38.
病院が大きくなってから、トーコの肩書きが変わった。
院長、という言葉をミリアが使い始めた。最初は気恥ずかしかったが、今では誰もそう呼ぶようになった。
しかし院長になっても、トーコは午前の診察に出た。
ミリアが「先生、院長なんだから、下に任せてもいいんですよ」と言った。
「患者を診るのが仕事です」
「でも他にもやることが」
「午後にやります」
「……先生らしいですね」
その日の午前、ライナルトが来た。
いつもの定期検診だ。受付を通らず直接診察室に入ってくるのが、最近の習慣になっていた。
「失礼する」
「どうぞ」
ライナルトが椅子に座った。
トーコが血液検査の準備をしながら言った。
「今日は、閣下の方から来てくれましたね」
「君に診てもらいたかった」
「……毎回、私が診ています」
「そうだな」
トーコが少し、ライナルトを見た。
ライナルトが、窓の外を見ていた。
何か言いたいことがある顔だったが、トーコは特に聞かなかった。
血液検査を行い、魔力視で確認する。
◇
「数値は問題ありません。ただ」
トーコが、ライナルトの目元を確認しながら言った。
「眼精疲労がありますね」
「そうだな」
「睡眠は取れていますか」
「前よりは取っている」
「目の疲れが抜けていません。書類仕事が多いですか」
「多い」
「灯りの位置を変えてください。目線より少し上から光が当たるようにすると、疲れにくくなります」
「覚えておく」
ライナルトが、少し間を置いてから言った。
「しかし、君もではないか」
「私ですか」
「目の下に、影がある」
トーコが、少し黙った。
「気になるなら、血液検査を」
「そういう話ではない」
ライナルトが、トーコを見た。
「前に倒れたことを、覚えているか」
覚えている。脱水と過労で、夕方に石畳に手をついた。ライナルトの屋敷に運ばれて、目を覚ましたときの天井を、今でも思い出せる。
「覚えています」
「あのときと、今の顔が少し似ている」
「似ていませんよ」
「そうか?」
トーコが少し、ライナルトを見た。
魔力視に映るのは、深い青の光だ。心配している色だ。
「……少し、疲れているかもしれません」
「そうだろう」
「でも、やることがあります」
「たまには休んだ方がいい」
「……そうですね」
「君もそう思うか」
「思います」
「ならよかった」
ライナルトが、少し間を置いた。
「一つ、頼んでいいか」
「どうぞ」
「用事があって、街の外に出る。一人で行くのも、少し……あれだから」
「あれ、とは」
「同行してもらえないか」
トーコが少し考えた。
「私でよければ」
「君がいい」
「……承知しました。いつですか」
「明後日の午前はどうか」
「セラさんたちに診察を任せます。問題ありません」
「そうか」
ライナルトが立ち上がった。
「では、明後日」
「はい」
ライナルトが出て行った。
扉が閉まった。
◇
ミリアが、廊下から出てきた。
「先生」
「なんですか」
「今の、聞こえていました」
「……廊下にいたんですか」
「たまたまです。先生、明後日、閣下と出かけるんですか」
「用事があるそうで、同行することになりました」
「用事」
「はい」
「……先生、それって」
「何ですか」
「デートじゃないですか」
トーコが少し、首を傾げた。
「出かけるだけです」
「でも、先生を指名して、二人で、街の外に」
「用事があると言っていました」
「用事って言いましたっけ……一人で行くのがアレだから、って言ってましたよね。アレって何ですか」
「さあ」
「さあって……先生、もう少し考えてみてください」
「何をですか」
「閣下が、なぜ先生を誘ったか」
「同行が必要だったからではないですか」
「なんで先生じゃなきゃいけないんですか」
「……慣れているからでしょう」
「先生……」
ミリアが、ため息をついた。
「是非、行ってきてください」
「はい。行きます」
「楽しんできてください」
「用事ですから、楽しむかどうかは」
「楽しんできてください」
「……わかりました」
ミリアが、首を振りながら廊下に戻った。
セラがちょうど通りかかって、ミリアに「どうしたんですか」と聞いた。
「先生が、閣下とデートすることになったのに、気づいていないんです」
「デ……」
「出かけるだけだって言うんですよ」
「……先生らしいですね」
「そうなんですよ。はぁ」
二人の声が、廊下の向こうへ消えていった。




