第一話 その隣席、もうお譲りいたします
今朝、初めて殿下から「君のための席だ」と告げられたとき、私は本当に驚いてしまった。
婚約十年。手紙の隅にも、誕生日の贈り物の添え書きにも、そんな言葉はなかった。
それを伝令の口からではなく、殿下ご自身が私の家まで馬車を寄こし、応接間まで足を運んでお伝えくださった。
「夜会の席を、今夜は君のために用意した」と。
応接の窓辺で、薔薇の鉢に水が一滴落ちた。私は礼をしながら、その一滴がやけに長く感じた。
夜会の入場時刻は、私の三本目の手袋が湿りかけた頃だった。
王宮広間は今夜も整っていた。三年前に私が手配した中央卓の配置が、ほとんどそのまま使われている。蝋燭の数も、花の高さも、銀の燭台の向きも。
誰かが少しずつ位置を直したのだろうけれど、骨格は私の置いた通りだった。
席次表を確認するために、典礼係に近づく。
「アルディス公爵令嬢、こちらでお待ちくださいませ」
席次表には、私の名はなかった。その隣に、「ご婚約者様」とだけ書かれていた。
名前ではなく、立場で呼ばれることに、私はもう慣れていた。慣れているという自覚が、今朝の応接の薔薇を思い出させた。
乾杯の刻限が近づいても、アレクシア様は来なかった。
殿下は時折、入口の方を見ていた。広間の奥で、王妃陛下が扇を持つ手の角度を、一度だけお変えになった。私はそれを視界の端に入れた。陛下とはまだ視線を交わしていなかった。
ようやくアレクシア様が広間に入っていらしたのは、定刻から半刻ほどあとだった。
「遅れてしまって、本当にごめんなさい」
その声は、広間の奥まで届くほどには小さく、けれど近くの卓には充分に届いた。
殿下は立ち上がって、両手で彼女を迎えた。私のために用意されたはずの椅子の前で。
彼女は当然のようにその椅子の背に触れた。
「ライアス様、こちらでよろしいの」
ライアス様。
公の場で、私たちの婚約者が、その名で呼ばれた。
近くの侯爵夫人の扇が、いつもより一拍遅れて開いた。
「アレクシアの体調がね、君は分かってくれるだろう」
殿下は私の方を見ずに、椅子を引いた。
私は礼をして、二つ離れた席へ移った。
席を移る間に、案内係の若い男が私を見た。彼の口がほんの少し開きかけて、結局何も言わずに閉じた。
ベルナルディ侯爵夫人が、その案内係に向かって首を横に振った。間違いを正そうとした青年を、夫人が止めたのだった。
移った席にはまだ紅茶が用意されていなかった。
席に座って気づいた。私のために整えられた紅茶のカップは、もとの席に残ったままだった。アレクシア様の前に。
彼女はその縁を一度なぞり、口に運んだ。それから少しだけ眉を寄せた。
「殿下、これ、ぬるくなっていますわ」
今夜の紅茶の温度は、私の好みで指示した温度だった。
「乾杯の発声を、ベルナルディ侯爵夫人にお願いいたします」
典礼係の声が広間に通った時、私は手元の盃に視線を落としていた。
婚約者の席に名前のない者が座っている夜の乾杯を、誰が発声するべきか。
慣例通りなら、その夜の主賓席の隣に座る婚約者が務める。けれど典礼係はその慣例を選ばなかった。年長で人望の厚い侯爵夫人が指名された。
ベルナルディ侯爵夫人は静かに立ち上がり、盃を上げる前に、ほんの少しだけ私の方を見た。
「本来、私はこのお役、お受けする立場にございませんが――」
夫人はそれだけ言うと、当たり障りのない祝辞を述べ、盃を上げた。広間が拍手で続いた。
私の盃の中の葡萄酒は、いつまでも揺れなかった。
席を立ったのは、それから二曲ほどあとだった。
歓談の合間に、殿下がもう一度こちらを向いて、いつもの口調でおっしゃった。
「悪いね、本当に。君なら分かってくれると思っていたんだ」
私は扇を畳んだ。
骨が一本、わずかに歪んだ気がした。何度も折れかけた骨だった。
立ち上がる。椅子の足が床を擦る音が、思ったより大きく響いた。
広間の隅にいた文官の一人が、紙束を抱えたまま、こちらへ目を向けた。
「殿下」
私は礼をした。
「殿下の隣席は、もうアレクシア様にお譲りいたします」
声を張る必要はなかった。広間の二割ほどの卓に、その言葉は届いた。それで充分だった。
殿下が何か言いかけた口を、私は待たなかった。もう一度礼をし、来た時と同じ歩幅で広間を出た。
扉が閉まる音を聞いたあと、ベルナルディ侯爵夫人がアレクシア様を見つめた、と、後日になってアスター侯爵夫人から伺った。
回廊に出ると、灯りが少し暗かった。
壁際に、先ほど紙束を抱えていた文官が立っていた。革鞄を肩から下ろし、両手で軽く揃え直していた。
「お送りいたします」
短く、それだけだった。
私は名前すら確かめなかった。歩幅を合わせてくれることだけが分かった。
馬車寄せまで、十数歩。その間、彼は一度も私の腕に触れず、けれど私が段差を踏み外さない位置に身を置いていた。
「ヴァイデン伯爵家のレオンと申します」
馬車の扉に手をかけたとき、初めて名乗られた。
「もし、王宮典礼局へのお問い合わせなどございましたら、いつでも」
それきり、彼は一歩下がった。
馬車が動き出すまでに、私はうなずいたのだったろうか。覚えていない。
窓の外を、王宮の塀が後ろへ流れていった。
馬車の中で、私はもう一度扇を開こうとした。骨の一本が、今度こそはっきりと歪んでいた。
元には戻らないだろう。戻す気もしなかった。
屋敷に着いた時、玄関の灯りは三つだけ点いていた。
家令はいつも通り深く頭を下げ、私が脱いだ手袋を受け取った。
「お嬢様」とだけ呼ばれた。それでよかった。
居間に入ると、卓の上に新しい扇が置いてあった。私の家紋を入れた、白い骨の扇だった。
父は窓辺で煙草入れを開きかけて、結局蓋をしまった。
「お前の馬車の音が、今夜は早かったね」
「申し訳ございません、父上」
「いや」
父は新しい扇を一度だけ手に取り、私の前に置き直した。
「お前が選んだのなら、私は守るだけだ」
古い扇を、私は卓の端に並べて置いた。骨の歪んだ一本が、灯りに少しだけ光った。
明日からは、この扇は使わない。それだけは、馬車の中で決めていた。




