車を置いていた区画を掃き、忘れ物がないかを確かめる。
この朝は、ネリオの小舟へ乗せてもらう約束をしていた。
祭りの終わりに、川で使う仕掛けを見たいと頼むと、ネリオは網を上げる時間に合わせて来ればいいと言ってくれた。どの辺りに海老がいて、どうやって揚げるのか、買う場所から先も見てみたかった。
火輪を町へ置いたままにする必要はなかった。
厨房の火を落とし、棚の扉を閉じる。居住区まで誰もいないことを見回ってから外へ出て、戸を施錠した。車の下に入り込んだ動物もいない。
誠吾が《移動厨房》を使うと、火輪が目の前から消えた。
冷蔵庫の食材も、凍らせた海老も、鍋も寝床も、収納している間は時間が進まない。手元には、空の籠と必要な道具を入れた袋だけが残った。
少し離れて片付けをしていた隣の女が、思わず手を止めていた。
「セイゴさん、その店を丸ごと持ち歩けるんだね。車で走るだけでも便利だと思っていたのに、置き場所まで要らないとは」
「ええ。これのおかげで、こうして舟にも乗りに行けます。祭りの間はお世話になりました」
「こっちこそ。また見かけたら、声をかけるよ」
手を振って別れ、誠吾は川岸へ下りた。
昨日まで灯りを流していた岸辺に、小舟が繋がれていた。ネリオは舟の底へ籠を収め、誠吾の足元を指した。
「乗るときは真ん中へ足を置いてくれ。座るまでは、そこの縁を掴んでいればいい。川を渡るだけなら穏やかだが、立ったまま身体をひねると揺れるからな」
誠吾は教わったとおりに乗り込み、袋を足の間へ置いた。
岸から見るより、水面が近かった。舟の横腹へ水が当たり、細い波が足元より少し下を滑っていく。ネリオが綱を解くと、岸辺の石がゆっくり離れた。
川灯を見た場所も、火輪を出していた通りも、舟からは違う町に見えた。
「海老の仕掛けは、あの葦の向こうだ。途中で魚の網も上げるから、気に入ったものがあれば見ていってくれ」
誠吾は空の籠を押さえ、ネリオの指した先へ目を向けた。
「ぜひ。買って帰りたいので、舟の上でも状態を見せてもらえるとありがたいです」
ネリオは頷き、櫂を動かした。
葦の間から、水鳥が数羽飛び立った。誠吾は朝の冷たい風を頬に受けながら、籠を膝元へ引き寄せた。今日はまだ、何を作るか決めていなかった。




