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第8話
「ねえ詩織、まずは『おはよう』だけでも言ってみたら?」。七海が言い出したのは、よく晴れた朝のことだった。「たった一言じゃん。それくらいなら、いけるって」。
たった一言。そうだ、たった一言なのだ。それなのに、その一言が、私にとっては世界でいちばん難しい言葉だった。
その日の朝、教室に入ってきた桜井くんが、たまたま私の席の近くを通った。今だ、と思う。喉まで言葉が出かかる。おはよう、たった四文字。心臓がどくどくと鳴って、息が浅くなる。
けれど、彼がこちらに顔を向けた瞬間、私はとっさにうつむいてしまった。声は、最後まで音にならなかった。桜井くんはそのまま自分の席へ歩いていく。その背中を見送りながら、私は机の下で、ぎゅっと両手を握りしめた。
「……ま、最初はそんなもんだよ」。七海がそっと肩を叩いてくれる。慰めだとわかっていても、情けなくて、うまく笑えなかった。たった一言が言えない自分が、いやになる。それでも、言いたいと思う気持ちだけは、確かにここにあった。




