第二話 王妃陛下のお招き
朝の光は、夜会の翌日だけ妙に静かに見える。
寝室の窓を開けたら、庭師が薔薇の根元を見ていた。今年は虫が早いね、と呟いたのが聞こえた。
私は窓を一度閉じ、もう一度開けた。庭師は同じ姿勢で立っていた。聞かなかったことにしてくれているのだと思った。
朝食の卓に着く前に、家令が銀盆を運んできた。
「お嬢様、王宮より文書が届いております」
封蝋は深い藍色だった。王妃陛下の私印。
「お読みいたしますか」
「いえ、私が」
封を切る指が、少しだけ慎重になった。
文面は短かった。本日の午前、王妃の私室にて茶会を催すゆえお越し願いたい、と、たったそれだけ。返事の余地はなかった。
父は卓の向かいで新聞を畳んでいた。手元の角を二度きちんと揃えてから、初めて顔を上げた。
「お行きなさい」
「はい、父上」
「行って、戻ってきなさい」
戻ってきなさい、という言葉が、なぜか胸に残った。
父は私が戻れるかどうかを心配しているのではなかった。戻った時に、私が以前と同じ位置に立っているかどうかを言っていた。
私は一礼して立ち上がった。
昨夜の馬車寄せから、まだ十時間も経っていなかった。
王宮の正門で馬車を降りたとき、案内官が二人、私を待っていた。
いつもなら王太子家側の入口へ通される。今朝の案内官は王妃陛下の私印を確認すると、本宮の方向へ歩き始めた。私は黙ってその後ろを行った。
回廊は普段より人気が少なかった。すれ違った若い侍女が一人、私を見て、それから慌てて深く頭を下げた。彼女の顔に、昨夜の広間にいた誰かと同じ動きを見つけた気がした。
誰が、何を、どこまで知っているのか。
私には測れなかった。
王妃陛下の私室の扉の前で、案内官が一歩下がった。
「アルディス公爵令嬢様がお越しになりました」
扉が内側から開けられた。
私室は、想像よりも控えめだった。窓は一面だけ開いていて、外の薔薇の香りが薄く入っていた。中央の卓に、白い茶器が三客。
三客。
その意味に気づくのと、もう一人の人影に気づくのは同時だった。
窓辺に、宰相補佐レオン・フォン・ヴァイデン様が立っていらした。昨夜、回廊で名乗ったあの方だった。今朝は革鞄ではなく、厚みのある記録簿を腕に抱えていた。
「お越しくださいまして、ありがとうございます」
王妃陛下が、卓の中央でゆっくり頷いた。手元の杖を脇に置く動きが、年齢よりわずかにゆっくりだった。
「お座りなさい、アルディス嬢」
私は礼をして、指示された席に着いた。
紅茶が注がれた。
給仕の侍女ではなく、ヴァイデン様ご自身が、私のためのカップに茶を注がれた。湯気は薄く、立ち上がる前にもう散っていた。
私の指がカップに触れたとき、いつもの夜会の温度より、明らかに一度低かった。
昨夜のアレクシア様の声を、私は一瞬だけ思い出した。けれど王妃陛下の前で、その記憶を顔に出すわけにはいかなかった。
「典礼局では、夜会のお茶の温度を、お席ごとにお預かりしております」
ヴァイデン様の声は低く、説明というよりは前置きに近かった。
「公爵令嬢様のお好みは、十年前の春の記録に残っております」
十年前。婚約が成立した年だった。
王妃陛下が、卓の上に手を置かれた。指先がカップから少し離れた位置にあった。
「アルディス嬢」
「はい」
「私は、あなたを十年見てきました」
短い言葉だった。
けれど王妃陛下のそのご発言が、雅語で飾られなかったことに、私は意味を感じた。本気で告げる時、この方は飾らないのだと、その時はじめて知った。
「あなたが、王宮の夜会を整えてきたこと。アレクシアに席を譲られてきたこと。誕生日の祝いの場で名前を呼ばれなかった夜のこと。私はすべて、報告で読みました」
報告。
その言葉に、私はヴァイデン様の腕の記録簿へ目を向けた。彼が静かに、表紙を一度撫でた。
「五年前の春の夜会で、あなたが、ベルナルディ侯爵夫人とアスター侯爵夫人のお席を、半席ずらしてくださったことを覚えております。あれが、お二人のその後の和解の起点になりました」
「私は……」
「公爵令嬢様はお気づきでなかったかもしれません。私どもは新人時代から、その記録を見続けてまいりました」
声が震えそうになって、私は紅茶のカップを両手で持った。
ぬるい、と思った。ぬるくて、ようやく飲めた。
王妃陛下が、もう一度口を開かれた。
「アルディス嬢、私は二度、息子に話したことがあります」
ええ、と相槌を打つこともできずに、私は陛下の手元を見ていた。
「乳母の生前。彼女が病で臥せる前です。あの子に、距離を置くようにと諭しました。優しさが家族の優しさだけで終わらないようにと」
乳母様。アレクシア様の母上である方。
「二度目は、二年前の冬でした。あの子を呼んで、優先順位のことを話しました。あの子は頷きました。けれど、頷いただけでした」
王妃陛下は、そこで一度だけ視線を伏せられた。
「三度目を、私はためらいました。あなたを犠牲にし続けるとは、思いたくなかったのです。母親としての、私の甘えでした」
卓の上に、王妃陛下の手が静かに置かれた。その手が、ゆっくりと、わずかに下げられた。
頭を下げられた、と分かるまでに、少しだけ時間がかかった。
「アルディス嬢。私の判断が遅すぎたこと、許してください」
私はカップを置けなくなった。持ったままでいることが、礼を欠くのか、欠かないのか、分からなかった。
ヴァイデン様が、ご自分のカップを音もなく卓に戻された。その動きが、私にも卓に戻していい合図になった。
窓の外で、薔薇の枝が一度だけ揺れた。風はなかった。庭師が触れたのかもしれなかった。
王妃陛下が、ゆっくり顔を上げられた。頭を下げられた跡を、誰にも見せないお顔だった。
「もう、よろしいですね」
低い、けれどはっきりとしたお声だった。
私はそのご発言を、自分に向けられたものとして受け取っていいのか、しばらく決められなかった。
あるいは、ご自身に向けられたものだったのかもしれない。あるいは、まだ広間に残っているはずの息子の方へ、届かない言葉として置かれたのかもしれない。
「もう、よろしいですね」
もう一度、王妃陛下はそうおっしゃった。
私は答えなかった。代わりに、紅茶をもう一口だけ飲んだ。
ぬるい、と、もう一度思った。




