第六話 月下の契約
エリスがオルタディア侯爵家に戻った夕刻。
喪の気配が屋敷全体を覆う中――、リミナ王国第一王子カイ・リミナがエリスを訪ねてきた。
「お久しぶりでございます。王子殿下」
エリスは喪を表す黒いドレスに身を包み、仰々しくカイに頭を下げた。
「エリス……。その……、アランの事、本当にすまない――!」
カイは白くなるほど手を握り、目を伏せる。
「王子殿下……。兄は、アランは、立派に散ったのでしょうか……」
エリスは何も知らない、病弱な妹を演じる。
(オレは一体何をやっているんだ――)
自分の死に様を自分が聞く。
あまりにも滑稽な姿に乾いた笑いが漏れる。
「エリス……。アランは、あのルクサリス帝国の皇帝アレスと一騎打ちの末――敗れたそうだ……」
カイは唇を噛む。
「アランは! 立派なリミナの軍人だった!」
カイの悲痛な叫びが強まるほど、エリスは自分への嘲笑が止まらない。
「……それは……とても、……妹として、とても名誉な事でございます……」
エリスは先ほどよりも深く頭を下げた。
(オレの今の顔を、カイに見せるわけにはいかない……。アランでも、エリスでもないオレの顔なんて、誰も望んでいない――)
「…………エリス。……もう、カイとは名前で呼んでくれないのか?」
エリスの身体が、ビクッと動いた。
「わたしくはもう、王子殿下の婚約者ではありませんので……」
「…………っ!」
カイは何かを言おうとして、そして、口をつぐんだ。
「……そうか、そうだよな。あの知らせはもうお前の耳にも届いているのだな――」
カイは覚悟を決め、毅然とした態度でエリスと向き合う。
「エリス。いや、龍の巫女よ。
お前をルクサリス帝国に献上することになった。今まで大義であった――」
「はい。リミナ王国のお役に立てて、これほど名誉なことはございません」
エリスは、機械的に返事をした。
だが、顔は上げない。上げられない――。
今、自分がどんな醜い顔をしているのか、分からないから――。
「……ルクサリスでも、壮健であれ――」
――その言葉は、あまりにも無責任だった。
その言葉を最後に、カイは逃げるように部屋を去った。
扉が閉まった瞬間、エリスは膝から崩れ落ちる。
(どの口が、それを言っているのか……!)
爪が食い込むほどドレスを握りしめた。
戦場に行ったのはオルタディアの家の為、そして婚約者として、親友として優しく接してくれたカイ王子の為。
巫女としてリミナの為にと「龍を鎮める血」を絞り取られてきた。
それなのに、今、その龍たちを殺した男のもとへ「供物」として自分を差し出される――!
(……リミナにはもう、オレの居場所は、ない――!)
絶望が、黒い泥のようにエリスを飲み込んでいく。
いっそ、このまま消えてしまいたい。
その時だった。
ふいに、空気が重くなった。
冷たい夜気が、部屋の奥へと流れ込む。
「……なんだ、泣かないのか」
(四百年前も、お前はそうだった)
……あの時のお前は、俺を信じすぎていた。
聞き覚えのある声にエリスは振り返り、声の主を睨む。
「……ッ……貴様……!」
エリスはありったけの憎悪を声の主――アレスにぶつける。
その燃えるような菫色の瞳を見て、アレスはクククと低く笑った。
「それでいい」
アレスが一歩、エリスに近づいた。
あの時、説明しなかった――それがどれだけ残酷か、俺は知っていたはずなのに。
アレスが近づいた瞬間、冷えた鉄の匂いがした。
その奥に、灰の下で燻る火の気配。
その気配に、エリスはなぜか呼吸が乱された。
「……お前は、何なんだ……」
エリスは左胸の、心臓の鼓動が伝わるその場所を握りしめる。
「……俺のことが気になるのか?」
「く、キサマッ……!」
「なに、そうムキになるな。お前に俺の事を教えるのは容易いが……、エリス。お前に選ばせてやる。
――俺と契約し、枷を断ち切るか。
それとも、この国の檻で朽ちるか」
「な、にを……?」
「さあ、選べエリス」
アレスは瑠璃色の瞳を細める。
「俺は、お前の全てを肯定する」
龍の巫女も。
戦場で散った軍人も。
“オレ”と名乗るお前も――
……全部だ。
エリスは胸元を握る手をゆっくりほどく。震えはある。だが目は逸らさない。
心臓の音が、やたら煩く聞こえる中で、エリスは無意識に懐かしい灰の下の火の気配を感じ取っていた。
「……分かった。契約する」
その言葉の意味を、エリスは理解していた。
アレスの瑠璃色の瞳が怪しく光を放ち、エリスの菫色の瞳を捕らえる。
「では、まずはその服を脱げ。俺が与えた服に着替えろ」
アレスはエリスを試すようにニヤリと笑いながら言ってみせた。
エリスはアレスが与えた服――アンダードレスと軍服を見やる。
そして――
「分かった」
なんの躊躇いもなく、オルタディア侯爵が与えた黒いドレスを脱ぎ始めた。
背中のファスナーを下ろし、肩から滑り落ちた布地が足元に重なる。普通の女なら震え上がるであろう状況下でも、エリスの指先に迷いはない。
アレスから視線を逸らさずに、静かに、そして事務的に肌を晒していく。
黒いドレスが床に落ち、薄い下着姿となったエリス。
白磁のような肌が月光を受ける。
細身の体に、確かな女の輪郭が浮かんでいた。
それでいて、その背筋には鋭い剣のような凛とした体幹が宿っている。
(……今さらだ)
エリスは手慣れた手つきでアンダードレスを纏い、アレスの軍服に腕を通した。
だが、その指がボタンに掛かることはなかった。
アランであった頃とは違い、今の体はサラシを巻いていない。無理にボタンを押し込めば、隠しきれない身体の厚みが、細身なアレスの服を内側から窮屈に圧迫してしまうと瞬時に悟ったからだ。
「これでいいか?」
軍服を羽織り、前を大きく開けたままの姿。
騎士の無頼さと、アンダードレス越しに強調される隠しきれない女性の輪郭――。
それを見たアレスは、一瞬、呼吸を忘れた。
(怯えない。 隠れない。 媚びない。――それでそこ、俺の番だ――)
「……上出来だ、エリス」
そう言うとアレスは「パチン」と指を鳴らし、エリスが着ていた黒いドレスを灰にした。
「……次は、血だ」
アレスが指先を伸ばすより早く、エリスは自ら、藤色の豊かな髪を片手で乱暴にかき上げた。
そして、ボタンを留めていない軍服の襟ぐりを少し押し広げるようにして、白い首筋をアレスの眼前に突き出す。
アレスはエリスの前に近づき、そして、その細い指でエリスの顎をそっと持ち上げた。
「……拒むなら、今だぞ」
(――もしお前が拒めば、俺は二度と触れない)
今度は、お前に選ばせる。
「……オレは、お前を拒まない」
エリスの菫色の瞳がアレスを真っ直ぐ見上げる。
「そうか……、では動くな」
低く告げると、牙がわずかに覗いた。
冷たい指先がエリスの首筋へと滑る。
その距離に、灰の下の火の気配が濃くなった。
皮膚を裂く痛みは、一瞬。
「…………ッ!」
それは血を吸われる感覚ではなく、何かが“刻まれる”感覚だった。
牙が深く――内側にまで届く感覚。
次の瞬間、胸の奥に熱が走り、エリスの体内には強大な龍王の魔力が流れ込む。
心臓が脈打つ部分――龍の紋章が淡く光を放つ。
視界が白く弾け、それと同時に真っ赤な炎が目の奥に焼き付く。
――燻る炎の中で佇む白髪に瑠璃色の瞳を持つ少年。龍王アレスの面影はあるが、今よりだいぶ幼く見えた。
エリスの視界が揺れる。
龍王の牙は既に抜かれており、そこから血の跡が滴る。
「……契約は成った」
その声は、静かだ。
だが指先は、わずかに強く握られている。
エリスは、アレスの瑠璃色の瞳を見つめた。
首元に触れて、眉を寄せる。
「……炎の中で……」
言い淀む。
「……お前もあんな顔するんだな……」
アレスは瑠璃色の瞳を一瞬見開く。そして……
「……見たのか?」
(あの時の俺の顔を。
――お前を封じると決めた、あの夜の)
低く、掠れた声で問うた。
(お前が笑っていた分だけ、俺は――笑えなかった)
「……知らない。だけど、胸が痛い」
「……そうか」
二人の間に沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのはアレスの白龍だった。
白龍は窓の外で咆哮を上げる。
「すまない、白龍。……待たせたな」
(四百年、お前と待った。――ようやく、連れていける)
アレスが白龍に微笑みかける。その笑顔は少年のような笑顔だった。
(龍王も龍にはあんな顔するのか……)
エリスは内心、安堵した。
(龍に優しくしてくれるヤツに本当に悪いやつはいない……)
それが龍の巫女たるエリスの持論であった。
アレスがエリスに手を伸ばす。
「捕まれ。特別に俺の白龍に乗せてやる」
エリスはアレスの手を取る。
「それはそれは、とても光栄な事で……」
エリスは少し冗談交じりに笑ってみせた。
それは、龍の巫女エリスとしての笑みではなく、ただのエリスの微笑みであった。
アレスは口の端を上げ、エリスを引っ張り上げ腰を掴む。
「いい心がけだな、行くぞ」
「ああ、望むところだ」
不敵に笑うエリスを、アレスが抱き上げ窓から飛び降りる。
そんな二人を白龍の背が拾い、大空に舞い上がった。
「リミナがどんどん遠くなる……」
「……後悔しているのか?」
「まさか、あそこには、オレの居場所はもうない」
「…………そうか」
月光の下、アレスは微笑む。
「ならば――今度は俺の隣で生きろ」
――それが、お前の選んだ契約だ。
白龍は天を裂き、夜を駆ける。
――もう、選び直すことはできない。




