28.
八宝斎が老婆を連れてきたのは、午後の診察が終わりかけた頃だった。
老婆は小柄で、腰が少し曲がっていた。白髪を後ろで束ね、使い込まれた木の杖をついている。外套は質素だが、丁寧に手入れされていた。
「トーコちゃん、相談があって」
八宝斎が、老婆を見た。
「知り合いのグランさん。最近、目が見えにくくなってきたって言うから、一度診てもらおうと思って」
「グランというよ」
老婆が、落ち着いた声で言った。
トーコは老婆に椅子を勧め、向かいに座った。
「いつ頃から見えにくくなりましたか」
「二年ほど前から、じわじわとね。最近は、霞がかかったみたいで。明るいところと暗いところの区別はつくが、細かいものが見えない」
「夜は」
「昼より辛い」
「眩しさは感じますか」
「光が当たると、少しちらつく」
トーコは魔力視を開いた。
老婆の目の水晶体が、白く濁っている。右の方が進んでいる。左はまだ初期だ。
「白内障です」
老婆が、トーコを見た。
「なんだいそれは」
「目の中に、光を集める透明な部品があります。それが年齢とともに濁っていく病気です。治癒魔法では届きにくい場所なので、魔法使いには診断が難しい」
「なおせるのかい」
「なおせます」
老婆が、じっとトーコを見た。
その目が、鋭かった。
「あんた……魔力、ないね」
「はい。ゼロです」
「魔力もないのに、目の病気を治せると言うのかい」
「言います」
老婆がしばらく、トーコを見ていた。
普通なら、ここで不信感が出る。魔力がない者が治療を行う。この世界では、それは信頼より疑いを生む。
しかし老婆は、違った。
「……魔力がない、か」
ぽつりと言った。
「そうかい。じゃあ、お願いしようか」
トーコが少し、目を動かした。
「信じていただけるんですか」
「魔力があるから信じる、魔力がないから信じない。そんな話じゃないよ」
老婆が杖を持ち直した。
「あんたの目が、ちゃんと見ている。それだけで十分だ」
◇
手術の前日、八宝斎に器具を頼んだ。
「目の水晶体を取り除くための、極細の器具が必要です。これくらいの細さで」
トーコが紙に寸法を書いた。
八宝斎が覗き込んだ。
「……細い」
「目の中の手術ですから。少しでもぶれると、網膜に触れます」
「わかった。今夜中に作る」
「ありがとうございます」
「グランさん、大事にしてあげてね」
八宝斎が、少し真剣な顔で言った。
「あの人、すごい人なんだよ。表には出さないけど」
「そうなんですか」
「うん。でも、トーコちゃんにはきっと関係ないか」
「患者はみんな同じです」
八宝斎が「そうだね」と笑った。
◇
翌朝、器具が届いた。
八宝斎が一晩で仕上げた極細の鉗子と、先端が丸められた針状の器具だ。光に透かすと、精度が見て取れた。
グランが診察台に横になった。
「怖くはないですか」
「怖くないと言えば嘘になる。でも、あんたを信じると決めたからね」
「眠っている間に終わります。気がついたときには、終わっています」
「そうかい」
グランが、目を閉じた。
麻酔薬を流す。
シルフィが飛び立ち、清潔な結界を張った。
ミリアが器具のトレイを持って立った。
トーコは魔力視で水晶体の位置を確認した。右目から始める。濁りの範囲、周囲の組織との境界、血管の走行。全部、見えている。
「始めます」
ミリアが小さく頷いた。
器具が、ゆっくりと動く。
目の手術は、他のどの手術とも違う。動かせる範囲が極めて狭く、力加減が繊細で、ほんの少しのぶれが取り返しのつかない結果につながる。
しかし魔力視があれば、見える。どこに何があるか。どこを触れてはいけないか。どこに器具を入れればいいか。
一手、また一手。
濁った水晶体が、少しずつ取り除かれていく。
ミリアが息を止めているのがわかった。
トーコの手は、止まらなかった。
◇
処置が終わったのは、一時間ほど後だった。
グランがゆっくりと目を開けた。
しばらく、天井を見ていた。
「……見える」
掠れた声だった。
「霞が、ない」
「右目の処置が終わりました。左目は来週行います」
「……見える」
グランが、もう一度言った。
今度は、声が少し震えていた。
ミリアが「よかった……!」と小声で言った。
グランが、ゆっくりとトーコを見た。
「……あんたの顔が、はっきり見える。二年ぶりだよ、こんなにはっきり見えるのは」
「しばらくは安静にしてください。光に当たりすぎないように」
「わかった」
グランが、深く息を吐いた。
◇
帰り際、ミリアが「何かお礼を」と言いかけた。
グランが、首を振った。
「診察料を払えばいい。それだけだろう」
「は、はい……」
「先生もそれでいいね」
「それで十分です」
「そうかい。欲のない人だ」
グランが、杖をついて立ち上がった。
「あんたなら、そうだと思ったよ」
「どういう意味ですか」
グランが、少し目を細めた。
「昔、知り合いに魔力ゼロの子がいてね。その子は職人だった。魔法道具なんて使わず、手と知識だけで、誰より精巧なものを作った。同じ匂いがするよ、あんたから」
トーコは、少し間を置いた。
「腕のいい方だったんですね」
「ああ。その子も、誰かに頼まれてもいないのに、目の前の仕事を丁寧にやる人だった。たかりもしない、威張りもしない。ただ、仕事をする」
グランが、トーコを見た。
「トーコか。覚えておくよ」
それだけ言って、老婆は扉を開けた。
八宝斎が外で待っていた。
「グランさん、どうでした」
「よく見える」
「よかった……!」
「お前がいい医師を知っていたということだ」
グランが、一度だけ振り返った。
トーコと目が合った。
グランが、小さく頷いた。
扉が閉まった。
◇
ミリアが、グランが帰った後に言った。
「先生、今の方って……」
「グランさんです」
「いや、そうじゃなくて……八宝斎さん、さっきすごい顔してましたよ。なんか、偉い方なんですか」
「患者です」
「そうですけど……」
八宝斎が戻ってきた。
「トーコちゃん」
「なんですか」
「グランさんがね、久しぶりに目が合ったって言ってた。すごく嬉しそうだった」
「それはよかったです」
「トーコちゃんって、本当にそれだけなんだね」
「それだけです」
八宝斎が、少し笑った。
「グランさんね、杖の魔女って呼ばれてる人なんだよ。知ってる?」
「知りませんでした」
「王都でも知らない人はいない、くらいの……まあ、すごい人。でもトーコちゃんは関係なかったね」
「患者がよくなれば、それで十分です」
「うん」
八宝斎が、温かい目でトーコを見た。
「それでいいと思う」
シルフィが肩の上で「きゅ」と鳴いた。
魔力視に映るのは、穏やかな翠の光だ。
トーコは次のカルテを手に取った。




