第三十一話 夢蝕(むしょく)
――静寂。
音も、風も、気配もない。
何もかもが削ぎ落とされた空間。
どこまでも白い“曖昧な場所”に、エリスは一人で立っていた。
「……また、ここか」
エリスはすぐに理解した。
ここは“あの夢と同じ”だと――。
だが――
前とは明らかに違う。
“近い”。
現実とあまりにも距離が近すぎる。
背筋にじわりと嫌な感覚が走る。
「……エリス」
その声で、確信に変わった。
「……カイ」
振り返ると以前と同じ顔、同じ声。
『アラン』の親友、そして『エリス』の元婚約者の姿があった。
だが――何かが違う。
その紺色の瞳の奥で、赤い光がゆらりと揺れていた。
「また来たのか」
エリスは静かに言う。
だが、声はわずかに強張っている。
「……ああ、お前に会いに来た」
カイは一歩、踏み出す。
距離が近い。
近すぎる。
それは前回よりも、明確に。
「今回は……逃がさない」
その言葉と同時に空間が歪み、エリスの足元が泥濘に呑まれるように沈む。
「……っ」
動けない。
足が縫い付けられたように、動かない。
「ここは俺の領域だ」
カイの声がすぐ近くで響く。
「夢の中では……お前は俺から逃げられない」
違う、それは違う。
(これは……夢じゃない)
エリスの本能が叫ぶ。
これは“夢に近い何か”だ。
だから――
「……カイ」
エリスは、視線を逸らさない。
「カイ、オレは――」
言い切る前に手首を掴まれた。
「――っ!」
痛い。
現実と同じ、いやそれ以上に鮮明な痛み。
「……やっとだ」
カイの手が震えている。
喜びか、渇望か、それとも――壊れかけた衝動か。
「ちゃんと……触れた」
その指先は、すでに黒く侵食されていた。
「……離せ」
「離さない」
即答だった。
「今度は絶対に離さない」
その声に、かつての優しさはない。
ただ――執着だけがあった。
エリスの胸がわずかに揺れる。
だが――
「……違う」
小さく、否定する。
「オレは戻らない。何をされても」
一瞬、カイの表情が歪んだ。
「……なんでだよ」
かすれた声が漏れた。
「……そうか」
静かに呟く。
怒りでも悲しみでもない。
“欠落”した何か。
「なら――」
握る力が、さらに強くなる。
「お前の意思など関係ない。リミナへ、俺の腕の中へ還るんだ」
その瞬間。
空間が、大きく歪んだ。
カイの側に引きずられる。
意識が、現実から剥がされる。
(……まずい)
これは夢じゃない。
“持っていかれる”
夢から現実へ。
自分の意思ではなく――引き剥がされる。
その時。
――現実。
皇帝の私室。
アレスの腕の中で眠っていたエリスの指先が、わずかに動いた。
「……っ」
眉が寄り、呼吸が乱れる。
引かれている。
“外へ”。
「……愚か者が」
アレスの瞳が開く。
完全に覚醒していた。
「そこまで踏み込んだか」
腕の中のエリスを、強く引き寄せる。
逃がさぬように。
奪われぬように。
その瞬間。
アレスの魔力が爆発的に広がった。
部屋全体を満たす、白い圧。
空間そのものを肯定する力。
「俺の前で、“持っていける”と思うな」
低く、吐き捨てる。
その魔力が――
夢に干渉する。
――夢の中。
「……っ!?」
カイの表情が歪み、空間が軋んだ。
「なんだ……これは……」
“侵食される側”だったはずの空間が――
圧倒的な力で、逆押し返してくる。
「……アレス」
エリスが呟く。
その瞬間。
引かれていた感覚が、止まる。
いや――引き戻される。
「……引けない……?」
カイの眉が歪む。
掴んでいるはずなのに、距離が遠い。
噛み合わない。
存在そのものが――拒絶されている。
「……ちっ、邪魔をするな……!」
カイが舌打ちする。
エリスの身体が、引き戻されていく。
完全にではないが、確実に。
「……次は、壊す」
カイは手を離さないまま、呪詛のように低く囁いた。
「壊してでも、連れて行く」
その瞬間、世界がガラス細工のように爆ぜた。
✕✕✕
「……っ、は……!」
エリスが弾かれたように目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天蓋と、自分を壊れ物を扱うように、けれど逃さぬよう強固に抱きしめるアレスの腕だった。
「アレス……っ」
「……大丈夫だ。ここにいる」
その声は低く、地響きのようにエリスの背中を震わせた。
アレスは、エリスの右手首に残った新しい指の痕――カイが刻んだ醜い赤を、自分の大きな掌で情け容赦なく握りつぶした。
「……連れて行かせんと言ったはずだ。我が領域、我が腕の中から、塵一つ分たりともな」
アレスの瑠璃色の瞳が、闇の中で獣のように炯炯と光る。
彼はそのアザの上から、今度は慈しむように、そして呪うように唇を落とした。
「次に来た時は、夢路ごと奴を焼き尽くし
――残さず消す」
第31話『夢蝕』をお読みいただきありがとうございました。
ついに境界を越えてエリスに触れたカイ。彼の執着と、黒く侵食された指先が意味するものとは……。
そして夢路すら逆侵食してエリスを抱き留めたアレス。手首に刻まれた新たな痕と、彼の誓いはエリスを繋ぎ止められるのか。
二人の男の執念がぶつかり合い、物語はここからさらに加速していきます。
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