45.
ダーグが病院に来たのは、朝の診察が始まる少し前だった。
今日は一人ではなく、六人を連れていた。二十代の若者が三人、三十代の女性が二人、そして十歳くらいの子供が一人。全員、鬼族の特徴である角と金色の目を持っていた。
待合室に案内すると、子供が病院の中をきょろきょろと見回した。
「すごい……でっかい」
「先週から来てる子です。一緒に来たがって」
ダーグが言った。
「先生に会いたいって言って聞かなくて」
「どうぞ」
トーコが血液検査の準備をした。
全員の数値を順番に確認していく。腸の状態を魔力視で見る。
「……良くなっています。全員、数値が戻ってきています」
「本当ですか」
「乳を断ってから、ずっと腹を下さなくなりました。やっと普通に食事が楽しめるようになって」
「良かったです」
「先生のおかげです」
「掟の理由がわかったことで、皆さんが守れるようになったからです」
子供が、トーコの手元をじっと見ていた。
「なにしてるの?」
「血液検査です。血の中を調べています」
「血を調べると、わかるの?」
「いろいろわかります」
「すごい」
子供が、目を輝かせた。
◇
検査が終わり、ダーグが少し改まった顔をした。
「先生、一つ相談していいですか」
「どうぞ」
「集落のことなんですが……うちは遊牧民なので、各地を移動しながら生きています。だから、怪我や病気をしても、近くに医師がいないことが多くて」
「そうですね」
「治癒師に頼もうとしても、鬼族だからと断られることも多いし、そもそも遊牧民は一か所に長くいないので、慣れた医師を持つことができない」
「なるほど」
「先生のような方が、移動しながら診てくれれば、と思うんですが……それは無理な話で、ここに来ることもできない時の方が多いし」
ダーグが、少し頭を下げた。
「どうにもならないんですかね、とただ思っていて。愚痴みたいなものですが」
「愚痴ではありません」
トーコが言った。
「一つ、提案してもいいですか」
◇
「皆さんの中で、医療を学びたい人はいますか」
ダーグが、目を丸くした。
「……私たちが、ですか」
「そうです。専門の医師でなくてもいい。基本的な処置ができる人間が集落に一人でもいれば、助かる命が増えます」
「鬼族でも、学べますか」
「もちろんです」
「でも……むずかしくないですか。医学は」
「全部は難しい。でも、傷を洗う、止血する、骨折を固定する、薬草を使う。そういうことは、正しく覚えれば誰でもできます」
ダーグが、一緒に来た者たちを見た。
三十代の女性の一人が、手を上げた。
「あの……私、やってみたいです。集落でいつも怪我人の世話をしていて、でも正しいやり方がわからなくて困っていたので」
「ちょうどいいです。今日からでも始められます」
「今日から」
「時間があれば、今日教えます。その後は、来られるときに来てもらえれば」
ダーグが、トーコを見た。
「先生は……本当に、誰にでもそうしてくれるんですね」
「必要な人に必要なことを教えます。それだけです」
子供が、手を上げた。
「あたしも、覚えていい?」
「どうぞ」
「ほんとに?」
「ほんとにです」
子供が、嬉しそうに隣の女性の袖を引いた。
「おかあさん、あたしも覚える」
「……先生がいいって言ってるんだから、ちゃんとやるんだよ」
「うん」
◇
その日の昼休み、実技の時間にした。
ダーグ、女性二人、子供が診察室に集まった。ミリアが補助に入った。
「まず、傷の洗浄から教えます」
トーコが、消毒液の作り方から説明した。
「傷口を清潔にすることが、感染を防ぐ一番の基本です。水で洗う。異物を取り除く。この二つだけで、化膿する確率が大きく下がります」
「どんな水でもいいんですか」
「煮沸した水が一番いい。川の水は菌が入ることがある。できれば煮た水を使ってください」
「なるほど」
「次、止血です」
ガーゼを取り出した。
「清潔な布を傷に当てて、押さえる。これだけです。ただし、押さえ続けることが大事です。すぐに離してはいけません」
「どのくらい押さえるんですか」
「出血が止まるまで。傷の深さによりますが、小さいものなら五分から十分。それでも止まらなければ、病院に来てください」
女性が、メモを取りながら聞いていた。
「先生、包帯の巻き方は?」
「次はそれです」
実際に巻いてみせた。きつすぎず、緩すぎず。ダーグが「こんな感じですか」と自分で巻いてみた。
「少し緩いです。もう少し引いて。ただし、指が痺れるほどきつくしてはいけません」
「……これくらい?」
「そうです」
子供が、ダーグの腕を見ながら言った。
「あたしもやってみる」
「どうぞ。ミリアさん、腕を貸してあげてください」
「はーい。痛くしないでね」
「しない」
子供が真剣な顔で包帯を巻いた。緊張しているのか、舌先が少し出ていた。
「……どう?」
「上手いです」
「ほんとに?」
「本当に。指が使えますか、ミリアさん」
「ちゃんと動きます」
「合格です」
子供が、ぱっと顔を輝かせた。
◇
午後、集落の長が馬に乗って来た。
「直接礼を言いたくて参りました」
「どうぞ」
長が、病院の中に入り、椅子に座った。
「今日、若い者に処置を教えていただいたと聞きました」
「はい」
「……ありがとうございます。我々は長い間、医療から遠ざけられてきた。自分たちで何とかするしかなかった。だから、こういうことを誰かに教わるという機会がなかった」
「それは、理不尽なことです」
「そうですか」
「怪我は、誰にでも起きます。病気も同じです。それを助けることに、種族は関係ない」
長が、深く頷いた。
「あなたのような人に出会えたのは、運が良かった」
「来てくれたダーグさんのおかげです。勇気を出して頼みに来てくれたから、こちらも動けた」
「あの子は……頑固で困ることもありますが、勇気はある子です」
長が、少し笑った。
「先生、また困ったことがあれば、来ていいですか」
「いつでも」
「我々にできることがあれば、何でも言ってください。綿だけでなく、遊牧民のできることが何かあれば」
「今のところは、綿で十分に助かっています」
「そうですか。でも、困れば言ってください」
「ありがとうございます」
◇
夕方、集落の人たちが帰り始めた。
ダーグが「また来ます」と言った。
「いつでも」
「次は、もう少し仲間を連れてきてもいいですか。覚えたいという者が他にもいて」
「どうぞ」
女性の一人が、メモを胸に抱えながら言った。
「今日のこと、集落のみんなに教えます。うまく伝えられるかわかりませんが」
「わからなければ、また来てください。何度でも教えます」
「……ありがとうございます」
子供が、帰り際にトーコを振り返った。
「また来るから!」
「待っています」
「絶対来る。医師になりたいから」
ダーグが「ソラ、そんなことを」と言いかけた。
「いいですよ」
トーコが言った。
「いつでも来てください。ソラさん」
子供が、ぱっと笑った。
集落の人たちが、街の外へ向かっていく。
馬の背中が遠ざかっていく。子供が何度も振り返りながら手を振っていた。
ミリアが「先生、どんどん広がりますね」と言った。
「患者が増えるのは、いいことです」
「鬼族の子が医師を目指すなんて、先生が来る前のデッドエンドには考えられなかったと思います」
「そうかもしれませんね」
「先生が変えてるんですよ。この辺境を」
「みんなで変えています」
「先生も入ってください、もう」
ミリアが笑った。
シルフィが「きゅ」と鳴いた。
魔力視に映るのは、穏やかな翠の光だ。
病院の夕暮れが、静かに広がっていた。




