第十話 見ていた人たちは知っていた
庭園の薔薇が、今年は少しだけ早く咲いた。
昨年、王妃陛下の私室の窓から香りだけが入ってきた、あの薔薇の系統だった。庭師が今年は虫を早くに払ってくれていた。
何の話の流れだったか、十年前に父が、たまたまその苗を取り寄せたのだそうだった。
十年。
私にとっての一区切りと、薔薇にとっての一区切りが、たまたま同じ年に重なったのかもしれなかった。
ヴァイデン様の馬車が屋敷の正門に止まったのは、午後の日差しが薔薇の上に長くなった頃だった。
革鞄も、書類函もなかった。お手のひらに、小さな箱だけがあった。
応接ではなく、庭園の卓へお通しした。父がお先に出ていらして、ヴァイデン様にお声をかけられた。それから、父はそっと屋敷の方へお戻りになった。
残された卓に、ヴァイデン様と私だけが向かい合った。給仕はいなかった。
ヴァイデン様は、卓の上に小さな箱を置かれた。
「アルディス公爵令嬢様」
お名前を呼ばれた。半年前に、夜会の入場で呼ばれた時と、同じ抑揚だった。
「あなたを、私の妻として、ヴァイデン伯爵家へ迎えさせていただきたく存じます」
お飾りはなかった。
夜会の時と同じ、欄があり、私の名を入れたい、ということだけだった。今回の欄は、夜会の席次表よりは少しだけ大きかった。家の戸籍だった。
箱の蓋を、ヴァイデン様がご自分の指で開けられた。
中の指輪は、薔薇の盛りより、わずかに淡い色の石だった。婚約指輪に石を選ばれるのに、王宮典礼局のお仕事の合間に、どこかへ何度か足をお運びになったのだろう。
お選びの跡が、石の角の柔らかさに残っていた。
「お受けいたします」
半年前の夜会の同じ言葉を、私はもう一度、卓の上で繰り返した。
「ご一緒に、お受けいたします」
ヴァイデン様は、指輪を箱から取り出された。
私の左手の薬指に通された時、ぴったりだった。寸法を、いつかの応接でこっそり測られたのかもしれなかった。あるいは、典礼局の十年分の記録の中に、私の指輪の寸法も載っていたのかもしれなかった。
理由はどちらでもよかった。
石は重くなかった。軽すぎもしなかった。
ちょうど、卓の上に手を置く時の重みが、自然なものに変わるくらいの重さだった。
その日のうちに、王妃陛下からのお祝いの書状が、屋敷に届けられた。
短い文面だった。お幸せに、と、それだけ。けれど、王妃陛下のあの平易な丁寧語を、私はその短い一文の中にちゃんと聞き取った。
半年。
私が屋敷で静かに過ごしていた半年のあいだに、王宮の周りでは、ゆっくりとした流れの変化があったのだそうだった。
家令が、必要な時にだけ、必要な分を伝えてくれた。
王太子家の取引先のうち、ほぼ三分の一の家が、定例の贈答や茶会の付き合いの間隔を、少しずつ広げ始めた。一夜で動いたのではない。三月かけて、ようやく社交界の家令たちの目に「これは流れだ」と映る程度に動いた。
モーレント男爵家は、王宮への自由出入り資格を、王宮典礼局の判断で保留されたままだった。期限はなかった。
期限がないということは、外す側の判断で外されるまで、外れないということを意味した。
モーレント男爵令嬢は、領地で静養なさっていた。
貴婦人会の伝聞によれば、令嬢は領地のお屋敷で、ご自分の手で薔薇の世話をなさっているそうだった。庭師の手を借りずに、ご自分で土を触っていらっしゃるとのことだった。
ある日、領地のお屋敷を訪ねた古いお友達に、令嬢はぽつりとおっしゃったらしい。
「私は、やはり、わきまえていなかったのですね」
その一言だけが、貴婦人会の中で、静かに繰り返されていた。お叱りの声はもう、誰の口にも上らなかった。
王太子殿下のお話も、家令経由で耳に入った。
お妃選びは、数年先送り、と、王家から正式な発表があった。廃嫡ではない。けれど、これまで通りの段取りでもなかった。
殿下ご自身が、その決定をお受けになったらしい。
春の盛りの頃、王妃陛下のお手を経由して、私の屋敷に一通の書簡が届いた。
封蝋は、王妃印だった。中の便箋は、王妃陛下のお手のものではなかった。文面は、王太子殿下のお手だった。
短い文面だった。
君が何を支えてくれていたのか、ようやく分かった、と。許してくれとは言わない、と。ただ、ようやく分かった、と。それだけだった。
私は、便箋を一度だけ畳み直して、机の引き出しに収めた。
火にはくべなかった。額にも入れなかった。ただ、引き出しの中に静かに置いた。
正しい礼の形だったかは、自分でもわからなかった。
春の終わりに、王宮典礼局から正式な参列のお招きがあった。
ヴァイデン様の同伴者として、お見えくださいませ、と書かれていた。場所は典礼局の本席だった。
私は、新しい白い手袋を嵌めた。古い扇は、もう持って行かなかった。
典礼局の机上に、新しい年度の席次表が広げられていた。筆者は、ヴァイデン様ではなかった。
今回は局の年若い書記官の方が筆をお取りになっていた。新しい局員にお仕事を渡されたのだろう。新しい字も、整っていた。
「公爵令嬢様、こちらでございます」
書記官の指が示したのは、ヴァイデン伯爵家の欄の隣だった。
「ご署名をお願い申し上げます」
ペンを差し出された。羽根ペンではなく、新しい型の硬いペンだった。インクはいつもよりわずかに濃かった。
ペンを取ろうとした時、書記官がそっと吸い取り紙を卓の脇に置いた。私の癖を、彼もまた誰かから引き継いでいるのだと、なぜかその瞬間だけ気になった。
私は、欄の前で、ほんの一拍だけ間を置いた。
その一拍のうちに、私は、今までの十年の朝の卓を、もう一度、心の中で並べた。並べたあと、片付けた。片付けた後の卓の上に、紙が一枚だけ残った。
ペンを取った。
欄に、自分の名を書いた。
イルゼ・フォン・アルディス。
誰にも譲られない欄だった。
ペン先のインクが、いつもより少しだけ濃く、紙に染みた。
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