04.
ミリアが治療院に来て、数日が経った。
朝の準備、待合室の案内、カルテの記録。
ミリアは最初、要領を掴めずにいたが、今では手順を覚えて動けるようになっている。仕事が早い。覚えも早い。
ただ、一つだけ、ずっと気になっていることがあるらしかった。
「先生」
器具の並べ替えをしていたミリアが、おずおずと声をかけてきた。
「聞いていいですか」
「どうぞ」
「先生って……どうしてあんなに正確にわかるんですか」
トーコが振り返る。
「何が」
「患者さんの体のことです。どこが悪いかすぐわかる。昨日の患者さんも、一目見て『肝臓です』って言ってたじゃないですか。なんで? 鑑定スキルを持ってるわけでもないのに、どうやって」
トーコは少し考えた。
「気になります?」
「はい。看護師として、教えてほしいです」
◇
最初の患者は、顔色の悪い中年の男性だった。
問診を終えると、トーコは細い針を取り出した。指先に軽く刺し、にじんだ血を小さなガラス管に取る。
「な……何をするんですか」
ミリアが思わず声を上げた。
「血液検査です」
トーコはガラス管を遠心分離の器具にかけた。小さな手回しの機械で、ガルドと試行錯誤しながら作ったものだ。しばらく回すと、管の中の血液が二層に分かれる。上が淡い黄色の液体、下が濃い赤だ。
「上の層が血漿です。血液の液体部分」
「は……はい」
「これに、試薬を混ぜます」
トーコは棚から小瓶を取り出した。乾燥させた薬草を粉末にして調合したものだ。配合はトーコが前世の知識で考案し、ガルドが薬草を選んで用意した。二人で何度も試して、ようやく安定した精度が出るようになったものである。
血漿に試薬を一滴垂らす。
混ざり合いながら、色が変わっていく。
「色の濃淡で、血液の成分がわかります。鉄分、栄養、炎症の有無……それぞれ対応する試薬の色反応が違う」
ミリアが、息を呑んで覗き込んだ。
「……薄……い?」
はっきりとは、わからない。でもよくよく目をこらして見れば……少し薄い……ようにも見える。だが、誤差のようにも見える。
通常の視力では、この微細は色の変化を、正確に捉えることはできない。しかし、トーコの魔力ゼロの目は……はっきりと、色の違いが見えるのである。
魔力は特徴として、光る。魔力への感受性が高いということは、つまり、(魔力)光への感度も高いということだ。
トーコの目は、色の、本当に微細な違いを、誰よりも正確に把握できるのである。
「そうです。この色は鉄分が不足しているときの反応です」
トーコは男性に向き直った。
「貧血です。疲れやすくはないですか」
「あ、ああ……最近、やたら息が上がって」
「食事で鉄分を補うのが一番ですが、すぐには追いつかないので薬も出します」
男性が帰った後、ミリアがまだ試験管を眺めていた。
「……すごい。これだけで、わかるんですか」
「わかることと、わからないことがあります」
「わからないことも?」
「血液検査だけでは、体の構造的な異常は見えません。骨や臓器の形が歪んでいるとか、どこかが圧迫されているとか。そこは別の方法で診ます」
「別の方法……」
ミリアが首を傾げた。
◇
次の患者は、腹部の痛みを訴える若い女性だった。
問診を取り、血液検査をする。炎症反応を示す色が出た。しかし、どこが炎症しているかまでは血液検査だけでは追えない。
トーコは目を細めた。
魔力視を開く。
体内を流れる魔力の光が、視界に広がる。健康な臓器はそれぞれ固有の色で、穏やかに脈打っている。血管に沿って流れる光は、川のように規則正しい。
ただ、一箇所だけ。右の下腹部に、滞った光がある。濁った赤色で、熱を持ったように揺れていた。
「右の下腹部が痛みますか」
女性が驚いた顔をした。
「……はい。どうしてわかるんですか」
「そこの魔力の流れが、滞っています」
トーコはミリアに向いた。
「そもそも、魔力が流れる、とはどういうことでしょう」
「どう……とは?」
「体の中で練った魔力を、魔法としてアウトプットする。それが、この世界の常識です。ですが……じゃあ魔力はどうやって、体を巡ってると?」
(確かに……血は血管を流れる。水も川を流れる。つまり、流れるものには通り道が必要。魔力は体内を流れるとどの教本にも書いてある……)
しかし、では具体的に魔力は、体内のどこを流れると、書いてはいないのだ。
「答えは、細胞です」
「さいぼう……?」
「はい。四肢、臓器、それらは極小の細胞という粒が集まってできております。細胞同士は結合しており、練った魔力はこの細胞の中を流れていくのです」
剣と魔法のファンタジー世界。文明レベルは中世。そんな現地人のミリアに、現代の化学知識は、神の書物の内容に等しかった。
完璧に、理解はできなかった。
「魔力が細胞を介して伝播する以上、細胞に不調……たとえば壊死していたりすると、その流れが滞ることになります」
つまり、とトーコは続ける。
「体の中を流れる魔力は、臓器や血管の状態を映します。健康なときは、それぞれの場所に合った色で、淀みなく動いている。不調があると、そこだけ流れが滞る。濁る。熱を持つ」
「……つまり」
「体の中の地図が、見えています。血液検査が数値なら、魔力視は地図です。両方合わせると、かなり正確に診断できます」
ミリアが、ゆっくりと目を瞬かせた。
「それって……すごくないですか」
「前世では機械がやっていたことを、目でやっているだけです」
「前世……?」
トーコが一瞬止まった。
ガルドが薬棚の整理をしながら、ぼそりと言った。
「気にするな。先生はたまにそういうことを言う」
「は、はあ……」
トーコは話を戻した。
「血液検査でわかること、魔力視でわかること、そして問診。この三つを合わせます」
「問診も、ですか」
「患者さん自身の話が、一番大事な場合があります。いつから、どんなふうに、何をすると悪化するか。機械にも、目にも、見えないことが言葉の中にあります」
ミリアがまた、こっそりとメモを取り始めた。
◇
午後、冒険者風の若い男が飛び込んできた。
脂汗をかいて、腹を押さえている。ミリアが慌てて椅子に座らせた。
「いつからですか」
「三日前から……最初は少し痛い程度だったんですが、今朝から急に」
「治癒魔法は」
「昨日、かけてもらいました。でも全然治らなくて」
トーコは即座に魔力視を開いた。
右の下腹部。強い赤。熱を持った光が、周囲に滲み出している。
——虫垂炎だ。しかも、進行している。
血液検査を素早く行う。炎症反応が強く出た。数値が高い。
「今すぐ処置が必要です」
「しゅ、手術ですか」と、ミリアが青ざめた顔で聞いた。
「ええ」
冒険者が引きつった顔をした。
「腹を、開くのか……」
「開きます。ただ」
トーコは続けた。
「魔力視で場所が正確に見えているので、切開は最小限で済みます。闇雲に開く必要はありません」
「魔力視で……」
「治癒魔法をかけ続けても、これは治りません。膿が広がる前に取り除く必要があります」
男が、しばらく天井を見た。それから、諦めたように息を吐いた。
「……わかった。頼む」
トーコはミリアに向いた。
「助手をお願いします」
ミリアが目を丸くした。
「わ、私がですか」
「器具を渡すだけでいいです。私が言ったものを、順番に」
「……はい」
◇
シルフィが静かに飛び立ち、処置室に風の結界を張った。
麻酔薬を飲ませ、男が眠りに落ちる。シルフィが一定のリズムで羽ばたき、清潔な空気を送り続ける。
ミリアは処置台の横に立ち、器具のトレイを持った。手が少し震えている。
「緊張していますか」
「……しています」
「器具の名前を確認しましょう。これが」
トーコが一つずつ説明した。何のための道具か、どの順番で使うか。ミリアが唇を噛みながら、頷いていく。
処置が始まった。
魔力視が、体内の構造を鮮明に映す。虫垂の位置、周囲の血管、神経の走行。見えているから、迷わない。手が、正確に動く。
「メス」
「はい」
「鉗子」
「は、はい」
ミリアの声が、少しずつ落ち着いてきた。
ガルドが横で処置の経過を記録しながら、ちらりとミリアを見た。青い顔をしながら、それでも手を止めない。
一刻後、処置が終わった。
トーコが器具を置き、立ち上がった。
「終わりました」
ミリアがその場にへたり込んだ。
「……終わった」
「お疲れ様でした。よく動けました」
ミリアが、ぼうっとした顔でトーコを見た。
「先生は……緊張しないんですか」
「します」
「え」
「ただ、緊張したまま手を動かす練習を、前世でたくさんしました」
ミリアが少し、呆気にとられた顔をした。それから、疲れた笑みを浮かべた。
◇
夜、器具を洗いながら、ミリアがぽつりと言った。
「先生の目って、なんなんでしょう」
「ただの目ですよ」
「そんなわけないじゃないですか。魔力もないのに、みんなより体の中が見えてる」
トーコは少し考えてから、言った。
「魔力がないから、見えるのかもしれません」
ミリアが首を傾げた。
「魔力を持つ人は、自分の魔力を通して世界を見ています。色眼鏡みたいなものです。私は何も持っていない。だから、そのままが見える」
ミリアがその言葉を、しばらく噛み締めた。
「……じゃあ、魔力ゼロって、弱点じゃなくて」
「弱点ですよ」
トーコはあっさり言った。
「治癒魔法は使えない。ポーションも作れない。この世界でできないことの方が多い」
「でも」
「でも、これがあります」
トーコは自分の目を指した。
「それで十分です」
◇
ミリアが帰り、ガルドも戻った後。
トーコは一人、カルテを整理した。
肩の上でシルフィがうとうとしている。魔力視に映るのは、穏やかな翠の光だ。満ち足りた、静かな色。
今日診た患者の顔を、一人ずつ思い返す。
貧血の男性。腹部の女性。虫垂炎の冒険者。それぞれに、それぞれの不調があった。魔法では届かない場所に、自分の目と手は届いた。
——この目があれば、まだやれる。
トーコは次のカルテを開いた。
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