51
市場は、昼前から賑わっていた。
『たまには休んでくださいね。命令ですからねこれは』
ミリアからの業務命令がでたので、本日の診察はお休み。
特にやることもなかったトーコは、村からほど近い街へ向かっていた。シルフィが肩の上にいる。
「きゅっ」
シルフィは苦情を言いたいのか、何度もトーコの髪をついばんでいる。
どうやら最近ふたりでお散歩の時間をとってくれなかったのが不満のようだ。
「仕事で忙しくて、ごめんね」
街へと到着する。辺境の街だが人の往来はそこそこだ。
路地の角を曲がったとき、人だかりに気づいた。
何人かが集まって、下を見ている。声が聞こえる。
「馬車に跳ねられたんか」
「かわいそうに……」
「でも奴隷だろ。どうせ捨てるんじゃないか」
トーコが人垣を掻き分けた。
路上に、少女が倒れていた。
十三、四歳だろうか。小柄で、ひどく痩せている。服はぼろぼろで、首に金属の輪がある。奴隷の首輪だ。
顔や腕に、傷がある。新しい傷ではない。長い間、ろくに食べず、ろくに休まずにいた体だ。
呼吸がない。
傍に、太った男が立っていた。商人らしい格好で、面倒くさそうに腕を組んでいる。
「馬車とぶつかりやがって。どうせ死んでんだろ。こんなボロ、もう要らねえよ」
「捨てるのか」
「ああ。こんなとこに置いといても邪魔だし、さっさと行くか」
男が背を向けようとした。
命を粗末に扱おうとしてる、この男を、トーコはどうしても許せなかった。
「待ちなさい」
トーコが言った。
男が振り返る。
「なんだ、あんた」
「この子は、まだ生きています」
男が鼻で笑った。
「呼吸もしてないのに何言ってんだ。さっさとどいてくれ」
「どきません」
トーコはすでに少女の傍に膝をついていた。
◇
頸動脈に指を当てた。
微弱だが、脈がある。心臓はまだ動いている。しかし呼吸が止まっている。このまま時間が経てば、本当に死ぬ。
「まだ生きています」
周囲がざわめいた。
「呼吸してないぞ」
「でも脈があります。今から処置します」
「……何をするつもりだ」
男が不快そうに言った。
「どうせ死ぬのに手間をかけるな。こっちは忙しいんだ」
「黙っていてください」
トーコが少女の体を仰向けに整えた。気道を確保する。頭を後ろに傾け、あごを持ち上げる。
人工呼吸を二回行った。
胸が動いた。空気が入っている。
次に、胸骨の上に両手を重ねた。
「……なにをするんだ」
「心臓を動かします」
「胸を押すのか。つぶれるぞ」
「つぶれません」
圧迫を始めた。
一、二、三、四。
一定のリズムで、強く、深く押す。前世で何千回と繰り返した動作が、手に刻まれている。
五、六、七、八。
「な……何をしてるんだ」
「心臓が止まりかけている。外から押すことで、血液を体中に送ります」
「そんなことをしても……」
「黙ってください。数えているので」
九、十、十一、十二。
周囲の人間が、息を呑んで見ていた。誰も動かなかった。邪魔をしてはいけないと、本能的に感じているのだろう。
シルフィが飛び立ち、周囲に結界を張った。清潔な空気の膜が、音もなく広がった。
十五、十六、十七、十八。
また人工呼吸を二回。
また圧迫に戻る。
一、二、三、四。
男が「時間の無駄だ」と言った。
誰かが「静かにしろ」と言った。
五、六、七、八。
少女の顔が、蒼白のままだった。
九、十、十一、十二。
それでも、手を止めなかった。
前世の外科医として培った知識が言っている。心臓が止まっても、すぐに死ぬわけではない。脳への血流が保たれていれば、蘇生できる可能性がある。時間との勝負だ。
十五、十六、十七、十八。
人工呼吸。
また圧迫。
一、二、三。
少女の体が、動いた。
咳をした。
小さな、かすれた咳だった。
しかし、確かに動いた。
◇
ごほっ、ごほっ、と少女が咳き込んだ。
胸が、上下し始めた。
自分で、呼吸をしていた。
周囲が、静まり返った。
「……息をしてる」
「呼吸が戻った」
「死んでたんじゃないのか」
「奇跡だ……」
誰かが呟いた。
「奇跡ではありません」
トーコが静かに言った。
「技術です」
少女の脈を確認する。弱いが、安定してきている。顔に、少し血の気が戻り始めた。
「あ、あんた……今、何をしたんですか」
街の人がトーコに問いかける。
「心肺蘇生です。心臓が止まりかけているとき、外から圧迫して血液を送り続けることで、蘇生できる場合があります。同時に、人工的に呼吸を補助しました」
「外から押すだけで、心臓が」
「心臓は筋肉でできています。外から正しい圧力をかけることで、代わりに血液を送ることができます。完全に止まる前に処置できれば、自分で動き始めることがある」
街の人たちは、トーコの知識に深く感心してるようだ。
「……知らなかった。そんな方法があるとは」
「この世界では、まだ知られていません。でも、できます」
男が、また口を開いた。
「……じゃあ、生き返ったんなら引き取るか」
その声に、周囲の空気が変わった。
「捨てると言ったのに」
誰かが低く言った。
「生き返ったら引き取るのか」
別の声が続いた。
男が「なんだよ、俺の奴隷だろ!」と言いかけた。
「待て」
静かな声がした。
ライナルトだった。
巡察の途中だったのか、騎士が一人ついている。人だかりを見て、足を止めていたらしい。
「辺境伯……」
男の顔が青ざめた。
「捨てると言った。自分の口で言ったな」
「そ、それは……」
「捨てた時点で、その者との主従関係は消えた。今は先生の患者だ。引き取る権利はない」
「しかし……」
「異論があれば、正式に申し立てろ。ただし、その前に馬車との事故について、こちらも調べる必要がある。馬車の御者が誰で、なぜこの子がぶつかったのか」
男が、唇を噛んだ。
それ以上、何も言わなかった。
やがて、人垣の中に消えていった。
◇
少女を病院に運んだ。
入院室のベッドに寝かせ、改めて状態を確認する。
肋骨に軽い打撲。頭に擦り傷。しかし骨折はない。脳への影響も、今のところは見られない。
それより深刻なのは、全体的な栄養状態だった。
血液検査を行うと、数値が軒並み低い。長期間、ろくに食べていなかった。体が、限界に近かった。馬車との衝突がなくても、いつか倒れていたかもしれない。
「点滴を。栄養補給が最優先です」
「はい」
ミリアが器具を準備した。
しばらくして、少女が目を開けた。
天井を見た。それからトーコを見た。
怯えていた。
目が、すくんでいた。助けてもらったとわかっていても、体が反射的に縮こまっていた。長い間、そういう場所にいたのだろう。
「大丈夫ですよ」
トーコが静かに言った。
「ここは安全です。誰もあなたを傷つけません」
少女が、じっとトーコを見た。
信じていいのか、まだわからない顔をしていた。
「怖くなくなったら、話してください。今は休んでいいです」
少女が、ゆっくりと目を閉じた。
◇
夕方、少女が再び目を覚ました。
ミリアが傍についていた。
「気分はどうですか」
「……少し、楽です」
「良かった。お腹、空いていますか」
「……はい」
「じゃあ、スープを持ってきます。少しずつ食べましょうね」
ミリアが立ち上がりかけたとき、少女が小さな声で言った。
「あの……」
「なんですか」
「……名前を、聞いていいですか。助けてくれた人の」
「トーコ先生ですよ。この病院の院長です」
「……トーコ先生」
少女が、その名前を繰り返した。
「私は……リィといいます。名前、ずっと呼ばれてなかったから……久しぶりに言った」
ミリアが、目を赤くした。
「リィさんですね。覚えました」
「……ここに、いてもいいですか」
「もちろんです。治るまで、ゆっくりしていてください」
リィが、また目を閉じた。
今度は、少し穏やかな顔をしていた。
◇
病室を出たとき、ライナルトが廊下にいた。
「回復しそうか」
「栄養状態が深刻です。時間はかかりますが、治ります」
「そうか」
「あの子の今後については、閣下にお願いしなければならないことがあります」
「わかっている。追って話そう」
ライナルトが少し間を置いた。
「先ほどの処置……心臓を外から押す方法。初めて見た」
「前世の知識です」
「あれで、死にかけた者が戻ってくるのか」
「条件が合えば。全員が助かるわけではありません。でも、何もしなければ死ぬだけです」
「……そうだな」
ライナルトが、静かに言った。
「あなたが来なければ、あの子は路上に置かれたままだった」
「たまたま通りかかりました」
「たまたまではない」
「たまたまです」
「……頑固だな」
「そこだけは」
ライナルトが、かすかに笑った。
トーコは病室に戻るのだった。
【おしらせ】
※9/4(金)
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