第三十六話 残滓の行方
――数刻後。
静寂は、戻ったはずだった。
皇帝の私室。
崩壊しかけていた空間はすでに修復され、
壁も、床も、天井も、何事もなかったかのように整っている。
だが――
――ぴちょん。
その音だけが、消えない。
「……まだ、か」
アレスが低く呟き、何もない“はず”の一点を見据える。
「陛下」
サトゥルが一歩前に出る。
「侵入者は――」
「……一度は退いた」
即答だった。
「だが、完全には消えてはいない」
その言葉に、空気がわずかに張り詰める。
「残滓がある」
アレスはゆっくりと手を上げると、同時に白い魔力が静かに広がった。
空間をなぞるように。
染み込むように。
「……逆に辿る」
その瞬間。
――ぴちょん。
音が、“位置”を持った。
「……そこか」
――ぴちょん。
アレスの指先が、空間の一点をなぞる。
何もないはずの場所に――わずかな“歪み”が現れる。
「……見えるのですか」
サトゥルの低い問い。
「見える、ではない」
アレスの瞳が細まる。
「俺は既に“触れている”」
「――あの程度の残滓ならな」
次の瞬間。
アレスの指先から放たれた魔力が、歪みに食い込む。
――ギィィィッ……
空間が軋み、ほんのわずかに“向こう側”が覗いた。
黒。
濁った、淀み。
そして――
そこには、微かな“意志”が残っていた。
「……逃げ切ったつもりか」
アレスの声が低く落ち、さらに踏み込もうとしたその時。
――ぴちょん。
音が、弾けた。
「……!」
歪みが消え、繋がりが断たれた。
まるで――
“こちらの動きに反応して、閉じた”かのように。
「……遮断されたか」
アレスは静かに手を下ろす。
わずかな沈黙。
「……逆探知された可能性は」
サトゥルの問いに、アレスはわずかに口元を歪めた。
「ない」
即答。
「辿らせるつもりで、残している」
「……では」
「奴は――」
一拍。
「こちらを“見ている”」
空気が凍る。
――ぴちょん。
その音が、やけに近く響いた。
✕✕✕
――どこでもない暗い場所。
カイは、ゆっくりと息を吐いた。
「……はぁ」
右腕の黒が脈打つ。
「さすがに……削られたな」
だが、その目に敗北はない。
むしろ――
「でも……」
何もない“はず”の空間へ、顔を上げる。
「見えた」
にやり、と笑う。
「ちゃんと“残ってる”」
――ぴちょん。
音が、響く。
「……あっちにも、残ってる」
楽しげに、呟く。
「いい――」
立ち上がる。
「次は、もっと深くいける」
その瞳に宿るのは、執着と――確信。
「待ってろよ、エリス」
「今度はちゃんと――」
わずかに、言葉が歪む。
「……“救ってやる”から」
――ぴちょん。
音が、内と外で同時に重なり合う。
その響きを、カイは楽しげに聞いていた。
✕✕✕
――現実世界、アルヴァニア城。
誰もいない廊下。
静まり返った空間。
石造りの城の床は乾いている。
――ぴちょん。
だがその音だけが
確かに存在していた。
✕✕✕
――白い光が満ちている。
夢と現実の境界とは違う白。
輪郭の曖昧な世界で、誰かが立っていた。
見えるのは背中だけ。
そこに白く長い髪がなびく。
――その色を、知っている。
その先で――
――赤い血が散った。
「……っ」
声が出ない。
何かを叫んでいるはずなのに、
それは音にならず、誰にも届かない。
だけど……。
息が詰まるほどに、
胸がひどく痛く、苦しかった。
(――どうして――)
その言葉だけが、形にならない。
伸ばした手は、何にも触れられない。
――ぴちょん。
音がした。
エリスは、はっと目を開いた。
だが。
視界は、まだ揺れている。
現実と夢の境界が、曖昧なまま。
「……いまの……」
掠れた声。
次の瞬間――
意識が、再び沈む。
まるで、引き戻されることを拒むように。
――ぴちょん。
音だけが、残った。
――消えずに。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
「見える、ではない。俺は既に“触れている”」
退いたはずのカイが残した残滓をすかさず逆探知しようとするアレス様、どこまでも隙がなくて格好良い……!
しかし、消えない不気味な水音と、暗闇のなかで「見えた」と笑うカイ。
そして意識の底でエリスが見た、白い髪と散る血の光景――。
重苦しい不穏な空気が漂っていますが……。
……ふふふ。みなさん、ご安心ください。
次回の第37話から、一気に空気がひっくり返ります!!笑
【次回予告:第37話「最悪の目覚めと、優雅なる拷問」】
深く沈む意識の底。呼びかける声に届かないエリス。
そんなエリスを現実へ引き戻すため、アレスが取った「あまりに容赦なく、超・合理的な手段」とは――!?
「な、なななななにした! 今!!」
「……起こしただけだ」
そして始まる、お姉様からの怒涛の爆弾発言&イジリの嵐!
次回、シリアス脱出! ドタバタ甘々テラスお茶会編、開幕です!
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