第十一話 独占の牙
『帰還の儀』の熱気も冷めやらぬまま、舞台は絢爛豪華な晩餐会場へと移された。
煌びやかなシャンデリアの下、銀食器が触れ合う音がやけに耳に障る。
ルクサリスの重鎮たちが揃うその中心で、エリスは置物のようにアレスの隣に座らされていた。
アレスは、まるで自慢の獲物を誇示するかのように、絶えずエリスの肩や腰を抱いている。
目の前の皿には、見たこともないほど豪奢な料理が並んでいるが、周囲から突き刺さる憎悪と好奇の視線のせいで、胃の奥がキリッと痛んだ。
「……おい。これ、いつまで続くんだ。もう下がらせてくれ」
「不服か? リミナのひもじい食卓に比べれば、天国のような宴だろう」
アレスがエリスの皿に肉を取り分ける。その甲斐甲斐しい、けれど支配的な仕草に、周囲の将軍たちの視線が刺さる。
「エリス。口を開けろ。昨日は干し肉しか食べさせられなかったが、今日は好きなだけ食べるといい」
アレスは人目も憚らず、自らのフォークをエリスの口元に運ぶ。
「……っ、じ、自分で出来る……」
「……なんだ、皇帝の愛が受け取れないのか――」
エリスはルクサリスの重鎮たちが見守る中、渋々口を開けるしかなかった。
「……いい子だ、エリス」
エリスは唇を噛む。
「エリス、こっちを向け。口元にソースがついているぞ」
アレスの手が伸び、親指でエリスの唇をなぞる。
その、あまりにも親密で独占的な仕草に、会場のざわめきが一瞬止まった。
「くそ……っ、こんな場所で……!」
(何なんだこの辱めは……! これじゃあまるで見世物じゃないかっ)
赤面して顔を背けたエリスの視界に、不意に揺れる琥珀色の瞳が飛び込んできた。
「アレス。前に教えただろう。
美味しい獲物は、もっとじっくり、丁寧に愛でてあげないと。
――壊れてしまっては、代わりがいないものだろう?」
アレスと同じ白銀の長い髪に琥珀色の瞳。
彼女の隣には五天星の『青』が控えていた。
「キミのその菫色の瞳をよく見せておくれ」
そう言うと、ディアナはアレスがしたように、エリスの顎に手をかけ上を向かせた。
「……姉上ッ……」
アレスの表情が曇る。
「とても綺麗な菫色だ――。
今度ボクの離宮に遊びにおいで。歓迎するよ、ヴァイオレット・レイス――」
そう言い終わるとディアナはエリスからあっさり手を離した。そして、アレスを一瞥する。
「……いくら愛らしい子猫だからって、愛で過ぎるのはよくない。節度をわきまえろ――」
ディアナはファイにエスコートされ、晩餐会場を後にした。
ディアナが去った後、エリスは拳を握りしめた。
それと同時に、アレスの握っていたグラスにピキリと亀裂が入り、次の瞬間、粉々に砕け散った。
「……食欲が失せた。行くぞ、エリス」
アレスは彼女の手を引いて強引に立ち上がると、ディアナに続き晩餐会場を後にした。
「あーあ、陛下ってば短気なんだからー」
五天星『黒』の騎士、リーベル・メランは楽しそうに二人の影を見送るのだった。
✕✕✕
静まり返った廊下から二人分の足音が聞こえる。
「お、おい! 離せ! 手が千切れそうだ!」
そんなエリスの訴えも虚しく、アレスはエリスの手首を力強く握りしめながら、怒りに任せて廊下を突き進んでいく。
――バンッ!
大きな音を立てアレスの私室のドアが開かれた。
アレスはそのままの勢いでエリスを寝台に縫い付ける。
「……姉上に触られて、いい気分だったか?」
その声には、苛立ちと――わずかな焦りが滲んでいた。
「はぁ!? ……何を言ってるんだ! オレは――」
アレスの手が、エリスの両手首を乱暴に掴み、頭上のシーツへと叩きつけた。馬乗りになった皇帝の重圧に、エリスは息を呑む。
「……っ、離せ! お前が、あんな奴らの前でこんな格好をさせたから……! あんな女に、オモチャみたいに触られたんだろ……!」
エリスは足をバタバタさせて抗議するが、アレスはまったく動じない。
「……そうだな……」
アレスは頭上にあるエリスの手首を左手で一纏めに掴み直してから右手を離す。
その右手がエリスの襟首に伸びる。
「……契約の時間だ――」
「……ッ!」
エリスの菫色の瞳が揺れた。
身をよじるエリスを冷徹に見下ろしながら、アレスはあえてゆっくりと、その指先を動かした。
プチッ。
静まり返った私室に、硬いボタンが弾ける乾いた音が響く。
一つ。また一つ。
プチプチッ……と、喉元を固く守っていた留め具が、無慈悲に外されていく。
突き飛ばしたい。逃げ出したい。けれど、脳裏を掠める『契約』の二文字が、エリスの指先を石のように固まらせる。
(……逃げない。これは、オレが選んだ条件だ)
毎日、アレスにその血を捧げること――。
それが、エリスがルクサリスで戦場に立てる条件なのだから……。
「そ、そんなに急かさなくてもっ……、血なら……いつでもお前にっ!」
刹那。
黄金の刺繍が施された高い襟が左右へとはだけ、隠されていた白い首筋が、冷たい空気とアレスの熱い視線に晒された。
「『お前』か――。……その呼び方は気に入らん」
荒い呼吸に合わせて、剥き出しの鎖骨が白波のように上下する。
「エリス、俺のことは『名前』で呼べ――」
「……はぁっ? 急にどうした!?」
アレスの瑠璃色の瞳が、獲物の急所を見定めた獣のように昏く濁った。
彼はエリスの耳元に唇を寄せ、熱い吐息を吹きかける。
「『名前』で呼べ――」
低く、逃げ場を塞ぐような声だった。
「……それが出来ぬのなら、二度と血を吸ってやらん――」
「――どういうっ!?」
「――血を寄越さぬなら、お前は二度と戦場に立てん」
血を吸われないと言うことは、即ち戦場へ行く契約が果たされないということ。
「――お前、それはあまりにも傲慢だ……!」
エリスは歯を食いしばる。
そして、観念したように小さく呟いた。
無意識に、身体の力が抜ける。
「……あ、アレス……。オレの血を、飲んで――」
その言葉を、最後まで聞くことなく――
牙が沈んだ。
首筋を駆け抜ける、脳を焦がすような激しい衝撃。
エリスは喉の奥から、短い悲鳴を漏らし、弓なりに身を躍らせた。
左胸にある龍の紋章がアレスの吸血に合わせて浮き上がる。
「……はぁ……ぁ、ああ……っ」
逃げ場を失った首筋――ドクドクと脈打つ命の音へ、アレスは餓えた獣のごとく深く、容赦なくその牙を沈めた。
純白の軍服。
エリスの肌の白。
そこに滲み、滴り落ちる鮮血の赤。
アレスは逃がさないと言わんばかりに、エリスの細い腰を強く引き寄せる。
狂おしいほどの独占欲を、押し殺しきれずに、その命を啜り上げた。
「……っ」
喉を鳴らし、その熱を飲み下すごとに、アレスの視界が白く爆ぜる。
喉元を震わせ、体内へと流れ込む脈動。
指先が、わずかに震える。
舌に広がるあまりにも残酷で、甘美な血の味が、強固に閉ざしていた四百年前の記憶を無理やり抉じ開けた。
自分の手で、その鼓動を世界から遠ざけたあの日の感触が、今、腕の中で脈打つ生身の熱さと重なり合う。
その瞬間だけ、傲慢な皇帝の顔が消える。
「……エリス」
それは命令ではなく、四百年もの間、闇に閉じ込めていた半身を呼ぶような、切実な祈りだった。
エリスは、意識が白濁する中で――
無意識のまま、それでも――アレスの軍服を掴み返していた。




