第五章 王族監査システム
四日目の朝は、晴れていた。
雨上がりの空は透き通るように青くて、窓を開けると湿った土の匂いが風に混じって入ってくる。
こういう朝は、本来なら気持ちがいいものだ。
本来なら。
「リリアーヌ様、今日はどうなさいますか」
「とりあえず朝食を食べる」
「その後は」
「天の声が何を言うかによる」
アネットが苦笑した。
私も苦笑した。
気づけば、天の声を前提に一日の計画を立てるようになっていた。
三日間でそういう生活に慣れてしまったのは、自分でも少し怖い。
朝食は静かに終わった。
今日はまだ天の声が沈黙していて、外の人通りも昨日より落ち着いている。
雨上がりで道が濡れているせいもあるだろう。
食後のお茶を飲みながら、私は婚約関係の書類の続きを見ていた。
婚約破棄の手続きは、エルシェイド家の法務担当が進めてくれている。
私がやることは確認と署名だけで、実務的な意味では問題ない。
ただ、署名するたびに少し手が止まる。
感傷ではなく——五年間という時間の重さを、書類の束の厚みで感じるからだ。
「……多いな」
「五年分ですから」
アネットが静かに言った。
「そうね」
一枚ずつ確認して、署名して、次へ。
それを繰り返していると、午前中が静かに過ぎていった。
天の声は沈黙したままだった。
珍しいと思いながらも、静けさを有り難く享受した。
昼食を終えた頃、父から声がかかった。
応接間に行くと、アレクシス卿がまた来ていた。
今日は旅の埃もなく、きちんとした礼服姿で椅子に座っている。
「また来ていただいたんですね」
「王宮に呼ばれていたので、ついでに寄りました」
「王宮に?」
「王族会議の参考人として。北方の行政について確認したいことがあったようです」
父が補足した。
「北方の財務状況が、王国全体の問題と絡んでいるらしい。詳しくは後で話す」
財務状況。
その言葉に、昨日天の声が言っていたことが頭をよぎった。
王国の財政問題が、婚約破棄の話だけでは終わらない何かに繋がっているのかもしれない。
「王宮の様子はどうでしたか」
アレクシス卿に聞いた。
少し直接的すぎたかと思ったが、彼は表情を変えずに答えた。
「混乱していました。支持率の結果を受けて、各派閥が動き始めています。ユリウス殿下を擁護する声は、今や側近の中にもほとんどない」
「そうですか」
「ただ——問題は殿下の処遇だけではないと、私は思っています」
アレクシス卿の声が、わずかに低くなった。
「もっと根の深い問題が、王国にある。それが今回の件で表面に出始めている」
その言葉の続きを聞こうとしたとき、天の声が響いた。
「おーっと!! ここで重大発表でございます!! 本日、天の声は特別説明を行います!! 全国の皆様、どうぞご着席ください!! 立っている方も、できれば座ってください!!」
着席してください、というのは初めての指示だ。
アレクシス卿が天井を見上げた。
父も表情が変わった。
私は思わずソファに座り直した。
「これまで三日間、皆様にお届けしてきた天の声でございますが、本日はその正体についてご説明いたします!!」
正体。
その言葉に、応接間の全員が静止した。
「天の声の正体——それは古の大賢者ガルヴィアス師が、およそ三百年前に構築した『王族監査システム』でございます!!」
王族監査システム。
その言葉が、静かな応接間に落ちた。
「このシステムは王国建国初期、初代国王陛下と大賢者ガルヴィアス師が共同で設計したものでございます!! 目的はただ一つ——王族が国家を危機に陥れる行為を行った際、それを全国民に知らせ、是正を促すこと!!」
「三百年前から……」
思わず呟いた。
「普段の祭りや競技会の実況は、このシステムの副次機能でございます!! 本来の目的は国家監査!! 国家危機レベルの愚行が王族によって行われたとき、自動的に起動する仕組みになっております!!」
つまり、今回起動したということは——。
「そう!! お気づきの方もいらっしゃると思います!! 今回のシステム起動は、ユリウス殿下の婚約破棄宣言が国家危機レベルの愚行と判定されたことを意味します!!」
国家危機レベルの愚行。
外から大きなざわめきが聞こえた。
晴れた空の下で、国民たちが声を上げている。
「判定基準をご説明します!! 王太子の婚約破棄、それ自体は必ずしも国家危機ではありません!! しかし今回の場合——婚約破棄の対象者が、実質的に王国行政の中枢を担っていた人物であること!! その人物を虚偽の告発で追放しようとしたこと!! さらに追放後の後任体制が存在しないこと!! これらが重なり、システムが国家存亡に関わると判断いたしました!!」
後任体制が存在しない。
その言葉に、少し頭が痛くなった。
私がいなくなったあと、誰がやるのかという問題を、誰も考えていなかったということだ。
殿下も、側近も。
そもそも私がやっていたと、気づいていた人が少なかったのだから当然かもしれないけれど。
「リリアーヌ嬢」
アレクシス卿が静かに言った。
「はい」
「今の説明を聞いて、どう思いましたか」
少し考えた。
「システムが起動したのは、私がいなくなると国が傾くからということですよね」
「そうなります」
「……それは、私の問題ではなくて、後任がいない体制の問題だと思います。私一人に依存していた構造が問題で、その構造を作ったのは私じゃない」
言ってから、少し言い過ぎたかと思った。
でもアレクシス卿は否定しなかった。
「正しい分析です」
と、短く言った。
「追加情報でございます!! 今の分析、完全に正解でございます!!」
天の声まで肯定してきた。
恥ずかしいから黙っていてほしい。
「なお王族監査システムについて、もう一点補足がございます!! このシステム、止める方法がございません!!」
止める方法がない。
「起動条件となった問題——つまり王国の危機——が解消されるまで、自動的に継続いたします!! 問題が解決すれば自然停止!! それまでは何があっても止まりません!! 大変ご不便をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします!!」
どうぞよろしくお願いします、という言い方が妙に丁寧だった。
外から笑い声が起きた。
困り果てているのに、笑ってしまう声が混じっている。
私も、笑うべきなのか頭を抱えるべきなのか分からなかった。
「止まらない、か」
父が低く呟いた。
「問題が解決するまで、ということは——」
「王国の構造的な問題が全部片付くまで、ということでしょう」
アレクシス卿が静かに言った。
「長くなりそうですね」
「そうなりますね」
二人の会話を聞きながら、私は窓の外を見た。
青い空。
晴れた空の下で、国民たちがまだ騒いでいる。
天の声の説明を聞いて、驚いている声と、面白がっている声が混じり合っている。
三百年前の大賢者が作ったシステムが、今になって動き出した。
婚約破棄という、ある意味とても個人的な出来事をきっかけに。
なんだか、途方もない話だと思った。
「リリアーヌ」
父が呼んだ。
「はい」
「今後、このシステムが何を暴いていくかは分からない。だがお前には関係のないことが多くなるだろう。屋敷で静かにしていなさい」
「分かりました」
「ただ——何かを聞かれたときは、正直に答えなさい。お前の知っていることが必要になる場面が来るかもしれない」
父の言い方は相変わらず简潔で、感情が乗っていない。
でもその言葉の裏に、娘を守ろうとしている意思があるのは分かる。
「アレクシス卿」
父がアレクシス卿に向き直った。
「王族会議の続きはいつですか」
「明後日の予定です。おそらくユリウス殿下の処遇が正式に決まります」
「そうか」
「それと——」
アレクシス卿が少し間を置いた。
「天の声の次の標的は、財務関係になる可能性が高いです。私の見立てでは」
財務関係。
私の手の中に、午前中に見ていた書類の感触が残っている。
財務書類の整理をしていたのは私だ。
整理をする中で、気になる数字がいくつかあった。
でもそれを誰かに言う機会がなかった。
「気になることがあるのですか」
アレクシス卿に聞かれた。
私の表情を読んだらしい。
「財務書類を整理していたとき、税収の数字が合わない部分がありました。誤記かと思って修正しましたが、誤記にしては規則的すぎる誤差で」
「規則的な誤差」
「はい。同じ地域の、同じ時期に、似たような金額が——少しずつ、消えていました」
言ってしまってから、少し後悔した。
確証があるわけじゃない。
ただの数字の違和感で、私が気のせいと判断して修正した話だ。
でもアレクシス卿の表情が、わずかに変わった。
「それはいつ頃の書類ですか」
「二年ほど前から、ずっと続いています」
「記録は残っていますか」
「修正前の数字と修正後の数字、両方メモしてあります。習慣で」
「見せていただけますか」
「構いませんが——大した話じゃないかもしれません。私の見間違いの可能性もあります」
「いいえ」
アレクシス卿が静かに、でもはっきりと言った。
「リリアーヌ嬢が規則的だと感じた誤差は、規則的なのだと思います」
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。
理解した瞬間に、背筋が少し冷えた。
規則的な誤差。
同じ地域。
同じ時期。
少しずつ消える金額。
それは——横領の痕跡ではないか。
「まずいことになっているかもしれない……」
呟くと、天の声がすかさず入ってきた。
「おーっとここで重要情報の予感でございます!! 詳細は近日中にお届けする予定でございます!! 全国の皆様、引き続きお楽しみに!!」
楽しみにしないでほしい。
切実にそう思った。
夕方、アレクシス卿が帰る前に玄関先で少しだけ話した。
父は屋敷の中に戻っていて、私とアレクシス卿だけだった。
「メモの件、明日取りに来てもいいですか」
「はい。整理して準備しておきます」
「ありがとうございます」
「いえ……役に立てるかどうか分かりませんが」
「十分役立ちます」
アレクシス卿は、いつも断言する。
曖昧な言い方をしない人だ。
「リリアーヌ嬢」
「はい」
「三日間、大変だったと思います」
突然そう言われて、何と返せばいいか分からなかった。
「……まあ、それなりに」
「しっかりしていますね」
「そうでもないです。カーテン閉めて書斎に籠もってただけなので」
アレクシス卿が、少し笑った。
昨日も見た、口の端がわずかに上がる笑い方だ。
「それも十分しっかりしていると思いますよ」
そう言って、彼は馬車に乗って去っていった。
私は玄関先で、しばらく空を見上げていた。
夕暮れが迫っていて、空の端が橙色に染まっている。
きれいだと思った。
四日間、色々なことがあった。
婚約破棄をされて、全国に実況されて、支持率を発表されて、監査システムの正体を知らされた。
そして財務書類の違和感が、もしかしたら大きな問題に繋がるかもしれない。
何もかもが、私の想定の外にある。
「本日の天の声、これにて終了でございます!! 婚約破棄全国放送編、ひとまず完結でございます!! 明日からはいよいよ新しい展開、王国の闇に迫ってまいります!! どうぞお楽しみに!!」
婚約破棄全国放送編、という言い方に引っかかった。
まるで物語として扱っているかのような表現だ。
そしてまだ続きがあるらしい。
当然か。
問題が解決するまで止まらないと、自分で言っていた。
「……王国の闇って何が来るの」
誰にも聞こえない声で呟いた。
「お楽しみでございます!!」
聞こえていた。
「なんでも聞こえるの本当にやめてほしい……」
外から、誰かの笑い声が聞こえた。
近所の人が聞いていたらしい。
私は玄関の扉を閉めた。
明日から王国の闇に迫るらしい。
けれどそれは明日の話で、今夜はまだ静かだ。
今夜くらいは、静かに眠れるといい。
心からそう思いながら、私は屋敷の奥へと戻っていった。




