第二十八話 それぞれの距離
リミナの国境を越え、峻烈な山々が眼下に広がる。
数百の龍たちが雲海を切り裂き、ルクサリス領へと差し掛かった頃、戦場の緊張は、心地よい疲労へと溶けていく。
白龍の広い背の上。
アレスの腕の中に収まったエリスは、吸血の余韻と精神干渉の残滓で、微睡みの淵にいた。
「……ん、……アレス?」
ふと、項に落ちる熱い視線を感じ、エリスが振り返る。
見上げれば、アレスの瑠璃色の瞳が、獲物を狙う獣のように昏く沈んでいた。
「……まだ、残っているな」
不意に、アレスが言った。
「…………」
エリスは答えない。
だが、その沈黙が肯定だった。
わずかに呼吸が乱れている。
視界の端が、揺れている。
(気づいていたのか……?)
エリスは平然を装う。
「……平気だ」
そう短く言い切る。
「強がるな」
間髪入れずに返され、腕と腰を強引に引き寄せられた。
抵抗する暇はなかった。
「……っ」
体勢が崩れ、距離が一気に詰まる。
「動くな」
命令に近い低い声。
だが、エリスは抗わなかった。
分かっている。
これは――必要な処置だ。
アレスは白い首筋に鼻先を寄せ、細長い指先でエリスの薄い皮膚をなぞる。
一瞬だけ、迷いがよぎる。
――このままでは、壊す。
だが、それでも手は止まらなかった。
エリスは目を閉じる。
かつてリミナの騎士たちが「アラン」として敬い、カイが「エリス」として守ろうとしたその肌に、アレスは容赦なく自身の牙を突き立てた。
鋭い痛みと共に、熱が流れ込んできた。
「……っ、あ……アレス、……ん」
指先が、無意識に外套を掴む。
身体の奥に溜まっていた“毒”が、引き剥がされていく感覚。
それと同時に別の何かが、流れ込んでくる。
「……っ」
意識が、わずかに揺れる。
深い。
ほんの一瞬。
吸血がわずかに長くなる。
だが――
「……もういい」
アレスが、自ら離れた。
まるで、最初からそこまでと決めていたかのように。
エリスの呼吸が、ゆっくりと整っていく。
力が戻ってくる感覚。
だが、完全ではない。
視線を上げると、アレスと目が合った。
「……問題ない」
それは、アレスに向けた言葉だった。
(……見られていたな)
カイの気配は、確かに感じていた。
(……あいつは)
(……間違っているわけじゃない)
(それでも)
一瞬だけ、思考が止まる。
だが――
(今は)
(……選ばない)
それ以上、踏み込まない。
考えない。
決めない。
ただ――
目を逸らさずに、見る。
(今、ここにあるのは)
(……この温もりだ)
アレスは、何も言わなかった。
ただ、わずかに目を細める。
白龍が、再び大きく羽ばたいた。
✕✕✕
帝都アルヴァニアに凱旋してから、数日がたった。
凱旋後のパーティでは再びディアナにからかわれつつ、翌朝からは毎日、朝議に参加するエリス。
ルクサリスでも『ヴァイオレット・レイス』の呼び名から『エリス・オルタディア』の名が定着しつつあった。
「……嬉しそうだな、エリス」
朝議が終わり、皇帝の私室に向う途中でアレスが言った。
「……そう見えるか?」
エリスは菫色の瞳でアレスを見あげる。
「ああ」
短い返答。
「そうか、アレスからはそう見えるのか――」
エリスは再び前を向く。
考えてみるとリミナからの凱旋後、五天星の態度が軟化したように感じていた。
無論リュケイオスはいるが……。
すれ違うルクサリス騎士たちからも徐々に『龍の巫女』でも『リミナの亡霊』でもない、『ただのエリス』として認識され始めていた。
ただ、すれ違いざまに蔑む視線や心ない言葉を浴びせてくる輩はいる。
「……ディアナ殿下の冷やかしにはまだ慣れないけど、ルクサリスの生活に慣れてきたのかもしれないな」
エリスはポツリと呟いた。
「そうか」
アレスはそれ以上何も言わなかったが、エリスを見つめる瑠璃色の瞳には優しさが滲んでいた。
「……これで騎士団と手合わせができたら、言う事ないんだがなー」
エリスはアレスをチラっと見やる。
「……お前は俺だけを見ていればいい――」
アレスは少しムッとしたように言い放つ。
そして、二人はアレスの私室へ戻るのだった。
✕✕✕
その夜。
エリスは夢を見た。
――静寂。
どこまでも白い空間に、エリスは一人で立っていた。
風もない、気配もない。
足音だけが響く空間。
だが、何かが“いる”気がする。
「……アラン」
ふと、背後から聞き慣れた声がした。
エリスはゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは――
「……カイ」
息が、止まった。
「やっと、会えた」
カイは静かに笑った。
だが、その紺色の目は笑っていない。
「……なんで、お前がここにいる」
エリスは冷静に問いかけた。
夢だと分かっているはずだったのに。
だが。
距離が近すぎる。
空気が生々しすぎる。
現実と何も変わらない。
「なあ、アラン」
カイが一歩踏み出すと、エリスの足は、無意識に止まる。
「いつからそんなに背が低くなったんだ?」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「それとも――」
さらに一歩。
「最初から、そんなもんだったか?」
エリスは違和感を覚える。
『アラン』としての自分の視界が、少し低い。
『アラン』はカイと同じ位の身長だった――。
だが、今はカイの方が高い。
そんなはずはない。
そう思った瞬間。
視界の端に、自分の姿が映る。
――リミナの軍服。
『アラン』として纏っていた見慣れたはずのそれが、どこか遠い。
「アラン」
カイが、その名を呼ぶ。
胸が、ざわつく。
「……オレは――」
カイの目が細まり、次の言葉が刃のように落ちる。
「アラン……。いや、エリスと呼んだほうがいいのか?」
その瞬間。
世界が揺らぎ、視界が歪む。
衣擦れの音が聞こえる。
気づけば、身体を包んでいたのは――
柔らかくて軽い白い布。
白銀のドレス。
「……っ」
言葉が出ない。
これは、『龍の巫女』としての自分だ。
「なあ、どっちだ?」
カイが、すぐ目の前に立っていた。
「アランか」
一歩、近づく。
「エリスか」
さらに近づく。
エリスは逃げようとするが、足が動かない。
「それとも――」
カイの手が伸び、右手首をつかまれた。
その瞬間、また衣装が変わった。
重みのある布。
動きやすい構造。
ルクサリスの黒い軍服。
「……今は、そっちか」
カイが低く呟き、全身を舐めるように見つめる。
「その黒い軍服はアイツの趣味か?」
手首を握るカイの手に力が入る。
「――悔しいけど、似合ってる」
褒めているはずの言葉だが、どこか歪んでいる。
「……これはっ、オレの――」
エリスはようやく声を出した。
「オレは――」
言葉が、続かない。
何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
「オレの……何だ?」
カイが問う。
逃げ場はない。
「お前は、何だ」
静寂が落ちる。
静かに。
確実に。
エリスの心の奥へと潜り込む声。
「……オレは」
答えようとするが何も浮かばない。
リミナ王国騎士団長のアランでも、龍の巫女のエリスでもない。
じゃあ――
何だ?
「分からないだろ――」
カイの声が、すぐ近くで響いた。
「最初から、そうだったんだよ」
握られた手首が痛い。
「――っ」
熱がある。痛みがある。
それはエリスの力では振り払えないほどの力――。
「今度は離さない」
低く確かな声。
ぐい、と引かれ距離がゼロになる。
「……カイ、離せ」
だが、声に力がない。
「離さない」
即答だった。
「お前は、俺の元にいるべきだ」
その言葉にエリスの胸の奥が、わずかに揺れる。
だが。
「……違う」
小さく、否定する。
「違う」
もう一度。
「オレは――!」
どこにも、答えがなかった。
その瞬間、視界が弾け目が覚める。
「……っ、は……!」
呼吸が荒い。
心臓が激しく脈打つ。
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
アレスの温もり――。
「アレス――」
エリスは無意識にアレスの名前を呟いていた。
「……どうした? 悪夢でも見たか――?」
エリスの不安げな声に、アレスはそっと抱きしめ直す。
「………………っ」
悪夢――を見た。
そう思った。
だが。
右手首に違和感がある。
抱きしめられている腕から右手を抜き、顔の前に持っていく。
そこには――
指の形に沿った、赤い痕がはっきりと残っていた。
まるで――
今も、そこに“いる”かのように。
指先に、あの感触が残っている。
――消えない。
第28話「それぞれの距離」をお読みいただきありがとうございました!
ルクサリスの生活に少しずつ馴染み、アレスとも「俺だけを見ていればいい」なんてやり取りがあったのも束の間……夜に訪れたのは、あまりにも生々しいカイの夢。
目が覚めてもエリスの右手首に残る、消えない赤い指の痕。
一体カイはどんな禁忌に手を染めてエリスの精神(夢路)へ侵食してきたのか。そして、この不浄な痕にアレスが気づいたらどうなってしまうのか……!?
ここから本格的に、激動の『カイ侵食編』へと突入していきます。
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次回、第29話――アレス陛下が動きます。お楽しみに!




