第九章 全国民捜査網
翌朝は、珍しくゆっくり目が覚めた。
昨夜は本当によく眠れた。
宣言した通りに眠れたのが、少し誇らしい。
着替えながら、今日の王族会議のことを考えた。
アレクシス卿が「廃嫡の可能性が高い」と言っていた。
殿下の処遇が正式に決まる日だ。
複雑な気持ちがないといえば嘘になる。
五年間、婚約者として隣にいた人間の話だ。
愛情があったかと言えば曖昧だけれど、関係が全くなかったわけでもない。
でも今の私にできることは何もない。
決めるのは王族会議で、私はただ屋敷にいるだけだ。
「リリアーヌ様、今日は顔色がいいですね」
アネットが朝食を運びながら言った。
「よく眠れた」
「昨日宣言していましたものね」
「有言実行」
「素晴らしいです」
アネットの真顔の賛辞に、少し笑いながら朝食を食べ始めた。
今日の朝食は少し豪華だった。
アネットが気を遣ってくれたのだと分かった。
黙って全部食べた。
食べ終えた頃に、天の声が来た。
「おはようございます全国の皆様!! 本日も天の声、参ります!! まず昨日の続報から!! ロッセル宰相の共犯者、新たに二名が追加確認されました!! 合計十三名でございます!!」
十三名。
昨日より二名増えた。
芋づる式に出てきているらしい。
「そして本日の目玉でございます!! 今回、天の声は全国の皆様にお願いがございます!!」
お願い。
天の声がお願いをするのは初めてだ。
外もざわついた気配がある。
「横領に関連する情報を、皆様からご提供いただきたいのでございます!!」
「情報提供……?」
思わず呟いた。
「具体的には!! 不審な取引を目撃した商人の方!! 税の徴収で違和感を覚えたことがある農家の方!! 宰相府関係者から不審な依頼を受けたことがある方!! こういった情報をお持ちの方、お近くの騎士団詰め所までお越しください!! 天の声が確認した情報については、後日実況でご報告いたします!!」
国民に情報提供を呼びかけた。
それはつまり——捜査を国民参加型にするということだ。
「なお情報提供者の身元は保護されます!! 勇気を出して名乗り出た方が不利益を被ることがないよう、王族監査システムが保証いたします!! 安心してお越しください!!」
王族監査システムが保証する、という言葉の重さは、今の状況では相当なものがある。
宰相でさえ捕まえたシステムの保証だ。
国民も信じるだろう。
「これは……大きなことになりそうですね」
アネットが窓の外を見ながら言った。
「そうね。騎士団の詰め所に人が集まるかもしれない」
「集まるどころか、殺到するのでは」
私もそう思った。
国民は今、怒っている。
五年分の税金が消えていたと知って、黙っている人ばかりではないだろう。
午前中、書斎で本を読もうとしたけれど、外の騒がしさで集中できなかった。
窓越しに聞こえてくる声が、昨日と種類が違う。
興奮している声と、真剣な声が混ざっている。
情報提供に向かう人たちの声だ、と気づいた。
お昼前に、アレクシス卿が来た。
今日は顔色が少し険しい。
応接間に入るなり、
「騎士団の詰め所が朝から混雑しています」
と言った。
「やはり」
「予想以上です。王都だけでなく、地方からも伝書鳩で情報が届き始めている」
「地方からも」
「天の声は全国に届きますから。地方の農民が、徴税のときにおかしいと思っていたことを、今日一斉に届け出ている」
規模が大きい。
王都だけの話ではなく、王国全体が動いている。
「王族会議はどうなりますか、今日」
「予定通り午後から開かれます。ただ——情報提供の件で、議題が増えました」
「殿下の処遇以外にも」
「横領の全容解明と、行政の再建について。それと——」
アレクシス卿が少し間を置いた。
「リリアーヌ嬢に関する議題も正式に追加されました」
「私に関する議題」
「嬢の処遇と、今後の王国行政における役割について」
役割、という言葉に、胃がきゅっとなった。
「私は今、婚約破棄されてただの貴族令嬢の立場ですよ」
「そうです」
「貴族令嬢の処遇を王族会議で決めるんですか」
「今回の件で、嬢はただの貴族令嬢とは言い切れない貢献をしている。それが会議の認識です」
貢献。
その言葉が、また居心地悪く体に触れた。
「……私は貢献しようとしてメモを取っていたわけじゃないんですが」
「分かっています」
「几帳面な性格で、数字が気持ち悪かっただけで」
「それも分かっています」
アレクシス卿が静かに繰り返した。
分かっていても、会議の議題になるということか。
「結果がどうなるにせよ、嬢には関係のある話です。覚えておいてください」
「……はい」
返事をしながら、窓の外を見た。
外の騒ぎは続いている。
情報提供に向かう人、天の声の話をする人、宰相への怒りを口にする人。
様々な人が動いている。
私だけが、屋敷の中で静かにしている。
午後になって、天の声が再び口を開いた。
「続報でございます!! 全国の皆様からの情報提供、現在も続々と届いております!! 午前中だけで、王都の騎士団詰め所に三百件以上の情報が寄せられました!!」
三百件。
外から驚きの声が上がった。
「地方からの情報も含めると、現時点で五百件を超えております!! 全国の皆様、ご協力誠にありがとうございます!! これだけの情報が集まれば、横領の全容解明も時間の問題でございます!!」
五百件。
国民の怒りの大きさが、数字に表れている。
「ここで特に注目すべき情報をいくつかご紹介します!! 東部三州のある農村からの報告です!! 三年前の春、徴税官が来たとき、正規の領収書ではなく手書きのメモで税を徴収していったという証言が複数件寄せられました!!」
手書きのメモで徴収。
つまり正規の記録を残さずに金を集めていた。
「また北西部からは、同一人物と思われる徴税官が毎年同じ時期に訪れ、通常より多い金額を要求していたという証言が!! さらに王都内では、ある商人から宰相府の人間に定期的に金品を渡していたという証言も!!」
証言が積み重なっていく。
一つ一つは断片的でも、集まれば全体像が見えてくる。
「全国の皆様、これが王国で起きていたことでございます!! 皆様の税金が、一部の人間の懐に消えていた!! しかし!! 皆様の証言と、リリアーヌ嬢のメモのおかげで、今その全容が明らかになりつつあります!!」
また私の名前が出た。
顔が熱くなるのを感じながら、窓の外を見た。
「リリアーヌ様、街の人たちが『リリアーヌ様ありがとう』と言っています」
アネットが窓から顔を引っ込めて言った。
「聞こえてる」
「どうされますか」
「カーテン閉めて」
「……やっぱり」
アネットがカーテンを閉めてくれた。
外の声が少し遠くなった。
ありがとう、と言われるのは嬉しい。
嬉しいけれど、直接聞くと顔が上げられなくなる。
夕方、父が王族会議から戻ってきた。
応接間で待っていると、父はいつもより疲れた顔で椅子に座った。
それでも背筋は伸びていた。
「会議の結果を話す」
「はい」
「まずユリウス殿下の件だ」
父が一息ついた。
「王太子廃嫡、決定した」
外から、大きな声が聞こえた。
天の声が実況しているのだ、と気づいた。
「王族会議の決定です!! ユリウス・レオナルド殿下の王太子位を剥奪!! 廃嫡が正式に決定されました!!」
外が沸いた。
驚きと、どよめきと、安堵が混ざったような声だ。
私は静かに、その声を聞いていた。
来ると思っていた結果だ。
でも実際に聞くと、やはり少し重い。
「殿下は……今後どうなりますか」
「王族としての地位は残る。ただし継承権は剥奪される。しばらく王宮内で謹慎処分となる見込みだ」
「そうですか」
「横領への直接関与は認められなかった。ただ、側近の不正を見抜けなかった責任は問われた」
妥当な判断だと思った。
直接的に悪いことをしたわけではない。
でも王太子として、あまりにも周囲に無頓着すぎた。
「リリアーヌの件も決まった」
父が続けた。
「婚約破棄に伴う補償は、エルシェイド家に対して正式に行われる。それとは別に——王国はお前個人に対しても、正式な感謝状と賠償を提示してきた」
「感謝状」
「お前が五年間行ってきた業務への正式な認定と、今回の横領発覚への貢献に対する感謝だ」
感謝状。
その言葉が、妙にふわふわと頭の上を漂った。
実感がない。
「……断れますか」
「断れない」
即答だった。
「お前が断ると、お前の仕事を正式に認めたい人間の気持ちを全部否定することになる。そういう話だ」
アレクシス卿に言われた言葉が、また頭に戻ってきた。
受け取ることを拒否すると、やった仕事まで消えてしまう。
「……分かりました」
「受け取りなさい。それがお前の仕事への、正当な評価だ」
父が、珍しく少し声を柔らかくして言った。
いつもの簡潔な言い方より、わずかに温度がある。
「はい」
「もう一つある」
「まだありますか」
「王国行政の再建について、お前に協力を求めたいという申し出が来ている」
協力。
「どういう意味ですか」
「宰相が捕まり、共犯者が十三名以上捕まった。王国の行政機能は今、深刻な人手不足になっている」
「それは……そうですね」
「お前がやっていた業務を知っている人間が、今の王国にほとんどいない」
その言葉の意味が、ゆっくりと頭に浸透してきた。
私がやっていた業務。
外交文書、財務整理、地方行政との連絡、各種報告書の確認。
それらを理解している人間が、今の王宮には少ない。
「つまり……私に戻ってきてほしいということですか」
「正式な立場で、だ。婚約者としてではなく、王国の行政官として」
行政官。
それは婚約者という曖昧な立場ではなく、きちんとした役職として働くということだ。
複雑な気持ちが波のように来た。
戻りたくない、という気持ちがある。
あの書類の山に、また向き合う日々が続くのかと思うと、少し気が重い。
でも同時に——あの仕事を誰かにやってもらえるのかという心配もある。
中途半端に投げ出したままになっている案件が、いくつか頭に浮かんだ。
「今すぐ答えなくていい」
父が言った。
「考えなさい。お前の人生だ」
「……はい」
「ただ、参考までに言っておく。アレクシス卿も、お前に戻ってほしいと言っていた」
「卿が」
「会議でそう発言したそうだ。リリアーヌ嬢の能力は王国に必要だと、はっきり言ったと聞いた」
はっきり言った。
あの人らしい言い方だと思った。
夜になって、天の声が締めくくりを告げた。
「本日も盛りだくさんでございました!! 王太子廃嫡、宰相逮捕、そして全国から五百件超の情報提供!! 王国が大きく動いた一日でございます!!」
「なお本日の情報提供で特に役立った証言を提供してくださった方々に、天の声から感謝申し上げます!! 皆様の勇気が、王国を変えています!!」
外から拍手の音が聞こえた。
自然に起きた拍手だった。
「そして本日のもう一つの大きなニュース!! リリアーヌ・エルシェイド嬢への感謝状と、王国行政への復帰要請が正式に提示されました!! 嬢の返答はいかに!!」
「まだ考え中です……!」
思わず声に出してしまった。
「当事者から考え中とのご回答をいただきました!! 全国の皆様、続報をお待ちください!!」
「返答まで実況しないでほしい……」
「申し訳ございません!! でも気になりますので!!」
気になるのは分かった。
分かったけれど、困る。
外から、くすくすと笑い声が聞こえた。
私は窓の外を見た。
夜風が吹いていて、街の灯りが揺れている。
戻るべきか、戻らないべきか。
行政官として働くことが、自分にとって何を意味するのか。
考えることが多すぎて、今夜もまた眠れないかもしれないと思った。
「アネット」
「はい」
「正直に聞くけど——私、戻った方がいいと思う?」
アネットが少し驚いた顔をした。
私が意見を求めることは、あまりないから。
少し考えてから、アネットは答えた。
「リリアーヌ様がやらなかったら、誰がやるんですか」
「誰かがやるでしょう」
「今の王宮に、やれる人がいますか」
「……それは」
「私はリリアーヌ様の仕事を五年間傍で見てきました。あれができる人が他にいるなら、最初からリリアーヌ様がやらなくてよかったはずです」
アネットが静かに、でもはっきりと言った。
侍女がこんなに鋭いことを言うのかと、少し驚いた。
「……そうかもしれない」
「答えは出ていると思いますよ、もう」
出ているかもしれない。
でも認めるのが、少し怖い。
「もう少し考える」
「もちろんです」
アネットが微笑んだ。
私も、少しだけ笑い返した。
夜風が窓を揺らした。
答えはきっと、もう決まっている。
ただそれを口にする勇気が、まだ少し足りなかった。




