第十二話 残された鼓動
――温かい。
最初に感じたのは、体温だった。
頬にかかる規則正しい吐息。背に回された腕の重み。
自分の鼓動とは別の、低くゆったりとした脈動が、すぐ背後で響いている。
エリスは、薄く目を開けた。
見慣れない天井。重厚な天蓋。金糸の刺繍が施された深紅の帳。
――ここは。
思考が追いつくより先に、昨夜の記憶が首筋を焼いた。
鋭い牙。
脳を焦がすような衝撃。
喉元に落とされた熱。
「……っ」
混乱する頭で自分の体を見下ろしたエリスは、息が止まるのを感じた。
昨日、無慈悲に引き剥がされた黄金の襟。
ボタンが弾け、だらしなく左右へとはだけた軍服からは、アレスに深く牙を立てられた首筋が、隠しようもなく剥き出しになっている。
夢ではない。
冷たい朝の空気が、はだけた胸元をなぞる。
それ以上に、自分の腰を抱き寄せ、うなじに顔を埋めている男の存在が、エリスの思考を真っ白に染め上げた。
背後の腕が、わずかに動いた。
ぎゅ、と。
無意識のそれは、逃がさないとでも言うように、エリスの腰を引き寄せる。
「な……」
振り向いた瞬間、言葉が喉で止まった。
眠っている。
無防備な顔で。
長い白銀の睫毛が影を落とし、整いすぎた横顔は静謐そのものだった。
昨夜の獣のような昏さはどこにもない。
ただ、穏やかで。
――どこか、縋るような。
(……何なんだ)
胸が騒ぐ。
昨夜の声が、耳奥で蘇る。
『……エリス』
命令ではなかった。
あれは、あんな声は。
(違う。騙されるな)
エリスは小さく息を吐き、そっとその腕を外そうとした。
その瞬間。
ぐ、と更に強く抱き寄せられる。
「……っ!?」
起きていない。目も開いていない。
それなのに、離さない。
まるで、失くしたものを取り戻した子供のように。
エリスの鼓動が跳ね上がる。
(やめろ……。そんな顔をするな)
暴君でいろ。
傲慢でいろ。
支配者でいろ。
その方が、よほど楽だ。
なのに。
静かな寝息の下で、アレスの唇が、かすかに動いた。
「……行くな……」
掠れた、子供のような声。
エリスは息を呑む。
胸の奥で、何かが軋んだ。
エリスは目を閉じる。
わからない。
わからないのに。
離れたいはずの腕の中で、ほんの僅か、体の力が抜けた。
(……混乱、しているだけだ)
そう言い聞かせながらも。
首筋の痕が、じんわりと熱を持つ。
まるでそこに、昨夜の祈りがまだ残っているかのように。
✕✕✕
――トントン。
「アレス、朝議の刻限だ――」
扉が僅かに開き、五天星の『青』が立っていた。
ファイは寝台に浅葱色の視線を向ける。
そこには『皇帝』の寝室で、抱き合って寝ている二人がいた。
浅葱色の視界が、藤色の髪と首筋の痕を生々しく捕らえる。
ファイは目を細めた。
(……なるほど)
「おい、ヴァイオレット・レイス。
そこにいる腑抜けた皇帝に、そろそろ起きるように伝えろ」
そう言い残すと、静かに扉を閉めた。
(見られた……)
動揺を隠しきれないエリスの顔がどんどん赤く染まる。
すると、背中から抱きしめる手が一層強まった。
「……ファイか――」
寝起きの低い声がエリスの耳朶にかかる。
「アレス……。お前起きて――うわぁ」
アレスはエリスを抱きしめながらゆっくりと上半身を起こす。
「俺ともあろう者が、朝議に遅れるわけにはいかんな」
アレスは寝台から降りるとテキパキと身支度を整える。
その顔つきは、先ほどまでの少年の様なそれではなく、ルクサリス帝国の皇帝としての顔だった。
目の前で、皇帝が無駄のない動きで軍服を纏っていく。昨夜、獣のように自分を貪った男が、今は手際よく隙のない軍服姿に変わっていく。
「……何をしているエリス。お前も朝議に出席するのだぞ? そんなだらしない格好で朝議に参加するつもりか?」
「……なっ!」
(元はと言えば、お前がこの襟をめちゃくちゃにしたんだろうが!!)
エリスは心の中で悪態をつきつつ、襟元を正す。
そして、いつの間にか脱がされていたブーツを履いた。
「こ、これでいいかっ!」
エリスの声にアレスがゆっくり近づく。
「エリス。お前は俺の剣だ。
俺の剣に、こんな寝癖を付けて歩かせるわけにはいかない」
アレスはどこからか取り出したブラシでエリスの髪を整えた。
「っ!……そんな事、自分で出来る」
「今は時間が惜しい。俺が整えた方が速い」
アレスは有無を言わさずにエリスの藤色の髪をとかしていった。
(な、なんだこの屈辱は――!)
エリスの不服そうな顔に、アレスは目を細めていた。
✕✕✕
身支度が終わり廊下に出るとファイが二人を待っていた。
「今日は、随分と機嫌がいいな……」
「……ファイ、今朝の議題はなんだ」
アレスはファイを横目で見やる。
二人はそのまま歩き出し、アレスは淡々と皇帝の仕事をこなしていく。
「……今日もいつも通り、魔獣討伐の話だ――」
エリスはそんな二人の後について歩いていた。
(魔獣討伐……。リミナにいた頃もよく議題に上がっていたな……)
そんな事を考えていると前を歩く二人の足が止まった。
どうやら会議場に着いたらしい。
アレスが扉に手をかける。
ふと、エリスの菫色の瞳がファイの浅葱色の瞳とかち合った。ファイは何も言わずに、エリスの首元に視線を落とした。
エリスが無意識に襟を掴む。
「……無理はするなよ」
「……なっ……!」
ファイの言葉にエリスは困惑した。
(コイツ……! 何か勘違いしている……!!)
「おい、何を話している。行くぞ―― 」
アレスはエリスの腰に手を回す。
アレスによって、皇帝の隣を与えられた剣。
二人はドアを開けた。 そこはもう、戦場だった。




