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姉弟ゲンカと

 6月下旬の夜。あやめはあるものを手に、恭の部屋を訪れた。


「恭~。いいものやる」

「何? いいものって」

「目覚まし時計。自分で使って良かったから、お前にも買おうと思って。この間の体育祭のお礼」


 姉の申し出に、弟は喜ぶよりも戸惑った。


「お礼って……もうナポリタン作ってもらっただろ」

「まぁ、名目はなんでもいいんだ。お前には誕生日に可愛い財布ももらったし、たまにはプレゼントをあげたかっただけ」


 あやめに目覚まし時計をもらった恭は、ほんのり嬉しそうに礼を言う。


「……じゃあ、使うわ。ありがと」


 恭はその夜。さっそく新しい目覚まし時計をセットした。


 翌朝。恭の部屋。


『恭~、朝だぞ~。起きたら、お姉ちゃんがチューしてやる』


 まるで本人がその場でしゃべっているかのような高音質。


 あやめに起こされたのかと飛び起きた恭は、目覚まし時計に吹き込まれた音声だと気付いた。


「おい。なんだよ、あの目覚まし時計」


 あやめが起きるには早すぎる時間だが、我慢できずにすぐさま姉の部屋に文句を言いに行く。


「うるせぇ。なんだよ、朝っぱらから……」


 睡眠を邪魔されたあやめは不機嫌に起きたが、恭の苦情を聞くと笑顔で答える。


「ああ、いいだろ、あの目覚まし時計。事前に設定した音声を、まるで耳元で推しが囁くかのような高音質で聞かせてくれるんだ。しかも複数の音声を設定してランダム再生できる」

「なんで朝から多種多様なお前の声で起こされなきゃいけねぇんだ」

「私の声は1個しか設定してないから大丈夫だって。気に入らないなら説明書を読んで、お姉ちゃんの声をリセットして好きなの入れろ~」


 もともとちょっとした悪戯で、ずっと自分の音声を使わせるつもりはない。


 あやめは自分のスマホを操作すると、恭にやり方を教えた。


「ほら、公式サイトに行けばプロの声優さんの音声がダウンロードできる。アニメやゲームキャラとコラボしたのもあるから、より取り見取りだぞ。どうだ? いいプレゼントだろ?」


 あやめほどではないが、恭もそれなりにゲームやアニメが好きだ。好きなキャラの声で目覚められたら楽しいだろうと、あやめは思っていた。


 ところがあやめの説明を聞いた恭は、意外な点に興味を持つ。


「お前も同じの持ってんの?」

「昨日も言ったじゃん。自分が使って良かったから、お前にも買ったんだって」


 確かに、あやめのベッドボードには自分がもらったのと同じ目覚まし時計が乗っていた。


 恭はその目覚まし時計をサッと奪って、音声を再生した。


「ちょ~っ!? 何すんだ~!?」


 慌てるあやめの前で、


『おはよう、子猫ちゃん。寝顔も可愛いけど、そろそろ起きて俺を構って欲しいな』


 と乙女ゲームのキャラのイケメンボイスが無慈悲に流れる。


 しばしの静寂の後、恭は白い目で問う。


「……お前、朝からこんなの聞いてんの?」

「こ、この馬鹿! いくら姉弟でも、こういうのは不可侵だろ!」


 激怒する姉に、弟は少し驚いて返す。


「なんだよ。いつもはもっと変態的なことを平気で言ってるくせに」

「下ネタはいいんだよ! でも弟に乙女な部分は知られたくないだろが!」


 あやめは珍しく真っ赤だ。


 いつもからかわれてばかりの弟は、姉の新鮮な反応が面白くて、


「お前にも羞恥心ってもんがあったんだ? 可愛いね、子猫ちゃん?」


 と、ついニヤニヤと辱めを言ってしまった。


 瞬間、空気がピシッと凍り付く。


「……人を辱めて、そんなに楽しいか?」


 あやめが滅多に出さない低く冷たい声。


 本気で姉を怒らせた。


 しかし地雷を踏んだと気付いた時には、すでに遅く。


「いつまで居んだよ。さっさと出てけ」


 あやめに睨まれた恭はたじろいで返す。


「そ、そんなマジで怒ることないだろ……」

「うるせぇ。さっさと消えろ」


 もともと眠りを邪魔された時点で、あやめは少し不機嫌だった。そこに予期せぬ辱めが加わり、完全にキレた。


 姉に追い出された弟は、取りあえず食卓に向かった。


「おはよう、恭……って、ちょっと大丈夫? さっきお姉ちゃんと話してたみたいだけど、喧嘩でもしたの?」

「別になんでもない……」


 恭はなんとか平静を装おうとしたが、母は心配そうな顔で指摘する。


「顔が真っ青だし、カップを持つ手がカタカタと震えてるけど……」

「だからなんでもない……」


 本人は否定したが、恭は珍しく朝食を半分も残した。


 恭が家を出てから1時間後。今度はあやめが食卓にやって来た。


 母はあやめの朝食を用意しながら、今朝のことを尋ねる。


「おはよう。もしかして恭と喧嘩でもした?」

「した。アイツ、絶対に許さん」


 あやめはトーストにジャムを塗りながら容赦なく答えた。


「何があったか知らないけど、許してあげてよ。可哀想なくらい動揺してたわよ」

「可哀想なくらいって? そんな可愛いタマじゃないでしょ」


 鼻で笑う娘に、母は頬に手を当てて息子の様子を思い返す。


「うまく言えないけど、まるでこの世の終わりか、何か大変な過ちでも犯してしまったかのような……。珍しくご飯も残していたし……」

「私に嫌われたくらいで、そんなんならないでしょ」


 同情させるために大袈裟に言っているんだなと、あやめは呆れた。


 「本当なのに」と母は粘ったが、


「どっちにしても、アイツがちゃんと謝るまでは許す気ないから。放っといて」


 と、あやめは素っ気なく返した。


 しかしこの僅かなやり取りの間に『絶対許さない』が『ちゃんと謝ったら許す』に変わった。


 『心配しなくても、きっとそのうち仲直りするわね』と、母は密かに安堵した。


「ケンカしてるのに悪いけど、あの子、今日提出するプリントを忘れちゃったのよ。後で届けてくれない?」

「え~? 今アイツと話したくないんだけど」

「それは分かるけど、お願い。提出が遅れたら、先生にご迷惑をかけちゃうし」


 母は早くに夫を亡くしてから、女手一つで自分たちを育ててくれている。


 そんな母を困らせたくないので、あやめは渋々承諾した。


「う~……分かった。届ける」

「ありがとう!」


 午前中の学校。休み時間。恭のクラス。


「おーい、恭」


 目の前で手を振られて、恭はようやく槇に気付いた。


「……えっ? 何?」

「今日ずっとボーッとしてるけど、なんかあったのか?」

「いや別に……何も無い……」


 何も無いどころかボクシング部の朝練にも身が入らず、顧問や部活仲間にもさんざん心配された。


「あの、八神君」

「あ? 何?」


 声をかけて来たクラスの女子は、恭にプリントを差し出しながら用件を伝える。


「今お姉さんが来て、このプリントを八神君に渡して欲しいって頼まれて」


 いつものあやめなら、


『お~い、恭。忘れものだぞ~』


 と、ここぞとばかりに大声で姉弟関係をアピールして来るのに。


 あやめに避けられていると気付いた恭は弾かれたように席を立った。


「や、八神君!?」

「恭!?」


 驚く同級生たちに目もくれず、そのまま教室を飛び出す。


 廊下を走ると、すぐに姉の小さな背中が目に入った。


「あやめ!」


 恭に手首を掴まれたあやめは振り返ったが、


「なんだよ?」


 と怖い目で睨むと、さらに滅多に出さない低い声で、


「許したわけじゃねぇから触んな」


 と弟の手をバシッと振り払い、


「それと弟のくせに呼び捨てにすんじゃねぇ」


 と、とどめに今までは許していた名前呼びも禁じた。


 恭が教室を出てから5分後。


「恭!? 大丈夫か!? この短時間で何があった!?」


 戻って来た恭はもはや返事もできないほど瀕死のていになり、友人を大いに心配させた。

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