46.
使いが来たのは、夜明け前だった。
激しく戸を叩く音で、ミリアが起きた。
扉を開けると、若い男が立っていた。顔が青白い。息が上がっている。
「デッドエンドの病院はここですか……! 隣の村が、大変なことになっていて……!」
ミリアがトーコを呼んだ。
トーコが出てくるまで、二分かからなかった。
◇
村に着いたのは、夜が明けきる頃だった。
馬を降りた瞬間、状況が見えた。
村の広場に、人が横たわっていた。家の中からも、呻き声が聞こえる。子供、老人、大人、関係なく倒れている。
使いの男が言った。
「昨日の夕方から始まって。下痢と嘔吐が止まらなくて、今朝には動けなくなった人が出て。治癒師を呼んだんですが、魔法をかけても止まらなくて」
トーコが魔力視を開いた。
患者たちの体内に、治癒魔法の残滓がある。すでに誰かが処置した後だ。しかし、何かが残っている。濁った黄色の光が、腸の周辺に滞っている。
毒だ。
「みなさんが昨日、共通して食べたものは何ですか」
「昨日の夕食です。みんな同じ鍋を食べて……」
「何が入っていましたか」
「野草の煮込みで。灰色蔓草の実を入れたと思います。いつも食べているものですが」
トーコが、少し目を細めた。
「灰色蔓草の実は、毒抜きが必要ですか」
「はい。水に晒してから使います。いつもそうしていたんですが……今年は、何か違ったのかもしれません」
「今年は実が例年より大きかったですか」
「言われれば……そうかもしれません」
「豊作の年は、毒が濃くなることがあります。いつもの時間では毒が抜けきれなかったと思います」
男が「そんな……」と呻いた。
「治癒魔法では、この毒素に直接届きません。毒を体の外に出しながら、脱水を防ぐ必要があります。今すぐ始めます」
トーコが振り返った。
「セラさん、浄化を使える準備を。ガルドさん、解毒薬を。ミリアさん、補液の器具を全部出してください」
◇
処置が始まった。
補液の管を一人ずつ通していく。失われた水分と塩分を、直接血液に届ける。
セラが患者の傍に座り、浄化魔法で毒素の排出を補助した。
「今、どのくらい出ていますか」
「少しずつ出ています。腸の周りの濁りが、薄くなってきています」
「続けてください」
ミラが別の患者に補液を行いながら、状態を確認していた。子供の患者が不安そうにしているのを見て、「大丈夫ですよ」と声をかけていた。
ガルドが解毒薬を調合し、飲める状態の患者には直接飲ませた。
そこへ、馬の蹄の音がした。
ダーグだった。集落の若者を五人連れている。
「先生、知らせを聞いて来ました。手伝えることをします」
「補液の補助をお願いします。やり方は教えます」
「先月習いました。やります」
ダーグが仲間に指示を出し、動き始めた。先月の実技が、今ここで使われていた。
しばらくして、八宝斎が荷馬車で来た。
「輸液の管が足りないかと思って、追加で持ってきた。あと、ガーゼも」
「ありがとうございます」
「あたしにできることはそのくらいだから。頑張って」
夜が明け、昼になり、午後になった。
一人、また一人と、顔色が戻り始めた。
子供が、点滴の管を見ながら「お腹が少し楽になった……」と言った。
母親が泣いた。
老人が「水が、飲めた……」と言った。
一人ずつ、確実に回復していく。
トーコは、一人ひとりを確認しながら動き続けた。
◇
夜になった。
外の灯りの下で、まだ処置が続いていた。
ミリアが「先生、少し休んでください」と言った。
「もう少しです」
「それをさっきも言っていました」
「あと十人確認したら」
「先生……」
トーコが、次の患者のところに向かおうとして、足が止まった。
頭が、重かった。
視界が、少し揺れた。
——ああ。
思った瞬間、膝が折れた。
「先生……!」
ミリアの声が、遠くなった。
地面が、近くなった。
誰かが、受け止めてくれた。
◇
診察室のような場所だった。
いや、村の宿だ。布団の上に寝かされている。
ミリアの声がした。
「ガルドさん、先生の状態は」
「過労と、毒素の軽度な吸入だ。補液を施した。意識が戻れば大丈夫だ」
「でも……」
「わかっていた。先生は自分のことを後回しにする。いつかこうなると思っていた」
セラの声がした。
「状態を確認します。魔力視の代わりになるかわかりませんが、治癒魔法で……腸に軽い炎症。脱水は補液で補われています。今は眠れていれば、大丈夫です」
「患者たちは」
別の声がした。
ライナルトだった。
「全員、安定している。先生が倒れたと知らせを受けて来た」
「閣下が……」
「先生がいない間、できることをやる。問題はないか」
「みんな動いています」
「そうか」
◇
ライナルトが、その場を仕切った。
「先生がいなければ何もできない、ではいけない。先生が教えてくれたことを、今使う」
ミリアが患者の対応をした。ガルドが薬を調合した。セラが診断を担当した。ダーグと仲間たちが補液の補助を続けた。ミラが子供の患者についた。
一人ひとりが、自分のできることをやった。
ライナルトが全体を見ながら、足りないところを補った。
処置が続いた。
夜が、明け始めた頃、最後の重症患者の顔色が戻ってきた。
「……安定しました」
セラが言った。
ライナルトが、トーコが眠っている部屋に戻った。
椅子を引いて、傍に座った。
何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
◇
目が覚めたのは、朝だった。
天井が見えた。見慣れない天井だ。
体が重い。しかし、昨夜のような灼けるような疲労ではない。
「……患者は」
「全員、安定しています」
ライナルトが、椅子から言った。
トーコが、ゆっくりとライナルトを見た。
「誰が」
「みんなです」
ドアが開いて、ミリアが入ってきた。
「先生……! 良かった……!」
「ミリアさん」
「先生が倒れてから、みんなで続けました。セラさんが診断して、ガルドさんが薬を作って、ダーグさんたちが補液を手伝って、ミラさんが子供の患者につきっきりで……全員動きました」
「ガルドさんは」
「今、患者の最終確認をしています」
「セラさんは」
「同じです。閣下が全体を見てくれていました」
トーコは、しばらく何も言えなかった。
「先生が教えてくれたことを、みんなで使いました。先生がいなくても、できました」
ミリアの目が、赤くなっていた。
「先生、ありがとうございました。ここまでにしてくれて」
「私は」
「先生がここまで積み上げてきたから、みんなが動けたんです。先生がいなくてもできたのは、先生がいたからです」
トーコが、目を閉じた。
胸の奥が、じんとした。
「休め」
ライナルトが言った。
「でも、患者の確認が」
「休め」
「しかし」
「休め」
三度言われて、トーコは黙った。
「……はい」
「今日は動くな。全部、任せろ」
「……わかりました」
ライナルトが、立ち上がった。
「何か必要なものがあれば言え」
「……お水を、いただけますか」
「すぐ持ってくる」
扉が閉まった。
ミリアが「先生って、最後は素直なんですよね」と言った。
「疲れているだけです」
「そういうことにしておきます」
シルフィが、枕元で「きゅ」と鳴いた。
魔力視に映るのは、穏やかな翠の光だ。温かい色だ。
——よかった、と言っている気がした。
「……ありがとう」
トーコは小さく言った。
窓の外から、村の朝の音が聞こえてきた。
◇
翌日、回復した村人たちがお礼を言いに来た。
子供が「先生、元気になった!」と言いながら走ってきた。
「よかった」
「お腹、全然痛くない。ありがとう!」
「みなさんが治りました」
「せんせーのおかげじゃん」
「みんなの力です」
老人が深く頭を下げた。
「先生、本当に……ありがとうございました」
ミリアが後ろで「そこは先生のおかげです、と言ってください」と言った。
「みなさんの力です」
「先生……」
「でも」
トーコが少し間を置いた。
「……嬉しかったです。みんなが動いてくれて」
ミリアが、目を押さえた。
「先生が素直なこと言った……!」
「一度くらいは言います」
ガルドが「一度でいい、また言うな」とぼそりと言った。
セラが笑った。ミラが笑った。ダーグが笑った。
シルフィが「きゅ」と鳴いた。
その瞬間、手首の内側の紋様が、これまでより強く輝いた。
光が、しばらく消えなかった。
誰も気づかなかった。
ただトーコだけが、それを感じていた。
——何かが、始まる気がした。
デッドエンドの朝が、静かに広がっていた。




