第七話 白龍の背は、密室なり
エリスに別れを告げ、オルタディア侯爵家を後にしたカイはふと、夜空を見上げた。
星が瞬く夜空を月が優しく包み込む。
「そうか……、今日は満月だったのか――」
カイは明日にはルクサリスへと献上されるエリスと過ごした日々、友としてアランと過ごした日々を思い返す。
(ああ、俺は……。
守るために、全部失うのか――)
カイはルクサリス帝国、皇帝アレスに並々ならぬ激情に駆られた。
手のひらに爪を立て、血が滲むほど握りしめる。
その時、カイの上を何かが飛び去っていった。
それは猛スピードで上空へ舞い上がり、やがて見えなくなった。
——嫌な予感だけが、胸に残った。
「……エリス……?」
翌朝。
カイは昨夜の間に、エリスの消息が途絶えた事を知った。
エリスの部屋には焼け焦げたドレスと白い龍の鱗片が落ちており、本人は跡形もなく消えていたという。
「……龍王……アレス……!」
カイは確信した。
ルクサリスの皇帝アレスがエリスを連れ去ったのだと――。
✕✕✕
時は少し戻り、白龍の背の上。
地上は遥か下。
落ちれば、終わりだ。
凄まじいスピードで飛翔する白龍には猛烈な風が吹き付ける。
(この距離、この高さ、この速度――
本気で振り落とされれば、オレは死ぬ)
だが、白龍の背はアレスの結界によって守られていた。
「……風除けの結界か?」
エリスはアレスの前に座らせられ、アレスが手綱を握っている。
ちょうどエリスの背中がアレスの胸に預けられる形となっていた。
そんなエリスがアレスの顔を見るために振り返る。
「……詳しいな。伊達にリミナ王国騎士団長をやっていたわけではないな」
(コイツ、アランの肩書覚えてたのか……)
「そりゃあ……、龍騎士にとってドラゴンでの移動や空中戦は日常茶飯事だ。多少の結界知識は必要不可欠だろう」
「……エリス。お前は戦場を望むのか?」
「……許されるのなら、オレは戦場で戦いたい――」
「それは、なぜだ? 戦場に行けば命を落とす危険があるのに、それでもか?」
「……オレは、十年前に没落しつつあったオルタディア侯爵家に拾われた」
ピクっとアレスの指先が動く。
「オレの血は、なぜか龍を鎮める力があった。
その力に目をつけたオルタディア家はオレを龍の巫女に仕立て上げて……。
でも、それだけじゃオルタディア家は再興しなかった。だからオレは男として軍に入り功績を上げた。
最初は拾ってくれたオルタディア侯爵家への恩義で軍に入ったんだが、軍に入るとドラゴンたちと一緒にいられる事に気がついた」
エリスは菫色の瞳を細める。
「オレは、ドラゴンが好きなんだ。
戦場で、ドラゴンたちと過ごすのが好きなんだ」
「……戦場でなくてもドラゴンたちと一緒にいる事は出来るのではないか?」
「いいや。リミナではドラゴンは人間に従う存在にされていた――。だが、戦場だけは違った。
戦場ではドラゴンと人間は対等だったんだ――」
エリスの話にアレスは「そうか……」とだけ返事をした。
「エリス。もし、お前が戦場を望むのなら、俺はそれを否定しない――」
「なっ、それは本当か!」
エリスの瞳がきらきらと輝く。
アレスはそんなエリスの様子に苦笑しながら、エリスの腰を引き寄せ、耳元である条件を突きつけた。
「いいか、エリス。俺はお前に『女』であることを強要しない」
エリスが息を呑む。
「だが、タダで戦場に連れて行くとは言っていない。……三つの誓いを立てろ」
「……三つ……?」
アレスの瑠璃色の瞳は、冷たく、だが熱っぽくエリスを射抜く。
「ああ。一つ目、毎晩、俺にその血を捧げること。
二つ目、戦場では俺と同じ軍服を纏うこと。
そして三つ目……戦場でも、それ以外でも、俺の側から一歩も離れぬことだ」
華奢な指先が、エリスの頬をなぞる。その指は驚くほど細く、しかし逃れられない鉄の枷のように感じられた。
「……それだけでいいのか……?」
――それは、あまりにも軽い条件だった。
(……本当に、それだけか?)
「なんだ、足りないか?」
「いや、お前がそれでいいならいいんだ」
アレスは少し考えて口を開く。
「……では、もう俺を忘れるな」
「? なんの話だ?」
「……追加だ。
二度目は、許さない」
首を傾げるエリスに、
アレスは自傷気味に笑った。
✕✕✕
翌朝、アレスは腕の中で眠るエリスを見る。
(こんな状態で寝れるとは……大した度胸なのか、それとも――)
「……ん……」
そんな事を考えていると腕の中から声がした。
「……起きたか。俺の腕の中は寝心地がよかったか……?」
意地が悪い質問にエリスも意地悪く微笑む。
「……お前の白龍はなかなかの寝心地だ。さすが最上級の白だ」
「……エリス。龍の階級を知っているのか?」
「ああ、昨日リコに教えて貰った」
「リコ……。エリス、リコの事は『リコ』と呼ぶのだな」
「? ああ、アイツは意外といいヤツだったぞ」
(リコめ……、エリスに何を吹き込んだ――!)
このアレスの嫉妬に、ルクサリス帝国に到着したリコは寒気を覚えたという……。
(……リコより、俺の方がいいに決まっている)
アレスは無意識に白龍を加速させた。
「まあいい、よく眠れたと言うことは、よほど俺の事を信頼していると言う事だな」
アレスは勝ち誇った笑みを浮かべる。
「……? 何を言っているんだ? オレが信頼しているのはこの白龍だぞ? だれがお前のような変態を信用するか――」
「なっ……!」
「当然だろう。会ってすぐに軍服を破られ、昨日は目の前で着替えさせられた……。変態以外の何ものでもない」
「…………ッ……!」
エリスの正論にぐうの音も出ないアレス。
そんなアレスの様子に白龍が咆哮を上げた。
「なっ、お前まで俺をからかうのか、白龍よ! お前は俺と一心同体だろうが!!」
そんなアレスの言葉に、再び咆哮を上げる白龍。
「ぐぬぬ……! 後で覚えておけよ!」
「……初めて会った時も思ったんだが……、お前はドラゴンと話せるのか?」
白龍とアレスのやり取りを聞いていたエリスが純粋な疑問を口にした。
(……初めて、か――)
アレスは一瞬複雑な表情を浮かべた。
「ああ、当然だ。……俺たちは龍魔族。ドラゴンと同種族の魔人だからな――」
「……なるほど、だからイヤな感じがしないのか……」
エリスは一人、アレスに聞こえないように呟く。
「どうした? 人間ではない俺たちが怖いか?」
「いや、オレは人間よりドラゴンの方が好きなんだ――」
アレスは言葉を失った。
そして、エリスに顔を見られないように顔を逸らす。
(今のこの顔はエリスに見られるわけにはいかない――。龍王としての俺の威厳がなくなってしまう――)
アレスは必死に赤くなった顔を誤魔化す。
そんなアレスの動揺を感じたのか、白龍がからかうように躰を回転させるのであった。
「ははは、白龍、お前面白いな――」
急な回転にエリスはアレスの腕を掴む。そして、二人はいつも以上に身を寄せ合った。
エリスが楽しそうに笑う。
「オレも、ドラゴンと言葉が通じるようになりたい――」
エリスの菫色の瞳が、赤くなったアレスの横顔を捕らえるのであった。
(……おかしいな。会って間もないコイツの前だと、リミナで被っていた「病弱な令嬢」の仮面が、驚くほど簡単に剥がれ落ちていく。
きっと、コイツから漂う龍の気配が、オレを狂わせているだけだ。……そうに違いない)
✕✕✕
その夜。
「リミナからルクサリスまでは俺の白龍で飛ばしても三日はかかる。その間、俺と白龍は飲まず食わず、寝ずに飛ぶわけだが……」
アレスはエリスをちらっと見やる。そして、懐から非常食の干し肉を取り出した。
「……これは?」
「魔獣の干し肉だ」
「魔獣の……」
「……人間の口に合うかは分からないが、エリス、お前はこれを食べろ」
「オレだって、三日くらいの飲まず食わずは平気――」
「お前の為ではない、白龍の為だ」
アレスの言い分にエリスは目を丸くする。
「白龍は契約者の魔力を糧とする。……通常時は魔獣の肉も食べるが、今は非常時だ」
アレスはエリスの首筋を指で撫でる。
「……俺がお前の血を飲む。そうすれば、お前の力が俺を通して白龍の糧となる」
「なるほど?」
(オレの血を直接、白龍に与えるではダメなのか……?)
「理屈はなんとなく分かった。とりあえず、白龍の為にオレはこれを食べるべきだと言いたいんだな」
「そうだ。……ただ、この魔獣の干し肉はとても硬いんだ――。人間のお前では噛み切れんかもしれないから、俺が口移しで――」
「え? ひゃんて?」
バリバリ――!
アレスの提案も虚しく、エリスは干し肉をワイルドに噛みちぎって食べていた。
(そうだ、エリスは普通のか弱い女ではないのだ――)
「…………いや、なんでもない……」
アレスの消沈に白龍はまた咆哮するのであった。
エリスは干し肉を食べ終わると、その袋をアレスに渡す。
「なかなか悪くない味だったぞ」
「……それはよかった」
アレスは溜息をつき、渡された干し肉の袋を片付ける。そして瞳の色をすっと深く沈めた。
「……飯が済んだなら、次は約束の時間だ」
「……ああ、そうだったな」
エリスは特に動じることもなく、自ら軍服の襟を押し広げた。
三日間の強行軍。空腹は満たされたが、疲労は確実に体を蝕んでいる。だが、アレスの指が首筋に触れた瞬間、そこだけが熱を帯びたように跳ねた。
「……っ」
牙が食い込む。昨日よりも深く、執拗に。
流れ込んでくるのは、暴力的なまでに強大な龍王の魔力だ。
それと同時に左胸の上部、龍の紋章がほんのりと熱を帯びる。
(……まただ。この男に血を吸われると、頭の中が白くなる……)
騎士としての理性が「警戒しろ」と叫んでいるのに、本能が「もっと」と求めてしまう。
アレスの腕の中で、エリスは荒い呼吸を漏らしながら、彼の白銀の髪に指を絡めた。
(……怖いはずなのに、拒めない)
エリスの体温が、腕の中でじわりと伝わってくる。
規則的ではない呼吸。
わずかに震える指先。
――足りない。
……なにが?
(……俺は、何を考えていた)
腕の中の少女を、離したくないと感じた。
喉の奥が、焼けるように熱い。
「……っ」
無意識に、さらに深く牙を沈めかけて――止まる。
(違う)
これは、契約ではない。
衝動だ。
龍王としてあってはならない、本能。
アレスはゆっくりと息を吐き、エリスからわずかに距離を取った。
「……今日は、ここまでだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
その声音は、いつもの余裕をわずかに失っていた。
「……これで今夜も、白龍は止まらずに飛べる」
牙を引き抜いたアレスの唇は、エリスの血で赤く濡れている。
彼はその血を舌で拭い、酷く愛おしそうにエリスを見つめた。
「……今日は昨日よりも、甘いな」
「……そうか?」
エリスは首筋から伝った血を指先で拭い、ちらりと見て、あっさりと答えた。
「よく分からんが……さっきの、別に嫌じゃなかったぞ」
「…………」
一瞬、世界が音を失った。
エリスは気づかない。
その一言が、どれほど危ういものかを。
「……それに」
エリスはアレスの胸元に顔を埋めたまま、ぼそりと続けた。
「お前のそばだと……妙に落ち着く」
(ただ血を吸われただけなのに身体が熱い……。
きっとコイツのドラゴンの気配のせいだ……)
……そう思わなければ、壊れてしまいそうだった。
――もう、戻れない。




