第九話 その隣は、もうあなたの場所
広間に入った瞬間、私の名前が、まず呼ばれた。
「ヴァイデン伯爵家次男 レオン・フォン・ヴァイデン様、ご同伴 アルディス公爵令嬢イルゼ・フォン・アルディス様」
典礼係の声は、いつもの夜会の入場時刻と同じ高さだった。ご同伴という言葉に、特別な抑揚はなかった。
それがかえって、私の名が当然の位置に書かれていることを、広間の全員に伝えた。
ヴァイデン様の歩幅は、屋敷から馬車に乗る時から、ずっと私に合わせてくださっていた。
馬車の中では、お互いほとんど言葉を交わさなかった。けれど、口を閉ざしたままの時間が、不自然ではなかった。
広間の中央に進む。
中央卓の周りで、ベルナルディ侯爵夫人が一度だけこちらをご覧になった。私と目が合うと、夫人は静かに頷かれた。
アスター侯爵夫人が、その隣で扇を少しだけ開かれた。グリーン伯爵夫人は、扇の縁で何かの拍子を取るような小さな動きをされた。
私の入場に、夫人方が言葉以外で答えてくださっていた。
席次表は、典礼局棟側の入口で、最終確認のために小さく掲示されていた。
ヴァイデン伯爵家次男の席。その隣に、アルディス公爵令嬢イルゼ・フォン・アルディスの名。
二つの名は、同じ太さの墨で書かれていた。書き手は同じ人だと、字でわかった。最後にお見えになった日に応接で書いてくださった照会状の字と、同じ筆遣いだった。
席に着いてから、私は広間の奥の方へ目を向けた。
王太子殿下のお姿があった。
いつもの中央卓ではなく、その奥の卓に座っていらした。今夜は、王太子の隣席のお飾りはなかった。
婚約者の席として用意されていた椅子の位置に、今夜は別の家系の若い令嬢が座っていた。順序通り、爵位順に並べ直された結果だった。
殿下は、私を一度だけ見られた。
あの夜の応接で、私の前に伸ばしかけて止まった手の動きを、私は思い出した。今夜の殿下のお目は、その手をどこに置けばいいか、まだ決められていらっしゃらないように見えた。
決めるのは、もう私の役目ではなかった。
私は視線を戻した。
ヴァイデン様の手が、卓の上で静かに動いた。乾杯の盃が、典礼係の手で順に配られていった。
乾杯の発声は、今夜もベルナルディ侯爵夫人が務められた。
夫人は、先夜のような前置きを置かれなかった。ご自分のお役として、静かに盃を上げ、短い祝辞を述べられた。
広間の拍手が、いつもより少しだけ厚かったような気がした。
ところが、乾杯の余韻が消えきらないうちに、広間の入口の方から、若い女性の声が聞こえてきた。
「いえ、私、いつも来ているのです。何かの間違いだと思いますわ」
モーレント男爵令嬢のお声だった。
広間の中央にいた私の卓まで、その声ははっきりと届いた。距離があるのに届いたのは、声を張られていたからだった。
警備の正装をした文官が、入口で何かを確認していた。手元に、薄い綴じを開いておられた。本日の招待者名簿だと、すぐにわかった。
「モーレント男爵令嬢殿、本日の招待者名簿に、お名前が確認できません」
文官は、声を張らなかった。けれど、抑制された声でも、広間の中ほどまで通った。
「いつもは私、自由にお入りしておりますわ」
「左様でございますが――本日付をもちまして、王宮自由出入り資格の一時停止が発令されております。広間へお進みになることは、お控えくださいませ」
一時停止。
その言葉が文官の口から出た瞬間、広間の隅にいた数人の貴婦人方が、扇を同時にお閉じになった。
閉じる音が重なって、一拍だけ、広間が静かになった。
モーレント男爵令嬢は、文官の前で立ち止まれなかった。
文官が止めるよりも先に、令嬢の足が広間の中央寄りへ進んでいた。私の卓までは、まだ遠かった。けれど令嬢の目は、まっすぐに私の方を見ていらした。
「イルゼ様」
私は、応じなかった。
「イルゼ様、私のせいで、本当に、私」
令嬢は、卓と卓の間で一度、足を止めた。誰かが手を伸ばして引き止めたわけではなかった。ご自分で、止まれなくなる前に止まられたようにも見えた。
目が、潤んでいた。
あの夜会で、私のために用意された椅子の背に当然のように手を置かれた時とは、まったく違う目だった。
その時、広間の中央卓の奥から、お立ちになった方があった。
王妃陛下だった。
陛下は、いつもの平易なお歩み方で、卓と卓の間を進んでこられた。誰も、お席を立たれなかった。立つことが、かえって失礼にあたる場面だった。
陛下は、モーレント男爵令嬢のお前で、お止まりになった。
「モーレント嬢」
陛下のお声は、私室で聞いたあの硬さよりも、少しだけ柔らかかった。けれど、その柔らかさの中に、引かない強さがあった。
「本日付で、社交活動の当面のご退出を命じます。お身体のご静養を理由といたします。お屋敷では、しばらくお身体をお休めなさい」
「王妃陛下、私、私は」
「お聞きなさい、モーレント嬢」
陛下は、一度だけ目をお閉じになった。それから、もう一度お開きになって、おっしゃった。
「あなたを、私の家でいちばん近くに置いてきたのは、私自身でもありました。だから、私が言わねばなりません。あなたには、立ち入ってはいけない場所がございました。立ち入ってよい場所とよくない場所を、これからはご自分の足で覚えなさい」
立ち入ってはいけない場所。
その一言を聞いた瞬間、令嬢のお目から、こらえていらしたものが、ほろりと落ちた。
拭われなかった涙は、絨毯の上には届かず、ご自分の白い襟の縁で吸い込まれた。
文官が、令嬢のお側に寄った。お腕を取られたわけではなかった。一歩、後ろに位置を取られただけだった。
それでも、令嬢は、ご自分で振り返り、広間の出口へ向かって歩き出された。
歩き出される直前、令嬢のお目が、もう一度だけ私の方を向いた。何かを言いたそうな目だった。
けれど、私は応じなかった。応じることが、私の役目ではないと、その時はっきりと分かった。
令嬢は、振り返らず、お出になった。
広間に、本来の静けさが戻った。
典礼係が、楽団へ目で合図した。次の曲が始まった。それで全ては、何事もなかったように再開された。
ヴァイデン様が、私の卓のカップに、新しい紅茶を注いでくださった。いつもの、ぬるい温度だった。
「公爵令嬢様」
ヴァイデン様のお声は、ご自分にだけ届くほどの低さだった。
「あなたに、いずれ、改めてお話ししたいことがございます」
いずれ、改めて。
短いお言葉だった。お飾りも、急ぎもなかった。今夜のうちに、ということでもなかった。
来週でも、来月でも、お受けする側がよいと思った時に、改めて、と、それだけのお言葉だった。
私は、頷いた。頷くだけだった。
頷きながら、私は、心の中で、もう一度、その一文をなぞった。
いずれ、改めて。
その短い言葉の前に、私は、初めて、未来という言葉を置けるような気がした。




