第六話 申し入れ
父はその朝、私を見送る間、一言も話さなかった。
ただ、私が手袋を嵌めるところを最後まで見ていらした。私が左の手袋を二度ほど直した時にも、何もおっしゃらなかった。三度目に直したあと、父は短くこう言われた。
「お前が決めたのなら、私は守るだけだ」
二週間前の夜と、ほぼ同じ言葉だった。
あの時、父は新しい扇を整えてくださっていた。今朝の卓には、扇の代わりに、私が一晩かけて書いた書面が置かれていた。
書面の角は、二度書き直したぶん、わずかに波打っていた。
王宮の正門で馬車を降りた時、私は誰にも会いたくないと思った。
けれど、案内官が二人、すでに待っていた。先日の朝と同じ二人だった。彼らは私の顔を見て、特に何も言わずに、ただ本宮の方角へ歩き始めた。
回廊の長さは、変わらないはずだった。今朝に限って、思ったよりすぐに王妃陛下の私室の前へ着いた。
扉が内側から開いた。
中には、王妃陛下と、卓の脇に立つヴァイデン様。卓の上には、すでに紙束が用意されていた。墨壺と羽根ペン、そして王妃印の印章函。
私は、自分が来ることを、この方々が分かっていらしたのだと気づいた。
「お越しくださいまして、ありがとうございます」
王妃陛下のお言葉は、いつもの茶会のものとほぼ同じだった。
私は深く礼をしてから、卓に近づき、抱えてきた書面を一枚、卓に置いた。
「王妃陛下に申し上げます」
声が、思ったよりよく出た。
「私、アルディス公爵令嬢イルゼ・フォン・アルディスは、本日付をもちまして、王太子ライアス・エルランド殿下との婚約を、お受けいたしかねます。礼を尽くしての、辞退でございます」
書面の文面と、ほぼ同じ口上だった。
書面に書ききれない私の思いを、口上で足そうとは思わなかった。むしろ、書面と同じ言葉で告げる方が、私自身を救う気がした。
王妃陛下は、卓の上の書面を、ご自分の指で一度なぞられた。
「内容を、確かめます」
ヴァイデン様が、一枚の書面を卓のもう一方の側からご覧になった。
書面の確認は、思ったより手早かった。婚約辞退状の様式は、王宮典礼局があらかじめ整えてあるのだろう。
私が一晩かけて書いた文面は、その様式に、ほぼ正確に従っていた。父が以前、目を通してくださっていた。
「確かに、受理いたしました」
王妃陛下のご発言は短かった。
「あなたが決めるべきことでした」
短いお言葉と一緒に、印章函が開けられた。
王妃印が、書面の右下に押された。蝋を使わない、墨と朱の押し印。乾くまでに少し時間がかかった。
「ヴァイデン」
「はい、王妃陛下」
「直ちに宰相へ届けなさい」
「かしこまりました」
ヴァイデン様は深く礼をされ、書面と、その複写の一通を手にして、私室を出ていかれた。
革鞄に書類を入れる動作は、いつもより速かった。けれど、雑ではなかった。
その背中を、私は見送らなかった。見送らずに、王妃陛下の方を向いていた。
「アルディス嬢」
王妃陛下が、私の名前を、もう一度静かに呼んでくださった。
「同日中に、国王陛下と宰相からの追認の書状が下ります。それで正式に成立します。あなたは、もう何もしなくてよろしい」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
顔を上げた時、王妃陛下が一度だけ私の指を見られた。
「左の手袋を、少しだけ直しなさい」
私は気づいた。二度直したはずの左の手袋が、ほどけかけていた。
私は静かに直した。直し終えた時、王妃陛下の目元が、ほんのわずかに柔らかくなった気がした。
ところが、王妃陛下が次のお言葉を口にされる前に、廊下の方から早足の足音が聞こえてきた。
扉の外で、案内官が誰かを止めようとしているのが分かった。けれど、止めきれなかった。
扉が、外から開けられた。
「母上」
殿下が、私室の入口に立っていらした。
息を切らせていらした。胸の上下が、いつもよりはっきりと見えた。
「母上、お待ちください。話せば」
「ライアス」
王妃陛下のお声は、いつも通りの平易な丁寧語だった。けれど、その丁寧語の中に、私には初めて聞く硬さがあった。
「礼を欠いた入室です。お戻りなさい」
「母上、私は」
殿下は、私の顔を見られた。
あの夜会の時の、椅子を引いてアレクシア様を迎えられた時の手の動きを、私は思い出した。あの動きと、今この場で私の方へ伸ばされかけた手の動きが、なぜか同じ角度に見えた。
手は、結局、伸ばされなかった。代わりに、殿下は、私の方へ一歩近づこうとされた。
「イルゼ」
「殿下」
私は、その一歩を歩ませない位置で、礼をした。
「殿下、もう、決めました」
声が震えなかった。それが、私にとっての、いちばんの驚きだった。
「私は、礼を尽くしてのお話を申し上げました。書面も、口上も、お渡し申し上げました。これ以上のお話は、王妃陛下と宰相閣下、国王陛下のご判断にお任せいたします」
「君は」
「殿下」
「君なら、分かって」
その続きを、私は最後まで聞かなかった。
扉の外を一度だけ見て、もう一度殿下に礼をして、私は卓の脇を通り過ぎた。王妃陛下に向かって、もう一度、深く礼をした。
王妃陛下は、目で一度だけ頷かれた。退出の許可だった。
廊下に出ると、灯りはいつもの位置にあった。
案内官が、いつもより半歩前を歩いていた。私の歩幅に合わせて、半歩。
私は、一度も振り返らなかった。
振り返らなかったことを、私は自分でほめなかった。ほめる必要が、もうなかった。
その夜、屋敷の玄関で、私の婚約期間中の贈り物が、一つずつ箱に納められた。
婚約指輪、首飾り、誕生日ごとの記念品、王太子家から届いた書簡の一束、未開封の招待状の控え。
家令が一つずつ確かめ、目録に記してから、麻布で包んでいった。
「お嬢様、ご確認のために、目録に署名を頂きたく」
「ええ」
家令の差し出した目録に、私は自分の名で署名した。
筆が、思ったよりは進んだ。
最後の品の欄を書き終えた時、ペン先のインクが、いつもより少しだけ濃く紙に乗った。
屋敷の正門の外で、典礼局の馬車が静かに止まっていた。到着の知らせも、出発の音もなかった。
ただ、馬車が動き出した時、御者が一度だけ手綱を緩く打った音だけが、夜の中に短く残った。




