第七章 消えた税金
朝から頭が重かった。
昨夜、なかなか寝付けなかったせいだ。
横になっても、数字が頭の中をぐるぐると回った。
東部三州、北西部二州、春と秋、規則的な差異。
私が几帳面に記録していたメモが、今や王国の横領事件の証拠になっている。
自分でも、まだ信じられない気持ちがある。
「リリアーヌ様、朝食はお召し上がりになりますか」
「食べる。でも少なめで」
「かしこまりました」
アネットが気を利かせて、いつもより軽い朝食を用意してくれた。
スープと小さなパン。
それだけで十分だった。
食べながら、窓の外を眺める。
今日も晴れている。
空だけ見ていると、何も変わっていない普通の朝のように見えた。
「おはようございます全国の皆様!! 本日も天の声、張り切って参ります!! 昨日は宰相府関係者への疑惑をお伝えしましたが、本日はその詳細に迫ってまいります!!」
始まった。
スープを一口飲んで、続きを待った。
もう慌てない。
慌てても仕方がないと学んだ。
「まず昨日の補足でございます!! 横領の疑いがある資金の流れについて、改めて整理いたします!! 東部三州および北西部二州の税収において、毎年春と秋に一定額が正規の収納先に届いていないことが確認されています!! この差額、五年間の累計で金貨二十万枚相当!! 改めて申し上げますと——二十万枚でございます!!」
外から、また声が上がった。
昨日聞いた人も、改めて聞いて驚いているのだろう。
数字というのは、何度聞いても大きすぎると実感が追いつかない。
「ではこの資金はどこへ消えたのか!! 追跡した結果をご報告します!!」
天の声が、少し間を置いた。
その間が、いつも意味を持っている。
「消えた資金の一部は、王都内の複数の口座に分散して入金されていたことが確認されました!! 口座の名義——架空の商会でございます!!」
架空の商会。
「架空の商会は合計で十七件!! いずれも実態のない幽霊商会でございます!! 設立時期は——ちょうど五年前でございます!!」
五年前。
私が婚約者として財務書類に関わり始めた時期と重なる。
偶然ではないだろう。
誰かが、その時期に仕組みを作ったのだ。
「なお幽霊商会の設立に関わった人物ですが——現在確認中でございます!! 続報をお待ちください!!」
続報待ち。
天の声の調査は、リアルタイムで進んでいるらしい。
どうやって調査しているのか、私には想像もつかない。
三百年前の大賢者が作ったシステムが、現代の架空商会を追跡している。
考えると不思議な話だ。
朝食を終えた頃、アレクシス卿が来た。
昨日の約束通りだ。
応接間に通すと、彼はすでに今朝の実況内容を聞いていて、表情が昨日より更に引き締まっていた。
「架空の商会が十七件というのは、相当組織的です」
「そうですよね。個人が単独でできる規模じゃない」
「複数人が関わっている。おそらく宰相府の中でも、ある程度の権限を持つ人間が中心にいます」
「昨日、首謀者とみられる一名と言っていましたね、天の声が」
「その人物が誰か、王族会議でも話し合われています。ただ証拠が揃わないと名指しできない」
「私のメモは役立ちましたか」
「非常に。差異の規則性を示す記録として、議会に提出しました。今後の調査の基準になります」
それを聞いて、少し胸のつかえが取れた気がした。
役に立てているなら、それでいい。
「リリアーヌ嬢、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「財務書類を整理していた五年間で、不審に思った人物はいましたか。数字以外の意味で」
数字以外の意味で。
私は少し考えた。
書類を扱うとき、私はほとんど一人か、担当省の文官と二人で作業していた。
顔を合わせる機会が多かった人間の顔を、順番に思い浮かべる。
「一人、気になる人はいました」
「どんな人ですか」
「宰相府の副官です。書類の確認に来るとき、いつも私が席を外したタイミングを見計らうように来ていた気がして。気のせいかもしれませんが」
「名前は」
「ドルヴァン副官。四十代の男性で、温厚そうな人でした。だから余計に気のせいだと思っていたんですが」
アレクシス卿が何かを手帳に書き留めた。
「参考にします」
「確証はないですよ。ただの印象なので」
「印象は大事です。証拠ではありませんが、調査の方向性を示すことがある」
静かに言われると、なんとなく納得してしまう。
この人の話し方には、妙な説得力がある。
その後しばらく、二人で今朝の実況内容について話した。
といっても私が情報を持っているわけではなく、アレクシス卿が王族会議での情報を整理しながら話してくれる形だった。
私はほとんど聞いている側だったけれど、それでも話の全体像が少しずつ見えてきた。
宰相府の中に、長年かけて作られた横領の仕組みがある。
それは一人の人間ではなく、組織として動いている。
そしてその組織は、王太子殿下の周囲とも何らかの繋がりがある可能性が高い。
「殿下は関与していたんですか」
思い切って聞いた。
「今のところ、直接の関与は確認されていません。ただ——知っていた可能性はある」
「知っていて、黙っていた」
「あるいは知らされていなかったか。どちらかです」
どちらだとしても、結果は似たようなものだと思った。
知っていて黙っていたなら論外だし、知らされていなかったとしたら、それだけ周囲に舐められていたということだから。
「難しいですね」
「何がですか」
「殿下のことを、完全に悪人だと思えない。でも擁護もできない」
アレクシス卿が少し考えてから、
「複雑な人物だと思います」
と言った。
批判でも擁護でもない、ただの評価だった。
お昼前に、天の声が再び口を開いた。
「続報でございます!! 幽霊商会の設立に関わった人物の確認が取れました!!」
外がざわついた。
アレクシス卿も手を止めた。
「設立書類に関わった公証人の記録を照合した結果——全十七件の商会設立に、同一の公証人が関与していることが判明しました!! さらにその公証人、現在は王都を離れており、行方が確認できておりません!!」
行方不明。
逃げたのだ。
おそらく昨日の実況を聞いて。
「なお証拠隠滅はお勧めしないと昨日申し上げましたが——すでに全記録の複製を確保済みでございます!! どこへ逃げても資料は残っておりますのでご安心ください!! ご本人にとってはご安心いただけないかもしれませんが!!」
最後の一言が、いつものように軽やかだった。
アレクシス卿が小さく息を吐いた。
笑ったのか、呆れたのか、判断がつかなかった。
「公証人が逃げたということは、焦っている人間がいるということです」
「焦らせるために言ったんでしょうか、天の声が」
「そうかもしれません。動きを誘発して、さらに証拠を集める」
「……賢いシステムですね」
「三百年前の大賢者が作ったものですから」
なるほど、と思った。
三百年前の人間が、こんな手法まで考えていたとは。
午後になって、外の騒ぎがひとつ大きくなった。
アネットが窓から覗いて、
「街の人たちが、横領した資金を返せと言い始めています」
と教えてくれた。
「返せといっても、どこに言えばいいのか分からないでしょうに」
「とりあえず王宮の方角に向かって叫んでいます」
「……そうか」
国民の怒りは正当だと思う。
五年間、税収の一部が消えていたのだ。
その分、どこかで削られていたものがあるはずで、それは国民の生活に直接関わっていた可能性がある。
「リリアーヌ様」
アネットが窓から離れて、こちらを見た。
「街の人たちが、リリアーヌ様のメモが証拠になったと聞いて、感謝しています」
「天の声が言ったの、そのことも」
「はい。リリアーヌ様が記録していなかったら、五年前まで遡れなかったと」
また顔が熱くなった。
私は別に、誰かのために記録していたわけじゃない。
ただ几帳面な性格で、数字が合わないのが気持ち悪くて、記録しておいただけだ。
「几帳面で良かったのかな」
「良かったと思います」
「でも几帳面じゃなかったら、こんなに巻き込まれなかったかもしれない」
アネットが困ったような顔をした。
「それはそうかもしれませんが……」
「冗談だよ」
少しだけ笑って言った。
アネットも笑った。
こういう時間が、今は一番落ち着く。
夕方近くに、父が帰ってきた。
今日は顔色が優れない。
応接間で向かい合うと、いつもより言葉を選んでいる様子だった。
「王族会議から連絡があった」
「はい」
「ドルヴァン副官に事情聴取が行われるそうだ」
私の言った名前が、早速動いた。
アレクシス卿が動いてくれたのだろう。
「リリアーヌが名前を挙げたと、アレクシス卿から聞いた」
「確証はない話でしたが」
「それでも重要な情報だったそうだ。会議で評価されていた」
「……そうですか」
評価、という言葉に、また居心地が悪くなった。
評価されるのが苦手だ。
でも今更それを言っても仕方がない。
「お前は正しいことをしている」
父が短く言った。
「ありがとうございます」
「ただ、今後は名前が出る機会が増えるかもしれない。覚悟しておきなさい」
「……はい」
覚悟、という言葉が重かった。
でも頷くしかない。
もう引き返せないところまで来ている気がする。
夜になって、天の声の締めくくりが来た。
「本日の実況、ここで区切りといたします!! 本日の総括です!! 幽霊商会十七件、公証人逃亡、そして重要参考人の浮上!! 捜査は着実に進んでおります!! 全国の皆様、正義はゆっくりと、しかし確実に動いております!!」
正義はゆっくりと、しかし確実に。
その言葉だけは、テンションに関係なく、真剣に聞こえた。
「明日も続報をお届けします!! 犯人の皆様、どうぞ良い夢を!!」
犯人の皆様、というのが妙に明るかった。
外から、くすくすと笑い声が聞こえた。
私は窓の外を見た。
夜空に星が出ている。
こんなに大きな問題が動いているのに、空はいつも通りだ。
明日、ドルヴァン副官への聴取が行われる。
私の印象が正しかったかどうか、それで分かる。
正直なところ、外れていてほしかった。
あの温厚そうな四十代の男性が、十七件の幽霊商会に関わっているというのは、どこか信じたくない気持ちもある。
でも数字は嘘をつかない。
それだけは分かっていた。
「アネット、今夜は早く寝る」
「はい。明日も早いですか」
「分からない。でも天の声は朝から来る」
「……そうですね」
アネットが苦笑した。
私も苦笑した。
天の声を基準に生活するのが、すっかり日常になりつつあった。
それが少し、おかしかった。




