第五話 紅茶の温度
ヴァイデン様が辞去された翌週、王宮典礼局から、二度目の招きがあった。
今度は照会状ではなく、私的に近い形での茶会のお誘いだった。場所は王宮庭園の小亭。ご一緒に午後のお時間を、と短く書かれていた。
父はその文面を一度読んでから、卓の上に静かに戻された。
「お受けしなさい」
「父上」
「お受けして、戻ってきなさい」
戻ってきなさい、という言葉を、私はもう一度受け取った。
一月のあいだに、父が同じ言葉を二度使われた。意味が、最初の時とは少し違って聞こえた。
王宮庭園の小亭は、典礼局棟の脇にあった。
王宮の本宮からは、回廊を二つ越え、薔薇園を抜けたところ。それなりの距離があるのに、王宮の喧騒は届かない。誰かが故意にその距離を測って建てたのだろうと、いつも思っていた。
小亭の入口で、若い給仕が一人、深く頭を下げた。
「ご足労いただきまして、ありがとうございます」
給仕は、扉のすぐ脇まで下がった。中の様子が見える位置でもあり、けれど会話が聞こえるほど近くはない位置でもあった。それも、誰かが故意に決めた距離なのだろうと感じた。
小亭の中央に、卓と椅子が二脚。
ヴァイデン様がすでにお立ちになっていた。私が入ると、卓の脇まで歩み出てこられて、椅子を引いてくださった。座る動作の合間に、私の歩幅とお歩幅が、自然に合った。
その合い方が、夜会で隣に座った人物のものとは、まるで違うのに気づいた。
茶器は、王宮で使われる普通のものより、少しだけ厚みのあるものだった。
ヴァイデン様が、茶葉の缶を二本、卓に置かれた。
「公爵令嬢様、本日はどちらをお選びになりますか」
一本は朝摘みの茶葉、もう一本は乾燥を長く取ったもの。私はわずかに迷い、乾燥の長いほうを指で示した。理由は、なんとなく今日の気分に合いそうだった、というだけだった。
「かしこまりました」
ヴァイデン様は、ご自分で湯を注がれた。
湯の落ちる音だけが、しばらく続いた。茶器の中で、葉が一度ゆっくり開き、二度目に小さく揺れた。
カップに紅茶が注がれたとき、湯気が、思ったよりすぐに散った。
いつもの夜会のカップなら、湯気が顔の高さまで立ち上る。今日のものは、卓の表面まで来ない。
いつもより、一度低い温度。いえ、二度かもしれなかった。
「お気を悪くなさいませんように」
ヴァイデン様が、ご自分のカップに湯を注がれてから、卓の向こうで一度礼をされた。
「典礼局では、王宮の夜会にお越しの方々のお茶の好みを、職務としてお預かりしております。御血筋、御身分、御体調、お好みの温度。お一人お一人の記録が、十年分残っております」
私は何と言えばいいか分からず、まず、卓の上の自分の指を見た。
手袋は、応接の入口で脱いだままだった。爪先が、思ったよりかさついていた。
「五年前の春に、お風邪のあと、公爵令嬢様は、それまでよりも一度ぬるめのお茶を残されるようになりました」
ヴァイデン様の声は、淡々としていた。
「私どもは、その記録を尊重しております」
私はカップに手を伸ばした。指先が紅茶の縁に触れた瞬間、初めて私は気づいた。
あの春、私はたしかに風邪で寝込み、それからしばらく、熱い茶を残してしまう癖がついた。けれど、それを誰にも告げた覚えはなかった。
誰かが、私が残したカップの位置を、ずっと記録に取ってくださっていた。
ぬるい紅茶を、一口だけ飲んだ。
飲める温度だった。ようやく、本当にようやく、飲める温度だった。
「先日のレザール伯爵夫人の小茶会の続報を、お伝えしてもよろしいでしょうか」
ヴァイデン様が、ご自分のカップを置かれてから、口を開かれた。私は頷いた。
「モーレント男爵令嬢が、当日の終わり頃に、王太子家からの贈答品の箱を、その場で開けられました」
「あの場でですか」
「夫人方の面前で、です」
贈答品は、本来、いただいた者が自宅で開ける。人前で開けるのは、贈り主の格と、自分の喜びを、その場の全員に見せる行為になる。
社交の場での失礼の中でも、特に若い令嬢が犯してはならない種類の振る舞いだった。
「中身は、首飾りでございました」
「お値段は」
「典礼局の記録には、ございません。王太子家側の予算から、別途出されておりました」
私は、紅茶のカップを、一度卓に置いた。置いたあと、もう一度、持ち上げた。
その動作の合間に、私の唇から、思いがけず短い言葉が漏れた。
「怒っているのではありません」
言ってから、自分の声に驚いた。
「怒っているのではありません。疲れた、のです」
ぬるい紅茶のせいだったのかもしれない。あるいは、給仕の立っていた位置が、ほどよく遠かったせいかもしれなかった。あるいは、ヴァイデン様が、私の指のかさついた爪先のあたりに、視線を一度も向けられなかったせいだった。
ヴァイデン様は、しばらく何もおっしゃらなかった。
代わりに、ご自分のカップの縁を、指の腹で一度なぞられた。それから、卓に戻された。
「公爵令嬢様」
「はい」
「あなたを正当にお扱いする場所は、すでに用意されております」
短い言葉だった。
「お望みになれば、王宮典礼局はいつでも、お受けいたします」
典礼局は、と、ヴァイデン様は、ご自分ではなく場所の名を使われた。ご自身のお名前ではなく。
その距離の取り方が、私にはかえって、長く残った。
小亭の外で、薔薇の枝が一度だけ揺れた。
風はなかった。それでも、枝の影が卓の縁を一度なぞった。
私はカップに手を伸ばした。ぬるい紅茶を、もう一口、飲んだ。




