第10話 鍋を積んで、大河の町へ
レドニアで最後の昼営業を始める前に、誠吾は品書きの下へ小さな紙を貼った。
『明日から旅に出ます。また、この市場へ戻ってきます』
書き終えて離れてみると、少しばかり大げさな気もした。それでも、何も知らせずいなくなるよりはいい。紙の端を留め直し、鉄板へ餃子を並べていくと、香り葱を抱えて通りかかった市場の男が足を止めた。
「昨日、うちの女房が聞いてきたよ。川灯祭へ行くそうだね。あっちは魚がいいから、店主さんには楽しみだろう」
「ええ。せっかくなので、向こうの市場もじっくり歩いてこようと思っています。戻ったら、何か新しいものを出せるかもしれません」
男は紙を読みながら頷き、昼には息子を連れてくると言って店へ戻った。
バセルからカルフェンの話を聞いた翌日も、火輪はいつもどおり営業した。旅立つことを客へ伝え、荷場のガルムにも、しばらく注文を受けられない旨を知らせてある。急ぎの食事なら赤鍋亭へ相談してみるという返事をもらい、誠吾は安心して出発の日を決められた。
今日は、その約束どおりの最終日だった。
鉄板の底から細かな焼け音が立ち始める。湯を注いで蓋をすると、白い蒸気が縁から噴き出し、厨房の中へ青玉菜と肉の匂いが満ちた。
昼前には椅子が埋まったが、別れを惜しむためだけに来たような客は少なかった。腹が減ったから飯を食べる。そのついでに行き先を尋ねたり、向こうで食べてくるといい料理を教えたりしてくれる。
誠吾には、そのくらいがありがたかった。
「セイゴさん、今日は大盛りを2つ。餃子は別々の皿でお願いします。こいつ、自分の分を数えながら食うようになったんで」
販売窓から顔を出したダリオが、後ろの仕事仲間へ親指を向けた。言われた男は抗議するでもなく、先に代金を置いた。
「人の皿へ手を伸ばす奴と食うなら、それくらいはしないとな。俺の炒飯には葱を多めにしてもらえると嬉しいです」
「葱を増やすなら、燻製肉も少し細かく切っておきましょう。最後まで一緒にすくえますから」
誠吾は注文を聞きながら、燻製肉へ包丁を入れた。厚いままだと噛み締める楽しさがあるが、細かくすれば卵と飯の間へ塩気が行き渡る。客の好みが分かってくると、同じ品書きでも手の入れ方は変わった。
熱した鍋へ卵を落とすと、縁が膨らむ。飯を加えて鍋肌へ広げ、固まりをほぐしてから燻製肉を入れた。脂が熱を受けてほどけ、煙の香りが立ち上がったところへ香り葱を散らす。
お玉を返すたび、黄色い卵と緑の葱が飯の間を移っていった。
盛り付けた皿を受け取ったダリオは、今日はすぐに口をつけず、隣の男が餃子を取るのを待っていた。
「帰ってきた日に、売り切れで食えないのは困りますね。市場の誰かにでも、ひと言知らせておいてください。荷場にもすぐ伝わりますから」
「戻ってきたら、まずエルダさんのところへ仕入れに寄りますよ。そこで翌日の営業を伝えておきます」
「それなら聞き逃しません。向こうでも、しっかり売ってきてください」
それだけ話すと、ダリオはいつもの速さで飯を食べ始めた。途中で隣の皿へ目を向けたものの、手は伸ばさなかった。
昼の混雑が引く頃には、用意した餃子も残りが見えていた。
誠吾は追加を仕込まず、売り切れた順に品書きへ線を引いた。明日の営業に備えなくていいと思うと、いつもとは違うところへ意識が向く。残った飯で自分の昼食を作り、片付けながら冷蔵庫の中を見直した。
食材は使い切ればいいというものでもない。次の土地へ着くまでに食べる分と、到着してすぐ注文を受けられる分は持っておきたかった。
営業を終え、洗い物まで済ませてから、誠吾はエルダの店へ向かった。
通りに面した籠には、朝よりもひと回り小さな青玉菜が残っていた。外葉は張っていて、切り口にも乾きがない。誠吾が手に取ると、エルダは空いた木箱を引き寄せた。
「旅に持っていく分なら、こっちの締まった玉も見ておくれ。大きさはないけど、積みやすいよ。葉の薄いのは、今夜のうちに使うなら甘くていい」
「それなら、締まったものをお願いします。向こうの魚と合わせてみたいので、少し多めに」
代金を数える誠吾の前へ、エルダは青玉菜を1つ余分に置いた。
「これは私から。娘が、あの祝いの料理をまた食べたいと言っていてね。嫁いだばかりで、もう実家へ来る用事を考えてるんだよ」
「気に入ってもらえたなら、作った甲斐がありました。戻ったら、ご主人と一緒に寄ってくださいと伝えてください」
誠吾は礼を言って受け取った。婚礼の席で料理が運ばれるたびに顔を上げていた娘の姿を思い出す。大勢に出す仕事は慌ただしかったが、最後の皿まできれいに空いた光景は、まだよく覚えていた。
野菜を積み終えると、車内の端末から米や調味料、包材、洗剤を補充した。使い慣れたものがいつでも買えるおかげで、土地の食材を買う金まで仕入れに縛られずに済む。
売上を分けて入れていた袋には、補充を済ませてもまとまった金が残った。
知らない食材を前に、値段を聞くだけで諦めなくていい。それが今は、何より頼もしかった。
◇
その夜、誠吾は赤鍋亭で夕食を取った。
ミレナが運んできたのは、灰羽鳥と根菜の煮込みだった。鍋からよそわれた汁は薄く白濁していて、匙を沈めると大きな肉が顔を出す。骨のそばまで柔らかく、噛むと煮汁とは別の濃い味が出てきた。
誠吾はパンで皿の汁を拭いながら、厨房から出てきたローデルへ目を向けた。
「この汁、鳥を煮ただけではないですね。前にいただいたものより、後に残る旨味が強い」
「焼いた骨を少し足した。肉の煮込みに使うなら、俺はこっちが好きでね。川の町へ行ったら、魚の骨を焼く店も探してみるといい。あっちは鳥より魚で汁を取る」
ローデルは空いた椅子へ腰を下ろし、川魚の焼き方や、港でよく使われる香辛料の話をした。誠吾も、酸実を甘酢へ使ったときの具合を話した。果肉を残すか、汁を漉すかで仕上がりが変わるという話になると、ローデルは店で使っている漉し布を持ってきた。
旅立ちの前夜でも、同業者が2人いれば、結局はそういう話になった。
「帰りに寄るときは、向こうで気に入ったものを少し持ってきてくれ。買い取るから、俺にも使わせてほしい」
「分かりました。料理にしてから食べてもらうつもりでしたが、材料も残しておきます」
ミレナは2人の間に置かれた布を片付け、誠吾の皿を見て笑った。
「次はセイゴさんが座ったら、こっちから料理の話を聞けそうね。お土産を探すあまり、食べ歩く時間までなくさないようにね」
図星を指された気がして、誠吾も笑った。仕入れのことを考え始めると、客として座る時間をつい後へ回してしまう。
明日は、まず自分が食べるために町を歩こうと決めた。
◇
翌朝、日除けをしまっていた誠吾のもとへ、ゼクトが現れた。
手にしていた包みには、牙尾猪の肉が入っていた。昨日仕留めたものから取った背の肉で、冷やした状態のまま運んできてくれたという。
「旅に出る前に、こいつだけ見せておこうと思ってな。脂が厚すぎないから、セイゴさんの鍋でも扱いやすいだろう」
誠吾は清潔な盆に受けて状態を確かめた。《食材眼》の示す鮮度にも問題はなく、切り口からは赤身のきめがよく見えた。
「いい肉ですね。これは買わせてください。向こうの葱や香辛料と合わせるのも面白そうだ」
量を見て代金を払い、肉を冷蔵庫へ収める。ゼクトはその間に、街道の様子を教えてくれた。
「東は森の中ほど見通しが悪くないが、川へ下りる手前に深い轍がある。祭りへ荷を運ぶ馬車も増えてるから、すれ違うときは道幅を見ておけよ」
「急ぐ旅でもありませんし、狭いところは待ちます。森では、また教わりたいこともあります。戻ってきたら声をかけますよ」
「そのときは、こっちの都合と天気を見て決めよう。獲物がいなくても、採れるものはあるからな」
ゼクトを見送ってから、誠吾は販売窓の留め具を確かめた。棚には滑り止めを敷き、鍋とお玉を固定する。折り畳んだ机と椅子も収まり、床に動くものがないかを最後に見回した。
いつも立っていた市場の一角が、販売窓を閉めただけでよそ行きの顔になった。
運転席へ座って窓を開けると、エルダが自分の店の前から手を上げた。隣の商人も、荷を下ろす手を止めてこちらを見ている。
「行ってきます。また寄らせてもらいます」
誠吾は届くように声をかけ、火輪をゆっくり動かした。
朝の荷馬車が通り過ぎるのを待ち、見慣れた通りから東へ曲がる。市場の屋根が後ろへ隠れ、町の外へ出ると、窓から入ってくる風に草の匂いが混じった。
走り出してしばらくは、荷物の音に耳が向いた。棚の中で皿がぶつからないことを確かめ、道の固さをタイヤ越しに探りながら速度を上げる。
火輪は、緩い坂道を重さを感じさせずに登っていった。
日本で旅に出たばかりの頃は、まだ道具の置き場所を変えるだけで半日使っていた。今は冷蔵庫に付き合いのある猟師の肉が入り、野菜の箱には農家からもらった青玉菜がある。机の引き出しには、この世界で稼いだ金が収まっていた。
前を走る馬車との間を十分に取り、誠吾は背もたれへ肩を預けた。町で鍋を振るのもよかったが、ハンドルを握るこの時間も、ずっと欲しかったものだった。
畑が途切れると、街道は低い丘の間へ入った。
ところどころに荷馬車が寄せられる広場があり、昼前には誠吾もそこで休んだ。車を出したまま、居住区で少し足を伸ばしてから、自分の食事を作る。
薄切りにした牙尾猪を焼き、青玉菜の芯を先に入れ、葉は最後に加えた。味付けは塩と醤油を少しだけにする。強い火を受けた葉の縁が透き通り、肉から出た脂をまとって艶を帯びた。
皿へ移すと、鍋底には野菜から出た汁がわずかに残った。誠吾はそれも飯へかけ、販売窓の内側に腰を下ろして食べた。
芯には歯応えが残り、噛むほど甘い。肉をひと切れ重ねると、塩気がちょうどよくなった。エルダにも、ゼクトにも、戻ったらこの食べ方を話してみようと思った。
隣で馬に水を飲ませていた旅商人が、窓から立つ匂いへ顔を向けた。
「いい昼飯ですね。カルフェンへ向かうなら、丘を越えた先から道が混みますよ。船の荷まで集まってきていますから」
「ありがとうございます。今日は下見をして、明日は市場を回ろうと思っています」
男は火輪の車輪を眺め、これなら馬を休ませず進めるのかと感心した様子だった。誠吾は曖昧に頷き、食後の茶を飲んでから出発した。
午後の道では、何度も速度を落とした。大きな樽を積んだ荷車や、祭り用らしい布を巻いた馬車が続き、歩いて向かう家族連れもいる。急に音を立てて馬を驚かせないよう、広い場所で道を譲ってもらった。
最後の長い坂を登り切ったところで、視界が開けた。
誠吾はアクセルから足を離した。
丘の下に、川が広がっていた。
向こう岸の木立が遠い。川面には幾筋もの光が走り、帆を畳んだ船が流れに沿って進んでいる。北から見下ろしたレドニアの川とは、まるで幅が違った。岸沿いに石造りの建物が並び、その屋根の上に倉庫らしい大きな棟がいくつも続いていた。
道の先で、男たちが長い竿へ布を取り付けている。町へ近づくにつれ、軒先には骨組みだけの灯り籠が増えた。子供が両手で運んでいるものは、鳥にも花にも見える。
川灯祭は、明後日からだった。
馬車なら2日ほどかかる道を、火輪は休憩を挟んでも夕方前に走り切った。
◇
カルフェンの川沿いでは、祭りの出店用に杭が打たれ、店を出す者たちが荷を広げていた。
誠吾は案内をしていた男に旅商人向けの区画を教わり、火輪を止められる場所を決めた。川の方から吹く風が抜ける、通りの端だった。隣では焼き物を売る女が、皿を布で拭いて並べている。
夕方から営業するつもりはなかったので、まずは歩いて周囲を見て回った。
船から運び出される袋には、乾いた香辛料の匂いが染み付いている。魚を下ろす台の向こうには、蓋を編み紐で縛った籠が重ねられていた。その1つが持ち上げられると、中で硬いものが擦れ合う音がした。
覗き込んだ誠吾の目が、赤褐色の殻に止まった。
大ぶりの川海老だった。指を近づけると長い触角が動き、尾を曲げた個体が籠の底を跳ねた。《食材眼》には食用に適することと、身の締まりがよいことが示された。
「明日の朝も、ここへ来れば生きたものを買えますか。料理に使いたいので、まとまった量を見せてもらいたいんです」
籠を置いた男は誠吾の手元を見てから、川上を指した。
「夜の仕掛けを朝に上げるから、日の出の少しあとなら揃ってるよ。味を見たいなら、そこの角で焼いて売ってる。殻を割る道具も貸してくれるから、まず食べてみるといい」
教わった露店では、鉄串に刺した海老が炭の上へ並んでいた。
誠吾は1本買い、脇の台で殻を割った。立ち上がった湯気から、香ばしさと甘い匂いが鼻へ届く。尾の身は厚く、歯を入れると弾力を返してから、ほろりと割れた。
塩だけで、十分うまい。
頭の中も少し味わい、指についた汁を布で拭く。隣では地元の男が、露店の主人から受け取った酸味のあるたれへ身を浸していた。誠吾も勧められるままに試すと、甘さのあとへ軽い辛味が残った。
明日は、このたれに使う実も聞いてみたかった。
火輪へ戻る道で、荷車を押していた男に声をかけられた。
「その車、レドニアの東市場に出ていた店ですよね。荷を届けた帰りに食べましたよ。米の飯と、底を焼いた包み料理を」
「ええ、火輪です。今朝、あちらを出てきました。こちらでも祭りの間、店を開くつもりです」
「それなら仲間に教えておきます。昼飯を食う店が増えるのは助かるんで」
男は出店場所を確かめると、荷車を押して倉庫の方へ戻っていった。
誠吾はその背を見送り、車内へ上がった。冷蔵庫を開けて明日の仕込みを考えると、今まで使っていた盆では、あの海老を並べるのに少し窮屈そうだった。
大きめの盆を棚から出し、作業台へ置く。指先には、殻を割ったときの香りがまだ薄く残っていた。
販売窓の向こうを船の影が通り、岸辺では灯り籠を吊るす仕事が続いている。
誠吾は窓を開けたまま椅子へ座り、海老を売る籠が片付けられていくのを眺めた。明日の朝、あそこから仕入れて、まずは殻を外した身と、殻ごと炒めたものを比べてみる。
鍋を置いたこの場所で、また違う昼飯が作れそうだった。




