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空いた隣席を、社交界の皆さまは静かに見ていらっしゃいました  作者: 九葉(くずは)


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第七話 書類の不在

 婚約解消の翌週、王宮の朝は、誰のものでもない書類で始まったらしい。


「らしい」と書くのは、私がその場にいなかったからだった。話を運んできたのは、家令だった。


 家令は王太子家の家令と古い付き合いがあった。十年の婚約のあいだに、私と先方の家との連絡が、家令同士の繋がりで支えられていたことが、こんな時になって初めて見えた。




 その朝、家令が銀盆ではなく、ただの茶器を運んできた。


「お嬢様、本日は朝食前に少しお時間を頂戴できますでしょうか」


 いつもの言い回しと、わずかに違っていた。


「どうぞ」


 家令は卓の脇に立ち、私が頷くまで茶を注がなかった。


「先方の家令から、昨夜遅くに早馬の便りがございました。本日中にお返事はご無用とのことでしたが、お耳に入れるべき内容かと存じます」


「聞きましょう」


 家令は、一度だけ目を伏せてから話し始めた。話の中身は、こうだった。




 婚約解消の翌朝から、王太子家の執務室の机に、決裁を仰ぐべき書類が積み上がり始めた。


 次の王宮夜会のための招待状の宛名と順序、外国大使館からの返書の文面確認、季節の贈答の宛先一覧、貴婦人会主催の茶会への返事。それらの全てに、これまでは、私の手配書か、もしくは私の承認印が添えられていた。


 書類は、十年のあいだ、当然のように私の手元を経由していた。その当然が、ある朝から消えた。


 書類は、机の上に積まれた。誰も決裁を仰ぐ先を持たなかった。




「殿下は、ご自分でご判断なさいました」


 家令は淡々と続けた。


「初めの招待状で、爵位順を二段ほど取り違えられたそうでございます」


「二段」


「公爵家と侯爵家の順を入れ替えられた、ということでございました。発送される前に、典礼局の書記官が止めましたが、止めるための照会を出すのに、お一日かかったそうで」


 爵位順の取り違えは、招待状を受け取った貴族家にとっては、はっきりとした失礼にあたる。発送される前に止まったとはいえ、止めるための照会が王太子家から典礼局に出されたという事実だけで、社交界には伝わる。


「外国大使館への返書で、宛名の二重敬称をなさったそうでございます」


「お続けなさい」


「贈答先の一覧で、先代の侯爵夫人とご当代の侯爵夫人を、並びの逆になさったそうでございました」


 家令は、書類の上の話だけを淡々と運んだ。評価はしなかった。私もしなかった。




 茶を一口飲んでから、家令はもう一段、低い声になった。


「お嬢様、もうひとつ、お耳に入れねばならぬことがございます」


「ええ」


「モーレント男爵令嬢様が、王宮典礼局へお越しになったそうでございます」


 私はカップを置いた。家令の声に、いつもより遠慮があった。


「お手伝いに、と仰せだったそうでございます」


「典礼局へ、ですか」


「典礼局棟の入口の書記官が、お止めしたそうでございました。お言葉のままお伝えいたしますと――『モーレント男爵令嬢殿、こちらは王太子家の公式業務でございます。どうかお戻りくださいませ』」


 典礼局の書記官が、男爵令嬢に向かって「殿」を付けたことに、私は意味を感じた。


 あえて礼の重い形で名乗ることで、相手の身分に対して礼を尽くしながら、同時に「あなたはここに立ち入る立場ではない」と告げていた。


 最も冷たい礼節というのは、こういう形をしているのだと、改めて思った。


 家令は、その一文を繰り返した時、句切りを丁寧に置いた。私に向けてではなく、彼自身の中で、その台詞を一度復習するように。




「モーレント男爵令嬢様は、その後、王妃陛下にお呼び出しを受けられました」


 家令は卓の上の茶器を一度だけ拭った。


「王妃陛下のお声で、これも、先方の家令が伺った範囲ではございますが――『あなたがするべき仕事ではありません。立ち入ろうとなさったことを、お忘れなさい』」


「お忘れなさい」


「左様でございます」


 お忘れなさい。


 王妃陛下が、いつものあの平易な口調でそうおっしゃったのだろう。


 私は、五日前のあの私室の卓を思い出した。卓の上に置かれていた王妃印の朱を、家令の話と一緒に、心の中でもう一度なぞった。




「お嬢様」


「ええ」


「以上でございます」


 家令は深く礼をして、退出しようとした。私は呼び止めた。


「家令」


「はい」


「先方の家令には、お声を伝えてください。お知らせ、ありがとうございました、と」


 家令は深く頷き、それきり、その朝はもう何も言わなかった。




 午後遅く、ヴァイデン様の馬車が屋敷の正門に止まった。


 今度は革鞄も書類函もなく、ご自身の手のひらに薄い封筒を一通だけ持っていらした。


 応接の卓に、私と父が並んで座った。ヴァイデン様は、私たちの向かいでお座りになる前に、軽く礼をされた。


「公爵閣下、公爵令嬢様」


 短く名を呼ばれて、私は、自分が「公爵令嬢様」と呼ばれることに、もう一度静かに慣れる必要があるのを感じた。


「王宮典礼局よりお知らせいたします」


 封筒の封を切らずに、ヴァイデン様は文面を口で告げられた。


「王太子家の社交日程のお手配、贈答先のお選び、ご来賓のお応対、ご招待状の発送、その他関連業務一切につき、王宮典礼局が正式に引き継ぎいたしました。本日付でございます」


 父が一度だけ頷かれた。


「公爵令嬢様、本日以降、王太子家から、あなたへの照会は、一切行われません。ご返事を求められることも、お手配をお願いされることも、もうございません」


 ご返事を求められない。お手配をお願いされない。


 十年のあいだ、私の朝の卓に並んでいた書類の山が、今日付けで私の生活から外れた。


 そう告げられた瞬間、私は、息を深く吸えた。吸ったあとで、自分の肺の中に、いつも残っていた重いものがあったことに気づいた。


「ありがとうございます」


 私はそう申し上げた。


「典礼局でお引き受けくださり、感謝いたします」


 ヴァイデン様は、短く礼をされた。


「典礼局の本来の業務でございます。お礼には及びません」




 ヴァイデン様が辞去された後、父はしばらく卓の前にいらした。


 卓の上に、封を切らなかった封筒が一通残されていた。お知らせの文面はヴァイデン様が口頭で告げてくださったので、封筒は形式の写しだった。


 父は、その封筒を、卓の引き出しの中に静かに収められた。


 窓の外で、馬車の車輪の音が遠ざかった。


 その夜、家令が一度だけ部屋に入ってきた。


「お嬢様、先方の家令から、もう一通だけ便りがございました」


「お聞かせなさい」


「王宮典礼局の机上では、次の王宮夜会のための招待状用紙が、本日付で、一段新たに積まれたとのことでございます」


 一段。


 その一段の中の一通の宛名のことを、私はまだ知らなかった。


 知らなかったけれど、その宛名を整えていらっしゃる方の手は、もう想像がついていた。

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