39.
朝の空気が、清んでいた。
辺境の都市から少し外れると、すぐに森が始まる。デッドエンドの北側に広がる大きな森で、奥には魔物が多く、瘴気も濃い。しかし入り口付近は浅く、薬草も豊富だ。
ライナルトが「用事がある」と言っていた場所が、ここだった。
「森の近くで、確認したいことがある。付き合ってくれ」
「わかりました」
二人で、森の入り口に向かった。
シルフィが肩の上にいる。スノウは病院の前の定位置に置いてきた。
◇
森の入り口に立つと、空気が変わった。
木々の間から、ひんやりとした風が流れてくる。瘴気が薄く漂っているが、入り口付近はほとんど気にならない。
トーコが、深く息を吸った。
「……良い気持ちですね」
「そうか」
「前世でも、山や森の空気は好きでした。診察室にいると、忘れていますが」
「たまには出た方がいい」
「そうですね」
ライナルトが、森の中を確認しながら歩き始めた。
トーコが後を追う。
薬草が目に入った。足を止めて、確認する。魔力視で成分を見ると、状態が良い。
「これは使えます。少し採っていいですか」
「構わない」
トーコがしゃがんで、薬草を丁寧に採り始めた。根を傷つけないように、来年もここで採れるように。
「随分、丁寧だな」
「来年また来たいので」
「……そうか」
ライナルトが、少し口元を動かした。
◇
しばらく歩くと、道が細くなった。
左右の木々が近づいてくる。下草が多い。
ライナルトが、立ち止まった。
「少し、奥に入る。迷子になると困る」
「大丈夫ですよ。道はわかります」
「念のため」
ライナルトが、手を差し出した。
トーコは少し見て、それから手を取った。
大きな手だった。温かかった。
「……そういうものですか」
「迷子になってからでは遅い」
「そうですね」
並んで歩き始めた。
トーコは特別なことだとは思わなかった。迷子防止のための処置だ。合理的だ。
ただ。
魔力視を薄く開くと、ライナルトの魔力の色が見えた。
いつもの深い青だった。落ち着いた、静かな色だ。
しかし今日は、その奥に、何か違う色が混じっていた。
温かくて、少し、揺れている。
——なんだろう、これは。
トーコは少し首を傾げた。しかし何も言わなかった。
並んで、歩き続けた。
薬草を見つけるたびに、少し立ち止まった。ライナルトが待った。急かさなかった。
「詳しいな、薬草に」
「ガルドさんに習いました。見分け方は最初わからなくて、よく間違えました」
「今は間違えないのか」
「だいたいは。魔力視で確認できるので」
「魔力視は、なんにでも使えるな」
「使い道が多くて、助かっています」
ライナルトが頷いた。
木漏れ日が、二人の足元に落ちていた。
◇
シルフィが突然、肩から飛び立った。
いつもと違う方向だ。トーコが魔力視を開くと、シルフィの翠の光が急いでいる。
「……何かいます。シルフィが反応しました」
「人間か、魔物か」
「人間です。魔力の色が見えます。弱っている」
二人が早足で向かうと、木の根元に人が倒れていた。
若い男だ。足首を痛めているらしく、立てない様子だった。顔が青白い。水も食料も持っていないようだった。
「いつからここに」
「き、昨日の……夕方から。道に迷って、足を捻って……」
「わかりました。今から街に連れて帰ります」
トーコが足首を確認した。骨折はない。捻挫だ。ひどい腫れが出ているが、歩けないほどではある。
「背負って運ぼう」
ライナルトが、すでに男の傍にしゃがんでいた。
「待ってください、閣下が」
「早い方がいい」
男を背負い、立ち上がった。
トーコは、その様子を少し見た。
鎧ではなく、今日は軽い外套だ。背中が広い。男一人を背負っても、特に表情が変わらない。体幹が安定していて、重心がぶれない。
「……たくましいですね」
「何か言ったか」
「いえ」
「そうか」
歩き始めた。
トーコが、男の様子を確認しながら並んで歩く。
来た道を戻っていると、突然、茂みが揺れた。
◇
魔物だった。
中型の、四足の魔物だ。爪が長く、目が赤い。遭難者の匂いを嗅いで、近づいてきたのかもしれない。
ライナルトが、男を地面に下ろした。
「先生、こちらを頼む」
「わかりました」
「動かないでいてくれ」
トーコが男の傍にしゃがんだ。シルフィが飛び立ち、二人の周囲に風の結界を張った。
ライナルトが、剣を抜いた。
魔物が、跳んだ。
ライナルトが、それより速く動いた。
剣が閃いた。
一合。二合。
魔物の動きが速い。しかしライナルトはそれに対応していた。足捌きが静かだ。無駄な動きがない。どこを狙われるかを先に読んでいるように見えた。
三合目で、魔物が倒れた。
ライナルトが剣を収め、振り返った。
「怪我はないか」
「こちらは大丈夫です」
男が「す、すごい……」と呟いた。
トーコも、少し男と同じ気持ちだった。
医師としてのライナルトしか、長い間見ていなかった。患者として、記録として、話し相手として。
こういう人だったのか、とトーコは思った。
剣を持つ手が、怪我を確認する手と同じ手だと気づいた。
「……たくましいところもあるんですね」
「たくましいところも、とはどういう意味だ」
「いつも静かな方だと思っていたので」
「戦場では、静かにはしていられない」
「そうですね。失礼しました」
ライナルトが、少し目を細めた。
「……怖かったか」
「怖くはなかったですよ。見ていました」
「見ていたのか」
「魔力視を開いていたので、動きがわかりました。速かったですね」
「……なんでも魔力視で見るな」
「便利なので」
ライナルトが、かすかに笑った気がした。
◇
街に戻ったのは、昼過ぎだった。
男を病院に連れていき、ミリアに引き渡した。
「捻挫と軽度の脱水です。入院は必要ありません。処置をして、水分と食事を取らせてください」
「わかりました。先生は……楽しかったですか」
「薬草がたくさん採れました」
「そっちですか」
「あと遭難者を助けて、魔物に遭遇しました」
「……デートとは」
「出かけただけですよ」
ミリアが「はぁ」と言った。
ライナルトが「世話になった」と言った。
「こちらこそ。久しぶりに森に入れました」
「また行くか」
「……薬草が補充できるなら」
「そうか」
ライナルトが、少し間を置いた。
「楽しかった」
「私もです」
ライナルトが頷いて、出て行った。
扉が閉まってから、ミリアがトーコを見た。
「先生」
「なんですか」
「楽しかった、って言いましたね」
「はい」
「閣下も楽しかったって言っていましたね」
「はい」
「それが」
「薬草も採れましたし、良い経験でした」
「……そうですね」
ミリアが、何かを諦めたような顔をした。
シルフィが肩の上で「きゅ」と鳴いた。
魔力視に映るのは、温かくて少し意地悪な翠の光だ。
——何が言いたいのかは、今日も聞かないことにした。
採ってきた薬草を棚に整理しながら、トーコは少し、今日のことを思い返した。
手の温もりのことは、考えなかった。
……考えないようにした。




