食あたり
まだ梅雨空の続く7月上旬。
深夜。恭は隣室の姉が、何度も部屋を出入りしている物音に気付いた。
気になって様子を見に行くと、どうやらあやめはトイレに入ったようだ。
(腹でもくだしたのか?)
気にされたくないだろうと、一旦は部屋に戻りかけたが、その背に嘔吐するような音が聞こえて来た。
「今、吐いてたのか?」
恭の質問に、トイレから出て来たあやめは見るからに弱った様子で答える。
「ああ、なんか食あたりっぽい」
「食あたりって、大丈夫なのか?」
心配する恭に、あやめは胃の辺りを手で押さえながらも平静を装って返す。
「前にもなったことあるし平気。心配しなくても安静にしてりゃ治るよ」
本人の言うとおり、食あたりは初めてではないし、ネットで調べた症状から見ても間違いなさそうだった。
ただ命にかかわるような重病ではないものの、
「安静にしてりゃ治るって……そんなに具合が悪そうなのに、素人判断で本当にいいのかよ。夜中だろうが母さんに言って、病院に行ったほうがいいんじゃないの?」
と恭が言うように、母が知れば看護師だからこそ、あれこれ対処しようと夜中に煩わせてしまう。
姉は母に迷惑をかけたくなくて、弟にキツク注意する。
「やめろ。母さん、仕事が忙しくて疲れているんだから、こんなことで起こすな」
「じゃあ、せめて薬飲めよ」
「今、家に食あたりの薬は無い。明日母さんに買って来てもらうから、お前ももう寝ろ。今日はどうしようもないから」
あやめは最後にもう一度「本当に大丈夫だから、絶対に母さんを起こすなよ」と念を押して自室に戻った。
それからあやめは暗い部屋の中、ベッドで寝たり起きたりを繰り返した。
できれば朝まで眠ってしまいたいが、刺すような腹痛と吐き気がそれを許さない。横になっているよりは、身を起こしているほうがなぜか楽だった。
どうせ起きているなら気晴らしでもできたらいいが、腹痛と発熱による倦怠感で何かする気も起きない。
(やっぱり薬も無いのは辛いな……)
昔、食あたりになった時は薬を飲んだら、かなり症状が楽になったのを覚えている。
ただ今は真夜中で、しかも雨が降っている。こんな悪条件の中、仕事で疲れている母に薬を買いに行かせるのは、やはり嫌だった。
(どんだけ痛くても死ぬわけじゃないし、眠れなくてもちゃんと朝は来る)
梅雨特有の冷え冷えした空気。外の雨音を聞きながら、まだ遠い夜明けを1人で待っていると、ドアの向こうから遠慮がちに声をかけられる。
「……ちょっといい?」
「……姉ちゃん、しんどいから構うな~」
人がいると、平気なふりをしないといけないから余計に辛い。姉は心配をかけまいと、冗談っぽい口調で弟を追い払おうとした。
けれど恭は静かにドアを開けると、勝手にあやめに近づいて、ペットボトルの水と紙袋を差し出す。
「薬を買って来たから、好きなの飲め」
「薬を買って来たって……こんな時間にどこで?」
今は夜中の2時。開いている薬局などないだろうにと、あやめは不思議がった。
「ドラッグストア。調べたら24時間やっているところがあったから」
電車もバスもない時間帯。恭は雨の中、往復で1時間も自転車を漕いで、ドラッグストアまで薬を買いに行った。
恭は自分の苦労を語らなかったが、雨音の激しさを聞けば悪天候は明らかだ。
「雨降ってんのにマジか……」
「いいから、さっさと飲め」
紙袋の中には食あたりの薬が複数入っていた。スマホで調べたお勧めの市販薬だが、どれがいいか分からないので、いくつか買って来た。
その中には、あやめが昔飲んだものもあった。
もともと姉も薬を欲していたので、弟からもらった水で大人しく飲んだ。
「具合が悪いなら横になったら?」
「なんか横になったほうがお腹痛いし、いきなり吐き気が来るから」
恭の勧めに何気なく答えると、
「そんな辛いの……」
と弟は珍しく泣きそうな声を出した。
ほとんど風邪を引かない恭と違い、体の弱いあやめはよくダウンした。そのたびにこの弟は、自分のほうが死にそうなほど心配する。それは見違えるほど大きく素っ気なくなった今も変わらなかった。
一方のあやめは、どうにもならないことで、家族に余計な心配をかけたくない。
「もう薬も飲んだし大丈夫だから寝ろ。明日も学校だろ」
「……どうせ戻っても眠れないから、ここにいる」
ベッドの脇に座り込む恭に、あやめはやや不機嫌に命じる。
「お前がいたって、どうにもなんねぇ。帰れ」
「やだ」
「甘ったれ」
「お前が死にそうなのが悪い……」
恭は声を震わせながら言うと、気弱な目であやめに尋ねる。
「……なんか他にできることある?」
無理に追い返しても、きっと弟は眠れないだろう。
それなら一緒にいさせたほうがいいかと、姉は考え直した。
「そんなになんかしたいなら、お姉ちゃんの腹でも押さえてろ」
「腹を押さえて、なんの意味があんの?」
「治療のことを手当てって言うだろ。手を当てると痛みが和らぐんだってさ。お前も多分どこか痛い時、無意識に手を当てるだろ」
「確かにそうかも」
実際あやめもずっと腹を押さえていた。その手を退けて、恭に上腹部を押さえてもらう。
「……少しはマシ?」
「ああ。お前の手、温かくていいわ」
手の熱さか大きさか、それとも他人がするからいいのか、自分で押さえるよりも不思議と痛みが和らいだ。
「じゃあ、ずっとこうしてる」
「ここにいてもいいけど、寒いんだからなんかかけろ」
今は7月の上旬だが、まだ梅雨時期なので肌寒かった。
「……別に寒くないから平気」
上着か布団を取りに戻ったら、そのまま締め出されそうな気がして、恭は離れることを拒んだ。
「じゃあ、お前もベッドに入れ。ゲロ臭ぇお姉ちゃんの隣で良ければな」
「外に行ったんだから、俺のほうが汚いよ」
レインコートを着て行ったので、あまり濡れずに済んだが、姉は割と潔癖だ。風呂に入ってからじゃなければ、自分もベッドに横にならないくらいだった。
しかし今は「お前が寒いほうが大変」と再び恭にベッドに入るよう勧める。
先ほど姉の腹を触った時も思ったが、並んで寝ると体の熱さに気付く。
「お前いつもより熱い。熱もあんの?」
恭は食あたりをしたことが無いので、熱まで出るとは知らなかった。
「食あたりはうつらんから平気」
「そんな心配をしてるんじゃない」
ムッとする弟に、姉はやんわり微笑んで返す。
「薬を飲んだから、だいぶよくなって来たよ。もう大丈夫だから寝ろ」
「……なんかあったら絶対に起こせ」
今日はもう眠れないかと思ったが、薬が効いたのか、恭の手当てのおかげか、気付いたらあやめは眠っていた。




