05.
ミリアが治療院に来て、十日が経った。
朝の準備が終わる頃にはもう待合室が整っていて、患者が来れば名前と症状を手際よく記録して渡してくる。薬の受け渡しも、在庫の管理も、気がつけば自分から動くようになっていた。
ガルドが薬棚を整理しながら、ぼそりと言った。
「別人みたいだな」
「仕事ができる方でしたから」
トーコが答えると、近くで記録をつけていたミリアが顔を上げた。
「聞こえていますよ」
「聞こえるように言っています」
ミリアが少し、照れくさそうに視線を逸らした。
ガルドが目を細める。辺境伯の使用人として派遣されてきたはずの娘が、今では誰より早く治療院の戸を開けている。人というのは変わるものだ、とガルドは思った。
◇
午後の診察が一段落した頃、戸を叩く音がした。
ミリアが対応に出て、そのまま固まった。
「……閣下」
「入っていいか」
ライナルトだった。騎士団長を連れず、一人で来ている。ミリアが慌ててトーコのところに駆け込んできた。
「先生、閣下がいらしています」
「通してください」
「あの……閣下がご自分でいらっしゃるのは、普通ではないんですよ」
耳打ちするミリアに、トーコは少し首を傾げた。
「そうなんですか」
「屋敷に呼びつけるか、使いを寄越すのが普通で……ご自分で来るなんて、私、初めて見ました」
「そういうものですか。どうぞ、と伝えてください」
ミリアが何か言いたそうな顔をしたが、戸口に戻った。
◇
ライナルトが診察室に入ってきた。
外套を脱ぎ、椅子に座る。所作に無駄がない。
「縫合部位の経過確認に来た」
「拝見します」
トーコは傷を確認した。魔力視を開くと、組織をめぐる魔力が均一に広がっている。
「ほぼ完治です。動かしても問題ありません」
「そうか」
ライナルトが治療院を見回した。開院当初より棚が増え、器具が整然と並んでいる。待合室から、患者たちの穏やかな声が聞こえてくる。
「随分、様子が変わったな」
「患者が増えましたので」
「ミリアもよく動いている」
「優秀な方ですよ」
ライナルトが少し、口元を動かした。笑ったのか、そうでないのか、判然としない。
「あいつが自分から動くのは、珍しい」
「そうなんですか」
「屋敷では、言われたことだけやる子だった」
トーコは器具を片付けながら、言った。
「ここでは、言われる前にやることがたくさんありますから」
ライナルトが、少し間を置いた。
「……居心地がいいのだろう」
それだけ言って、視線を窓の外に向けた。
◇
診察が終わり、トーコは少し考えてから口を開いた。
「閣下、一つ提案があるのですが」
「なんだ」
「定期的な健康診断をされてはいかがですか」
ライナルトが、静かにトーコを見た。
「健康診断?」
「はい。病気や不調は、症状が出る前から体の中で始まっています。自覚がない段階で見つければ、対処がずっと簡単になります」
「……そういうことができるのか」
「血液検査と魔力視を合わせれば、ある程度は」
ライナルトが腕を組んだ。
「治癒師には、そういう診方はできないと聞いたことがある」
「治癒魔法は、出た症状を抑えることに長けています。出る前には使えません。私の診方は少し違います」
トーコは続けた。
「この街の辺境伯が倒れれば、困るのは街の人たちです」
ライナルトが、わずかに目を細めた。
「……私の言葉を返されたな」
「参考にしました」
一拍の間があった。
ライナルトが、今度ははっきりと口元を緩めた。低く、短く、笑った。
廊下の向こうで、気配が動いた。
◇
「聞こえてた……!」
ミリアがガルドの袖を引いた。こそこそと、しかし目が輝いている。
「先生、閣下に言い返してる。怖くないんですか、あの人」
「先生は誰にでもああだ」
ガルドがお茶を一口飲んだ。
「患者に貴賎はない、らしい」
「……すごい人だ」
ミリアが廊下の壁にもたれ、小声で呟いた。診察室の中からは、静かな会話が続いている。
「閣下もなんか、あそこだと普通の人みたいな顔してる」
「そうだな」
「……なんでかな」
「さあな」
ガルドは薬棚に向き直った。
◇
「では、今日やってみますか」
トーコが言うと、ライナルトが少し表情を変えた。
「今日か」
「準備はできています。時間はありますか」
「……ある」
「では始めましょう」
トーコは器具を取り出した。細い針、ガラス管、遠心分離の機械。ライナルトがそれを、静かに眺めた。
「指先に少し刺します」
「構わない」
針を当てた瞬間、ライナルトは眉一つ動かさなかった。血がにじむ。ガラス管に取って、機械にかける。
「これは……」
「血液を分離しています。上の層が血漿、下が赤血球です」
ライナルトが、初めて見るものを見る目で管を眺めた。
「血が、分かれる」
「回転させることで成分が分離します。次に試薬を混ぜます」
血漿に一滴。色が変わっていく。ライナルトが、その変化を黙って見ていた。
「色が変わる……これが、何を示すのか」
「成分によって反応が違います。栄養状態、炎症の有無、臓器への負担。色の濃淡で読み取ります」
「……魔法ではないのに、魔法のようだ」
「知識と観察です」
血液検査の後、トーコは魔力視を開いた。ライナルトの体内を流れる光を、丁寧に確認していく。
臓器の色は健康だ。血管の流れも淀みがない。戦場で鍛えた体は、それだけ頑強だった。
ただ、一箇所。
「睡眠が足りていません」
ライナルトが、僅かに表情を動かした。
「……わかるのか」
「疲労の蓄積が見えます。夜に回復しきれていない色をしています」
「辺境の守護は、休む暇がない」
「それでも」
トーコは顔を上げた。
「休まなければ、体が先に限界を迎えます。今は問題ありませんが、このままでは数年で影響が出ます」
ライナルトが黙った。
しばらく、静かだった。
「……わかった」
「数年後でなく、今から少しずつ改善してください。劇的な変化は必要ありません。一日に少し、眠る時間を確保するだけでいい」
「医師の命令か」
「お願いです」
ライナルトが、また口元を動かした。
◇
診察が終わり、ライナルトが外套を手に取った。
「定期的に来い、ということか」
「月に一度、来ていただけると助かります」
ライナルトが少し間を置いた。戸口の方を向いたまま、低い声で言った。
「……来てもいいか」
トーコは少し、首を傾げた。
「患者さんはいつでも」
「患者としてではなく」
短い沈黙が落ちた。
トーコは視線を手元の器具に向けた。頬が、少し熱い気がする。
「……診察以外の理由で来る方には、お茶くらいは出せます」
ライナルトが静かに頷いた。
「では、また来る」
立ち去り際に、振り返らずに言った。
「体に気をつけろ」
トーコが顔を上げたときには、もうその背中しか見えなかった。
◇
扉が閉まった瞬間、廊下からミリアが飛び込んできた。
「聞こえていました……! 先生、今のって」
「診察の話です」
「絶対違います!!」
ミリアが両手で口を押さえ、それでも目が笑っている。
「お茶を出せますって……先生、それ、わかってて言いましたよね」
「器具の片付けを手伝ってください」
「もう……!」
ミリアが笑いながら動き出す。ガルドがお茶を一口飲んで、何も言わなかった。
肩の上でシルフィが「きゅ」と鳴いた。
魔力視に映るのは、温かくて、少し意地悪な翠の光だ。
——何が言いたいのかは、今日も聞かないことにした。
トーコは次のカルテを手に取り、窓の外に一度だけ目をやった。
デッドエンドの夕暮れが、石畳を橙色に染めていた。
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