第四十三話 今じゃない
――翌日。
社交界を目前に控えた朝。
エリスはアレスに連れられ、専用の試着室へと足を踏み入れていた。
高い天井。磨き上げられた床。
壁一面に掛けられたドレスが、色とりどりに光を吸い込んでいる。
深紅、蒼、白、黒――どれもが一級品で、ただそこにあるだけで空気を支配する。
その中央。
一段高くなった台座の上に、深い蒼を基調としたドレスが置かれている。
布地は光を受けて静かに揺れ、まるで夜そのものを纏うような一着だった。
「こちらでございます」
案内役のメイドが一礼する。
エリスは軽く視線を流し、肩をすくめた。
「……少し派手じゃないか?」
「陛下がお選びになられたものでございます」
柔らかな返答。
エリスは隣にいるアレスを見る。
否定はなく、それが“当然”だという空気。
瑠璃色の瞳が菫色の瞳を見つめ、一言。
「お前なら着こなせる」
「……なっ!」
(急に何言ってんだ!? コイツ!?)
(……いや、コイツならやりかねないか)
「……そうかよ――」
エリスはアレスに対する文句を飲み込み、低く吐き捨てた。
二人は何も言わず、同じ空間を見ている。
距離は近い。
だが――
「陛下は、こちらへ」
別の声がかかる。
控えていた従者が一歩前に出る。
「軍服の最終調整を先に」
断る理由もない。
アレスは一瞬だけエリスを見る。
ほんの一瞬、二人の視線が合う。
それだけで十分だった。
「ああ」
アレスは短く応じ、そのまま別室へと案内される。
距離が切れ、空気が少しだけ軽くなる。
「エリス様はこちらにどうぞ」
メイドに促されるまま、エリスは鏡の前に向かった。
✕✕✕
鏡の中にいたのは、角度によって紫や瑠璃色に見えるドレスを纏うエリス。
「とてもよくお似合いですよ」
メイドから朗らかな声がかけられる。
「………………」
だが、エリスの視線は、鏡の中の自分の首元に釘付けになっていた。
薄く残る、赤――
「……これ、けっこう目立つな……」
ボソリと呟く。
そして、昨日の夜のことが頭をよぎる。
あの距離。あの支配。そして――
(……離れないこと、か――)
胸の奥で、微かに熱が残っている。
エリスの様子に、背後のメイドが一歩寄り視線を添える。
「なにか、装飾品で隠してはいかがですか?」
「……装飾品?」
その言葉でエリスは思い出した。
城下町でのことを。
「……アレスの部屋に、チョーカーがある」
「……陛下からの贈り物ですか?」
「……そんなところだ」
城下町での軽いやり取り。
そのあのときの距離――
思い出しただけで、少しだけムッとする。
(……あれは、贈り物としては余りにも――)
考えるのをやめた。
「今からそのチョーカーを取ってくる」
「今からですか? それでしたらわたくしどもが……」
「分かりづらい場所にしまっているんだ。だからオレが取ってくる」
エリスは振り返り、ドレスの裾を見る。
(……歩きづらいな――)
ぽつりと心の中で呟くと、無意識に手がドレスの裾を持ち上げていた。
足元を確かめる程度に上げた裾から、太腿がわずかに覗く。
ただの動作として、全く意識はしていない。
――はずだった。
「それはやめておけ」
低い声が、上から落ちてきた。
顔を上げると、目の前にアレスが立っていた。
白い仮合わせの軍服のまま。
肩章はまだ固定されていない。
「……いつからいた」
「お前が、チョーカーを取りに行くと言ったところからだ」
アレスは短く答える。
「……来たばかりじゃないか」
前傾姿勢になっていたエリスは姿勢を正す。
アレスの視線は、エリスの胸元から首筋。
そしてその下に落とされた。
エリスは眉を寄せた。
「……見るなよ」
少しだけ低い声で、ぶっきらぼうに言う。
アレスは何も言わず、すぐに視線を戻した。
何もなかったようないつも通りの顔。
(今、見てた――)
(確実に、“止まって”見た)
エリスは何事もなかったかのように裾を降ろした。
そしてアレスを睨みつける。
「で? なんで、チョーカーはダメなんだよ」
「……あれは、社交界でつけるものではない」
アレスはエリスの元に歩み寄る。
「なっ……」
「意味が出る」
「意味……」
一拍。
「――公の場でつけるものではない」
それだけで、説明はしない。
だが、十分だった。
(……意味、ね)
エリスは小さく舌打ちした。
「じゃあどうすんだよ」
「そのままでいろ」
「はぁ!? この痕を社交界で見せびらかせって言うのか!?」
「消す必要はない」
「……っ!」
隠せない。
隠すなとも言う。
(なら――どうする?)
答えは返ってこない。
沈黙が落ち、メイドも口を挟まない。
ただ、空気だけが静かに張り詰める。
エリスは視線を逸らした。
(クソっ……)
言い返せないわけでも、納得したわけでもない。
(……消す必要はない、か)
この言葉が胸の奥に引っかかる。
不快ではない。
むしろ、少しだけ――
(……面倒くせぇな)
エリスは小さく息を吐く。
そんなエリスの元に、アレスは再度距離を詰める。
エリスの前で足を止め、真っ直ぐにエリスを見つめる。
アレスの歩みと反比例するように、メイドが一歩引く。
「細部の調整は、陛下にご確認いただいた後で」
一礼し、そのまま静かに下がった。
――扉が閉まる音。
気配が消え、残っているのは、二人だけだった。
エリスはムッとしたまま無意識に手が裾へと伸びた。
さっきと同じように、少しだけ持ち上げる。
歩きづらさを確かめるための動作。
それだけだったのだが――
「だからやめろと言っている」
すぐ近くで低い声が落ちる。
距離がさらに詰まっている。
エリスは眉を寄せた。
「確認してるだけだろ」
ぶっきらぼうに返す。
だが、手は下ろさない。
むしろ少しだけ持ち上げたまま、視線をアレスに向ける。
「これで歩けなきゃ意味ねぇだろ」
正論。だが、逃げ道もある言い方。
アレスは数秒、何も言わない。
その沈黙が、妙に長く感じる。
(……なんだよ)
視線が、裾に落ちる。
そこから先のほんのわずかに見えている部分へ。
(……っ)
見られているのが分かる。
さっきと同じで、止まって“見ている”。
エリスの指が、わずかに強く布を掴む。
下ろす理由はあったが、下ろさない。
そのまま、視線を逸らさずに言う。
「……何だよ」
半分、挑発。
半分、本音。
アレスの呼吸が、わずかに浅くなる。
いつもと違う。
エリスはそれに気づく。
(……今、乱れた?)
ほんの一瞬だけだが――
それで十分だった。
アレスはゆっくりと息を吐き、エリスに近づく。
エリスの背には鏡があり、完全に逃げ場が消える。
アレスの手が、ドレスの裾に触れてほんの少しだけ持ち上げる。
布が滑り、視線が下に落ちる。
エリスは体を動かさない。
動かさないまま、それを受ける。
エリスの呼吸が、わずかに乱れる。
(……近い)
分かっている。
分かっているのに、離れない。
アレスの顔が、ゆっくりと低い位置から一直線に太腿に近づき、指先が、わずかに強くなる。
布越しに伝わる圧が、さっきよりも深い。
あと一歩――
(……来る)
エリスの喉がわずかに鳴る。
呼吸が合わない。
抑えようとして、遅れる。
アレスの視線が、完全に落ちる。
狙いが定まる。
迷いが、ない。
そのまま踏み越えるはず、だった。
だが――
唇が触れるか、触れないかの境界で――
アレスは止まった。
まるで、何かに引き戻されたみたいに。
アレスの指がわずかに離れ、呼吸が一度だけ深く入る。
整えるように。
(……今、やろうとしたよな――)
エリスは確信する。
「……やるなら、やれよ」
かすかに掠れた声で低く吐き捨てる。
自分でも分かる。
エリスはアレスから目を逸らさない。
――逸らせない。
アレスは何も言わない。
だが、さっきまでとは違うことは分かる。
意識的に抑えている。
そのまま、ゆっくりと“越えない位置”に距離を戻す。
だが、完全には離れない。
エリスは小さく息を吐いた。
整わない。
むしろ、さっきより乱れている。
「……今、やる気だっただろ」
低く言う。
確認と、挑発。
アレスは一瞬だけ沈黙し――
「違う」
短く否定する。
だが、間があった。
(……嘘つけ)
エリスは小さく笑う。
悔しさと、確信。
「じゃあ何だよ」
さらに詰める。
アレスは視線を逸らさずに答える。
「――判断を誤るところだっただけだ」
静かに、それだけを告げる。
だが、その言葉の重さは軽くない。
(……は?)
エリスの心拍が、一瞬跳ねる。
“誤る”。つまり――
“やるつもりだった”ってことだ。
エリスは舌打ちした。
でも、どこかで止めた理由も理解する。
この行為は“今”じゃない。
それでも――
「……中途半端だな」
ぼそりと呟く。
アレスはわずかに目を細める。
「そうか」
否定しない。
そのまま受け取る。
エリスは視線を外しながら、小さく笑った。
「……じゃあ、夜まで我慢しとけよ」
低く、挑発じみた言葉。
アレスは一拍だけ間を置き「ああ」と、短く返した。
――その約束だけが、残る。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
「……やるなら、やれよ」
「……判断を誤るところだっただけだ」
試着室という二人きりの空間、鏡の前で逃げ場をなくし、ドレスの裾から太腿へ届きそうなギリギリの距離感……!
理性が飛びかけながらも寸前で踏みとどまり、「今じゃない」と抑え込んだアレス様と、強気な挑発を崩さないエリス。二人の攻防いかがだったでしょうか?
「……じゃあ、夜まで我慢しとけよ」
そう言い残したエリスですが……当然、アレス様がそのまま引き下がるはずもなく――!?
【次回予告:第44話「ご褒美」】
アレスの「脱がせるな」という命により、蒼いドレスを着たまま夜まで待たされたエリス。
「……いいぜ、夜まで待てた“ご褒美”だ――」
不敵に笑い、自らドレスの裾をたくし上げて喉元ならぬ“太腿”を晒してみせるが――。
「……っ、あ……あれすぅ……っ!?」
これまでの吸血とは明らかに違う、全身を駆け巡る甘い熱と痺れ。
さらに事を終えたアレスが取った、予想外すぎる行動とは……!?
次回、第44話! 限界突破の吸血と、甘すぎる夜の仕置きをお楽しみに!
「寸止めの緊張感がすごかった!」「試着室でニヤニヤが止まらない」と思った方は、ぜひページ下部の【ブックマーク】や【☆☆☆☆☆(評価)】をポチッと押して応援していただけるとめちゃくちゃ励みになります!
次回の更新もどうぞお楽しみに!




