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29.


 グランの左目の処置が終わったのは、翌週のことだった。


 両目が揃って見えるようになったグランは、診察台から降りながら言った。


「久しぶりに、両目で見る世界だよ。空の色が、こんなに青かったとは忘れていた」


「安静期間が終われば、普通の生活に戻れます」


「ありがとう」


 グランが、短く言った。

 それだけだった。

 トーコも「お大事に」と答えた。


 それだけのはずだった。



    ◇



 十日ほど後、見慣れない男が治療院を訪ねてきた。


 四十代の、恰幅のいい男だ。商人らしい装いをしている。手に、分厚い書類の束を持っていた。


「トーコ先生とお見受けします。商業ギルド、辺境支部長のカサルと申します」


「どうぞ」


「グラン様からご紹介いただきまして」


 トーコが少し、目を動かした。


「グランさんから」


「はい。先生のお話を伺いまして、ぜひ一度お目にかかりたいと。実は、少々ご相談があって参りました」


 男が、書類を広げた。


「この治療院の規模を、大きくするお手伝いをさせていただけないかと」


「……規模を、大きく」


「はい。グラン様からお聞きしたんですが、こちらはいつも患者が並んでいて、先生お一人でやりくりされているとか。建物も手狭で、入院が必要な患者を置くスペースもない、と」


「それは、そうですが」


「商業ギルドとして、資金を出させていただきたいのです。建物の拡張、器具の調達、人手の確保。必要なものを、できる限り」


 トーコは、男を見た。


「なぜ商業ギルドが」


「辺境の医療が充実すれば、働く人間が増えます。怪我や病気で仕事を休む者が減れば、商いも安定する。先生の治療院は、この街の経済にとっても大事な場所です。それが一つ」


 男が続けた。


「それと、グラン様のご紹介ということで。グラン様のお頼みを断れる者は、この辺境にはおりません」


 ミリアが後ろで「やっぱり……」と小声で言った。



    ◇



 翌日、ライナルトが来た。


 いつものように、定期検診の名目だったが、診察が終わると書類を取り出した。


「話がある」


「はい」


「治療院を、大きくしないか」


 トーコが、少し間を置いた。


「昨日、商業ギルドの方が来ました」


「知っている。話を合わせた」


「合わせた……」


「商業ギルドが資金を出す。私が土地を出す。建物は新しく建てる。入院できる部屋を作り、処置室を複数用意し、薬の調合室も広くする」


 ライナルトが、淡々と言った。


「この街に、ちゃんとした病院が必要だ。治療院では手狭になっている。あなたもわかっているだろう」


「わかっています。でも、そんな大きな話に」


「大きくなければ、意味がない」


 ライナルトが、トーコを見た。


「あなたがこの街に来てから、死ぬ者が減った。後遺症で働けなくなる者が減った。遠くから患者が来るようになった。それだけの実績がある。それを支える場所が、今の治療院の規模では足りない」


「でも、私は」


「何が不安だ」


 トーコが少し、考えた。


「私一人では、大きな施設は回せません」


「人を増やせばいい」


「すぐには無理です」


「すぐでなくていい。時間をかけて作ればいい」


「……費用が」


「出す」


「土地が」


「出す」


「……」


「他に何かあるか」


 トーコが、しばらくライナルトを見た。


「……分不相応です」


「なぜ」


「私はただの、辺境の医師です」


 ライナルトが、少し口元を動かした。


「ただの、とは言わせない」


「……」


「あなたはこの地の、なくてはならない存在だ。それに見合う場所を作る。それだけのことだ」


 トーコは、しばらく答えなかった。


 窓の外で、スノウが日向で丸まっているのが見えた。

 待合室から、患者の声が聞こえてくる。

 ミリアが廊下で記録をつけている気配がした。


「……セラさんやミラさんが、もっとここで学べるようになりますか」


「そうなる」


「ガルドさんの調合室が広くなりますか」


「そうなる」


「入院が必要な患者を、帰さなくてよくなりますか」


「そうなる」


 トーコは息を吐いた。


「……わかりました」


「受けてくれるか」


「患者のためになるなら」


 ライナルトが頷いた。


「それでいい」



    ◇



 夕方、八宝斎が飛び込んできた。


「トーコちゃん、聞いた! 病院作るって!」


「話が早いですね」


「グランさんから聞いた。嬉しくて来ちゃった。私も手伝う。器具はぜんぶ私が作る」


「ありがとうございます」


「お礼はいらないよ。トーコちゃんの器具を作るのは、楽しいから」


 八宝斎が、目を輝かせた。


「手術室、どんな設計にする? 照明はこうした方がいい、換気はこうした方がいい、処置台の高さは……」


「今日はまだ何も決まっていません」


「わかってるけど想像が止まらなくて。ねえ、入院室は何部屋にする? 薬の棚は壁一面がいいよね。あと検査室と処置室は分けた方が絶対いい」


 ミリアが「八宝斎さん、楽しそう……」と言った。


「楽しいよ。こういう仕事、大好き」


 タカトが戸口で、静かに立っていた。


「ダーリンも来てたんですか」


「八宝斎が走って出たので」


「止めなかったんですか」


「止められない」


 タカトが、淡々と言った。

 ミリアが小声で「ヒモじゃない、わかってる」と言った。



    ◇



 翌日、ガルドに話した。


「調合室が広くなります」


「……そうか」


「棚も増やせます。薬草の保管場所も確保できます」


「そうか」


「嬉しくないですか」


「嬉しいよ」


 ガルドが、ぽつりと言った。


「ただ……先生が来たとき、廃屋を借りてここを始めたのを覚えていてな。あの小さな治療院が、こんなことになるとは」


「ガルドさんのおかげです」


「俺は薬草を調合しただけだ」


「それが必要でした」


 ガルドが、しばらく棚を見ていた。


「……賑やかになったな」


「そうですね」


「もっと賑やかになるんだろう」


「なると思います」


 ガルドが、ふんと鼻を鳴らした。

 それが、ガルドなりの喜び方だとトーコはわかっていた。



    ◇



 夜、一人になってから、グランに短い礼状を書いた。


 治療院を大きくすることになりました。きっかけをいただきありがとうございます、と。


 書いてから、少し考えた。


 デッドエンドに来たとき、廃屋を借りて、ガルドと二人で棚を作った。あの頃は、ここまでになるとは思っていなかった。


 おばあちゃん、と、心の中で呼んだ。


 私が救えなかった分、たくさんの人を救うと誓った。その場所が、少し大きくなる。


 それでいい、と思った。


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― 新着の感想 ―
辺境にたどり着いたときは一人きりだった,最初にガルドが興味を引きやってきて協力を申し出てから二人三脚でスタートして様々な患者さんを救ってきた。そんな中で辺境伯を救ったことから流れがいい方向に急上昇した…
支援者が多くて何より。あとは知識の共有と永続性、探究心。トーコ亡き後も…ファンタジーですけど。
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