第三話 茶会の余波
ベルナルディ侯爵夫人からの茶会招待状は、見覚えのあるご丁寧な手蹟だった。
その隣にあったアスター侯爵夫人とグリーン伯爵夫人の招待状も、同じ朝に届いていた。
三通が銀盆の上で並んでいる様子は、家令が綺麗に並べたというより、自然とその順に並んだようにも見えた。家令が、私の顔色を見ていた。
「同じ日でございました」
家令は短くそう告げた。
三家からの茶会招待が同じ朝に届くのは、十年の婚約のうちで初めてだった。
五日前の王妃陛下の私室での一刻を、私はまだ整理しきれていなかった。
「もう、よろしいですね」
あのご発言が、誰に向けられたものなのか、五日経ってもまだ分からないままだった。
ヴァイデン様の革鞄の音、ぬるい紅茶の温度、卓上に置かれた記録簿の重み。それらが頭の中で散らばったまま、しかしどれも消えずに残っていた。
私はベルナルディ邸の招待をその日の午後にお受けする旨、返書を整えた。アスター侯爵夫人とグリーン伯爵夫人の招待は、それぞれ翌週と翌々週に。三家の順序を間違えるわけにはいかなかった。
返書を書きながら、ふと思った。
この順を見ているのも、もしかしたら、もう一人いるのかもしれない。
ベルナルディ邸の私的なサロンは、王宮の広間とは違って、奥行きが浅い分だけ顔の表情がよく見えた。
三名の夫人が、すでに座っていらした。ベルナルディ侯爵夫人が中央。
私の前に立ち上がられ、私の両手を一度だけ軽く握ってくださった。
「ようこそ、アルディス嬢」
握り返したくなる温度だった。けれど、こちらから握り返しすぎてもいけないと、私は手を引いた。
アスター侯爵夫人が、最初の話題を口にされた。それは婚約者の話でも、夜会の話でもなかった。
「うちの庭の薔薇が、今年は虫が早くてね」
「うちもです」と私は答えた。「庭師が、今朝、根元を見ておりました」
「やっぱりね」
夫人方は頷き、しばらく薔薇の話をされた。私が黙ってもいい時間を、わざと作ってくださっているのが、途中で分かった。
誰一人、殿下のお名前を出されなかった。アレクシア様のお名前も。
茶器が二度替えられた頃、グリーン伯爵夫人が、ふと、口の端で笑われた。
「そういえば、聞きましたか」
「何を」
ベルナルディ侯爵夫人がカップを置かれた。アスター侯爵夫人が扇を一度、軽く動かされた。
「先日のレザール伯爵夫人主催の小茶会のことです。私は参っておりませんでしたが、いとこから手紙が」
「ええ」
「あちらでね、モーレント男爵令嬢が、王太子殿下のことを、最後まで愛称でお呼びになったそうです」
卓の上の銀のスプーンが、ほんのわずかに動いた気がした。私が動かしたわけではなかった。
「公の場で」とグリーン伯爵夫人がもう一度繰り返された。「最後まで」
「あらまあ」
アスター侯爵夫人は、声に出して驚かれた。けれどその驚きの中には、初めて知ったというよりは、確認の響きが混じっていた。
「同席の方々はどうなさったの」
「最初は皆さま聞き流していらしたそうです。三度目あたりから、何人かの夫人が扇をお閉じになって」
「閉じられたのね」
扇を閉じる。それが何を意味するか、その場にいた誰もが知っていた。
ベルナルディ侯爵夫人だけが、その間ずっと、無言で紅茶のカップを温められていた。
しばらくして、夫人は静かに言われた。
「あの方は、わきまえていらっしゃらないのね」
声を荒らげない言葉だった。けれど、その後しばらく、誰も次の話題を始められなかった。
夫人方は誰一人、私に「お辛かったでしょう」とおっしゃらなかった。
代わりに、ベルナルディ侯爵夫人が、お別れ際に一言だけ告げてくださった。
「アルディス嬢、お疲れでしょう。今夜はゆっくりお休みなさいませ」
お疲れでしょう、という言葉が、これほど深く届いたことはなかった。
馬車に戻る時、グリーン伯爵夫人が小窓越しに、もう一度、扇を軽く動かされた。私が振り返ると、その扇は閉じられていた。
屋敷に戻った頃、午後の陽が斜めに差し込んでいた。
居間で父が新聞を畳んでいた。新聞の同じ折り目を、二度直された。私が戻ってきたのを確認なさったのだろうけれど、特に何もおっしゃらなかった。
その代わりに、家令が一度部屋に入ってきた。
「お嬢様、王宮典礼局より、ヴァイデン様がお越しでございます」
典礼局の業務。
私は手袋を脱ぐ間も惜しんで、応接間へ向かった。
ヴァイデン様は応接の入口で礼をされ、革鞄から、薄く綴じられた書類の束を取り出された。
「公爵閣下にもお伝えしたく、お時間を頂戴いたしました」
父が後から応接へ入っていらした。
ヴァイデン様は、立ったままで一礼された。
「王宮典礼局の記録簿のうち、アルディス公爵家にお関わりの部分を、写しとして整えてまいりました。もしご必要があれば、お目通しください」
卓に置かれた綴じは、思ったよりは薄かった。けれど、十年分が薄く綴られたものであることは、表紙の色合いで分かった。
「押し付けるものではございません。ただ、お手元にあったほうがよろしいかと存じました」
父が一度頷かれた。それだけだった。
ヴァイデン様は深い礼をされ、長居をなさらずに辞去された。革鞄の縁が、応接の卓のへりに一度だけ触れて、すぐに離れた。
玄関で、家令が扉を閉じた。閉じる前に、馬車寄せのヴァイデン様の背中を、父が見ていらっしゃるのが分かった。
扉が閉じた後も、父はしばらく動かれなかった。
ようやくこちらを向かれて、父は短くおっしゃった。
「あの方は、お前を見ているね」
お前を見ている、ではなく、お前を、見ているね、と、間を置いた言葉だった。
「父上」
「いや、いい」
父は、私の返事を待たずに居間へ戻ろうとなさった。けれど、廊下の真ん中で一度だけ止まられた。
「お前が望むなら、私はもう何も言わない。望まないなら、私が断る」
それだけ言って、父は居間へ消えられた。
卓の上の薄い綴じを、私はその夜、開かなかった。ただ、表紙の色だけ、何度か見た。
誰かが見ていた。
それは私が思っていたよりも、ずっと長い間のことだった。




