第八話 招待状の宛名
招待状は、季節ごとに少しずつ紙の色が違う。
春は薄い桜貝の色、初夏は若草を一度乾かした色、秋は枯れる前の薄茶。冬は灰がかった象牙色。
十年の婚約のあいだに、私は王宮典礼局が用意する紙の色を、季節を待つよりも先に覚えるようになっていた。
今回の紙は、初めて見る色だった。
深い藍。海の底に近いような、けれど暗くはない藍だった。封蝋も同じ系統の藍で、典礼局の押し型が、いつもより少しだけ鮮明に残っていた。
新調された蝋の刻印かもしれなかった。
家令が銀盆を私の前に置いた。
「お嬢様、王宮夜会のご招待状が届きました」
ご招待状、ではなく、招待状。家令は今朝、わずかに敬称を控えた言い方を選んでいた。
私は気づいたが、特に咎めなかった。むしろ、その控えめさが、今の私には合っていた。
封の中の紙を取り出した。
宛名は、アルディス公爵令嬢イルゼ・フォン・アルディス。私の名前の下には、何も足されていなかった。
婚約者として書かれていた頃の付記が、まるごと消えていた。
それは当然のことだったけれど、当然と分かっていても、空欄を見るのには時間がかかった。空欄を空欄として見つめられるようになるまで、紅茶を一口飲む程度には時間が必要だった。
その日の午後遅く、家令がもう一度部屋に入ってきた。
「お嬢様、先方の家令から、また便りがございました」
先方の家令、というのは、私の中ではもう王太子家の家令を指す呼び方になっていた。
「お聞かせなさい」
「本日付の王宮夜会のご招待状の発送につきまして、社交界で少し動きがございました」
家令の話によれば、こうだった。
王宮夜会の招待状は、典礼局の招待者名簿に従って一斉に発送された。アルディス公爵家には届いた。
複数の侯爵家、伯爵家、ベルナルディ侯爵家、アスター侯爵家、グリーン伯爵家にも、これまで通り届いた。
届かなかった家が、一軒あった。
モーレント男爵家。
今までは、男爵家であっても、乳姉妹であるアレクシア様のお名前で、必ず一通が送られていた。それが今回、男爵家自体にも、令嬢様の個人宛にも、一通も発送されなかった。
「貴婦人会では、二日前から、その話が囁かれ始めたとのことでございます」
「ええ」
「いちばん最初に気づかれたのは、ご婦人方ではなく、家令の方々であったそうでございます」
家令たちは、招待状の到着順を内々に確かめ合う習慣がある。それが昔からの礼儀でもあるからだった。
今回、モーレント男爵家へ届かないことは、男爵家の家令が同業の家令たちへ問い合わせを始めた時点で、社交界の周辺にざわめきとして広がった。
「『アレクシア様のお名前が、ない』」
家令は、誰かの言葉を引いて伝えた。
その短い一文だけで、社交界の半分は意味を理解した。
モーレント男爵家から、王宮典礼局に正式な問い合わせが出されたのは、その翌朝のことだった、と家令は続けた。
「典礼局からのご返答は――『今回はお見送り申し上げます』」
お見送り申し上げます。
短い一文だった。理由も、期間も、見通しも書かれていない。けれど、王宮典礼局がその一文を正式に発したという事実だけで、社交界はおおよその意味を察した。
「男爵家のお屋敷の馬車寄せに、本日午後、二台の馬車が訪れたそうでございます」
「お友達のご訪問でしょうか」
「いえ、お見舞いのご様子では、なかったそうでございます」
家令は、それ以上、詳しくは言わなかった。私は察した。
家令同士の付き合いの中で、家の格と、立ち寄った馬車の家紋を、お互いが確認し合う段階に入っているのだろう。
もうひとつ、家令の便りには、別の話が混じっていた。
いつも王太子家と取引のある二、三の貴族家が、次回の王太子家主催の小茶会への返事を、いまだ保留しているとのことだった。
返事を遅らせること自体は、社交界では珍しくない。けれど、これまで一度も遅らせてこなかった家が、今回に限って遅らせているのが、家令たちの目には引っかかっていた。
「これは、まだ、はっきりとはお動きになっていらっしゃらないご様子でございます」
「ええ」
「ただ、お動きになる兆しは、いくつか出てきております」
兆し。
その言葉だけで、私は十分だと思った。
今すぐ全てが動くのではない。社交界というものは、本当に動き出すまでに何ヶ月もかかる。けれど、家令たちが気づいた、というその一段だけで、流れの向きはもう変わっていた。
夕方、ヴァイデン様の馬車が、屋敷の正門に止まった。
今度は、書類函でも革鞄でもなかった。手のひらに、薄い名刺のような紙片を一枚だけ持っていらした。
応接の卓に、父と私が並んで座った。ヴァイデン様の向かいに、ちょうど私の席ができる配置だった。
「公爵閣下」
ヴァイデン様は、まず父に向けて礼をされた。
「公爵令嬢様のお名前で、お願い申し上げたい件がございます」
まず父に通す、という礼の形が、私には何より重く感じられた。
「お聞きしよう」と父が答えた。
ヴァイデン様は、卓の上に、薄い紙片を置かれた。
席次表の控えだった。次回の王宮夜会の、典礼局統括席の周辺だけが書き写されたものだった。
ヴァイデン様のお名前の隣に、空欄があった。
「同伴者欄、と書かれているところでございます」
卓の上の小さな空欄を、私は見つめた。
「公爵令嬢様、次回の王宮夜会、私の同伴者として、ご一緒にご出席をお願いできませんでしょうか」
ヴァイデン様の口調は、いつもと変わらなかった。
けれど、いつもと違うのは、その短いお願いの一文に、それ以上のお飾りが、まったく付いていなかったことだった。長い説明も、誠意の前置きも、用意した褒め言葉も、一切なかった。
ただ、欄があり、私の名を入れたい、と、それだけだった。
父が、卓の脇で一度、わずかに頷かれた。事前に、父にはご相談があったのだ、と分かった。
ヴァイデン様は、私と父の前にお出になる前に、まず父にお伝えしてから、改めて私の前に来てくださっていた。それは、私個人ではなく、公爵家への礼を尽くす手順だった。
私は、卓の上の紙片を、一度だけ手に取った。
欄の幅は、私の名を書くのにちょうど十分な広さだった。欄の外側に、ヴァイデン様の名がきれいに収まっていた。
書けば収まる位置に、私の名は、もう用意されていた。
「お受けいたします」
声が、思ったよりまっすぐ出た。
「ご一緒に、お受けいたします」
ヴァイデン様は、ご自分のカップに手を伸ばそうとして、その手を、卓の上で一度止められた。それから、ゆっくり卓の縁を指でなぞられ、改めてカップに手を戻された。
その短い止まりが、私には返事の代わりに見えた。
父は、何もおっしゃらなかった。代わりに、卓の上の紙片を、私の方へほんの少しだけ寄せてくださった。
ヴァイデン様が辞去された後、卓の上にはまだ紙片が残っていた。
欄の空白が、いつまでも軽かった。
今までも、私の名は何度も招待状に書かれていた。けれど、今度初めて、私は自分の名で、自分の意志で、欄に書かれることを選んだのだった。
もう一度、私は欄を見た。
私はもう一度、自分の名前で立つことを選んだ。それが、誰かに譲られない欄であることが、何より大事だった。




