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空いた隣席を、社交界の皆さまは静かに見ていらっしゃいました  作者: 九葉(くずは)


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第四話 贈答記録の問い合わせ

 封蝋の色は、王宮典礼局のものだった。


 深い赤茶。蝋の表面には、典礼局の押し型がはっきりと残っていた。


 私印ではなく、公式の押し型。それは個人的な手紙ではなく、家に宛てて出された文書という意味だった。


 家令の手から銀盆を受け取ったとき、私の指が一瞬だけ強く封筒の縁を握った。手の力を緩めるのに、思ったより時間がかかった。




 ヴァイデン様が薄い綴じを置いていかれてから、一週間が経っていた。


 あの綴じを、私は一度だけ開いた。最初の頁の上に並んだ年と季節の見出しを、五年分まで指で追ったところで、私は閉じた。


 続きを読むには、心の準備が足りなかった。残りの五年分が、私の知らない私を知っているように思えたからだった。




 照会状の文面は、簡潔だった。


 王宮典礼局として、最近三年の贈答記録について、アルディス公爵家にお伺いしたい事項がある。ついては本日午後、宰相補佐レオン・フォン・ヴァイデンを派遣する。家のご当主の同席を望む。


 家のご当主の同席を、と書かれていることに、私は意味を感じた。私個人への問い合わせではなく、公爵家への正式な照会だった。


 父はその一文を読み終えると、新聞を畳む手を一度だけ止められた。


「お父様」


「ああ」


「私は同席してよろしいのでしょうか」


「お前が中心の問い合わせだ。お前が同席しないでどうする」


 短いお答えだった。けれど、その言葉で、私は卓の前に座る覚悟ができた。




 午後の応接間は、いつもより日当たりが強かった。


 窓辺のカーテンを家令が一度だけ引き直した。日差しが書類の上で反射しないようにとの配慮だった。私はその配慮の細やかさに、ふと、家令もこの一週間で何かを察したのだと気づいた。


 ヴァイデン様は、定刻ちょうどに到着された。


 手にしておられたのは、革鞄ではなく、麻布で覆われた厚みのある書類函だった。函の取手の革は、長年握られた跡で擦り切れていた。


 応接の卓に、書類函が静かに置かれた。ヴァイデン様は、卓の脇で一度礼をしてから着席された。父が向かい、私はその斜め後ろに座った。


「お時間を頂戴し、ありがとうございます」


 ヴァイデン様は函の麻布を外された。


 中から、薄い綴じが三冊出てきた。年ごとに、表紙の色が違った。


 いや、もとは同じ色だったのだろう。三年前のものが一番擦り切れていて、二年前のもの、一年前のものと、擦り切れの度合いが少しずつ違った。手垢のつき方、角の折れ方、背の歪み方。それぞれが別の年月を生きてきたのが分かった。




「王宮典礼局では、王太子家からの贈答品について、すべての宛先と費目を記録に残しております」


 ヴァイデン様は、三冊を順に開かれた。


「三年前のものから、近年に向かって、宛先の傾向が変わっております」


 頁の上を、ヴァイデン様の指が静かに動いた。


 三年前。誕生日の贈答は、まずアルディス公爵令嬢宛、続いて両陛下、それから王太子の親族の順に並んでいた。価格帯も、私への品が最高位。


 二年前。同じ並びだったが、モーレント男爵令嬢宛の品が新たに加わっていた。価格帯は中程度。


 昨年。並びは保たれていたが、モーレント男爵令嬢宛の品の価格帯が上がっていた。私宛のものと、ほぼ同じ価格帯になっていた。


 ヴァイデン様の指が、最後の頁で止まった。


「直近の半年では、モーレント男爵令嬢宛の品の数と価格が、アルディス公爵令嬢宛のものを上回っております」


 頁を見つめている時間が、思ったより長くなった。


 父が、椅子の上で一度だけ深く息をされた。




「アルディス公爵令嬢」


 ヴァイデン様が、ご自分の指を頁から離された。


「失礼を承知でお伺いいたします」


 覚悟のいる前置きだった。


「これらの贈答品は、あなたが手配なさったものではないのですね」


 失礼を承知で、と、ヴァイデン様はおっしゃった。


 失礼とおっしゃるのは、もしも私が手配していた場合、私の名誉を疑うことになるからだった。けれど、もしも手配していなかったとしたなら、ここまでの記録は別の問題を抱えることになる。


 どちらに答えても、何かが動く問いだった。


 私は、卓の上の三冊を、もう一度ゆっくり目で追った。


 頁のどこにも、私の手配書の番号は載っていなかった。私が婚約者として手配してきた贈答品には、私の家紋入りの番号がついている。三冊の中に、その番号は一つもなかった。


「いいえ」


 短く答えた。


「これらは、私が手配したものではございません」


 ヴァイデン様の視線が、初めて卓から離れた。父の方を向かれた。


 父は、ご自分の卓上の指を一度組み直してから、静かに頷かれた。


「娘の手配ではない、と、私からもお答えする」


 ヴァイデン様は、もう一度頭を下げられた。


「ありがとうございます」


 それから、書類函のもう一段下から、別の薄い紙束を取り出された。


「私は、新人時代から、この記録を確認してまいりました」


 頁を整える手つきが、慣れていた。


「これだけの不整合が連続するのは、近三年が初めてでございます」


「そう、ですか」


「典礼局として、正式に調査いたします。アルディス公爵令嬢、アルディス公爵閣下のお名前で書面を発することはございません。あくまで王太子家側の予算と宛先の照合として進めます」


 あくまで王太子家側の予算と宛先の照合として、という言葉が、私には大事に聞こえた。


 私や父の家の名で告発するのではないという意味だった。誰の責任で進めるかを、ヴァイデン様はその場で線引きしてくださった。




 書類函の蓋を閉じる前に、ヴァイデン様は一度、私の方をご覧になった。


「公爵令嬢様は、何もなさらないでよろしゅうございます。今までと同じく、お過ごしくださいませ」


 今までと同じく、と言われて、私は何と答えるべきか少し迷った。


 今までと同じ、という生活が、もう私のものではなくなりつつあった。


「分かりました」とだけ、私は答えた。


 ヴァイデン様は函を抱え、礼をして辞去された。




 玄関で家令が扉を閉じる前に、父が馬車寄せのほうへ目をやられた。


 扉が閉まった後、父はしばらく動かれなかった。


 長い沈黙のあとで、父はゆっくりとおっしゃった。


「お前一人を見ていた方では、なかったようだね」


 私は、お父様、と返すことができなかった。


「あの方の御覧になっていたものは、お前の十年だけではなかった。王太子家の十年でもあったということだ」


 父はそれだけ言って、応接の卓の上に残された麻布を、一度だけご自分の手で畳まれた。


 畳み終えた麻布の角が、わずかに歪んでいた。父は気づかれた様子で、それでも直されなかった。


 その歪んだ角を、私はしばらく見ていた。夜の灯りが入り、麻布の上に長い影を作った。


 影が動かない時間が、思ったより長く続いた。

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