第三章 聖女の涙は何点ですか?
目が覚めたとき、まず耳を澄ました。
聞こえない。
今のところ、天の声は沈黙している。
ほっとして起き上がり、顔を洗い、着替えた。
今日は静かに過ごせるかもしれない。
そう思ったのが間違いだった。
「おはようございます全国の皆様!! 本日も天の声、元気に参ります!! 昨日に引き続き、王太子婚約破棄事件の続報をお届けしてまいります!! 本日のテーマはズバリ——聖女ミレイア・ソーランス嬢でございます!!」
朝食を取ろうとした瞬間に始まった。
スプーンを持ったまま、私は天井を見上げた。
アネットも固まっている。
「……始まった」
「始まりましたね」
「今日はミレイアさんの話なの?」
「そのようで」
複雑な気分だった。
ミレイアのことを悪く思いたくはない。
思いたくはないけれど、彼女が殿下に何を吹き込んだのかは、さすがに気になっていた。
「まず基本情報のご確認でございます!! ミレイア・ソーランス嬢、十七歳、男爵家出身!! 光属性の魔力を持ち、三ヶ月前に聖女候補として王宮に招聘されました!! 招聘の経緯は——王太子殿下の鶴の一声でございます!!」
鶴の一声、というのは知らなかった。
聖女候補の選定は神殿が行うものだと思っていた。
「通常、聖女候補の選定は神殿評議会が行います!! 今回はその手続きを、殿下が省略されました!! 理由は不明でございます!! 神殿評議会の皆様、現在大変お怒りとのことでございます!!」
そうか、と思った。
神殿が怒るのは当然だ。
聖女認定は神殿の権限で、それを王族が勝手に動かせば問題になる。
なぜそんな基本的なことを殿下は——いや、考えるのをやめよう。
考えると頭が痛くなる。
朝食を終えて、私は書斎に籠もることにした。
外に出る気になれない。
昨日から屋敷の外に人が集まっているのは分かっているし、天の声が響く中を歩くのも気が重かった。
本を読もうとしたけれど、文字が頭に入ってこない。
当たり前だ。
天の声がずっと喋っているのだから。
「それでは本題でございます!! 王太子殿下が婚約破棄の理由として挙げた、リリアーヌ嬢によるミレイア嬢への嫌がらせ!! こちらを詳しく検証してまいります!!」
本を閉じた。
「まずミレイア嬢が殿下に訴えた内容をご紹介します!! その一、廊下ですれ違いざまに睨まれた!! その二、茶会に招待されなかった!! その三、使用人に命じて嫌がらせをされた!! 以上三点でございます!!」
私は眉を寄せた。
一つずつ、記憶を辿る。
廊下で睨んだ覚えはない。
茶会は——私はほとんど茶会を開かない。
社交が得意ではないから。
使用人に命じて、というのは完全に身に覚えがない。
「それでは検証してまいりましょう!! まずその一、廊下で睨まれた件!! 当該日時における該当廊下の記録を確認しました!! リリアーヌ嬢の行動記録——廊下通過、所要時間約八秒!! 視線の記録——なし!!」
なし、というのは正確だ。
私は廊下を歩くとき、だいたい足元か書類を見ている。
人の顔をじっと見ながら歩く習慣がない。
「なお同日時にミレイア嬢がその廊下を通過した記録——ございません!! そもそも同じ場所にいなかった模様でございます!!」
いなかった。
「続いてその二、茶会に招待されなかった件!! リリアーヌ嬢が過去一年間に主催した茶会の回数——ゼロ!! 招待状を発行した回数——ゼロ!! つまり誰も招待していないため、ミレイア嬢だけが招待されなかったという事実は存在しません!!」
ゼロです、と言われると改めて自分が社交をしていないことを思い知るけれど。
それはそれとして、事実だ。
「そしてその三、使用人への命令によるいやがらせ!! エルシェイド侯爵家の使用人全員に聞き取りを行いました!! 命令を受けた者——ゼロ!! ミレイア嬢に接触した者——ゼロ!! ミレイア嬢の存在を認識していた者——ゼロ!!」
最後のゼロには少し傷ついた。
認識していなかったというのは、つまり私の使用人たちにとってミレイアはそこまで存在感がなかったということで——いや、これは仕方ない。
接点がなければ知らなくて当然だ。
「以上の結果、告発された三件の嫌がらせ、いずれも事実確認できませんでした!! 残念ながら——というより大変めでたいことに、リリアーヌ嬢の潔白が証明されました!!」
めでたい、という言い方が引っかかった。
潔白が証明されたのは当然で、証明される必要があること自体がすでにおかしいのだから、めでたいという感情にはなれない。
でも国民にとっては違うのだろう。
外から歓声が聞こえた。
書斎の窓から覗くと、通りに人が増えていた。
昨日より明らかに多い。
子供まで混じっている。
みんな空を見上げて、天の声に聞き入っている。
祭りみたいだと思った。
私の話題で祭りが起きている。
消えたい気持ちが波のように押し寄せてきた。
「さて!! ここで重要な情報をお届けします!! ミレイア嬢の過去の発言記録を精査しましたところ、興味深い傾向が見つかりました!!」
天の声のトーンが、少しだけ変わった。
相変わらず明るいけれど、どこか意味ありげな間があった。
「ミレイア嬢、泣き上手でいらっしゃいます!!」
その一言の後、少し間があった。
「過去三ヶ月の王宮滞在中、ミレイア嬢が涙を見せた記録が確認されております!! 相手別に内訳をご紹介します!! 王太子殿下の前で——十四回!! 王妃陛下の前で——八回!! 側近貴族の前で——延べ二十二回!! 合計四十四回でございます!!」
四十四回。
三ヶ月で。
計算すると、二日に一回弱の割合だ。
「なお泣いた理由として記録されているものをご紹介します!! 殿下に優しくしてもらえて嬉しくて泣いた——七回!! リリアーヌ嬢に意地悪をされて悲しくて泣いた——十四回!! 光の加護を感じて感動して泣いた——九回!! その他——十四回!!」
リリアーヌ嬢に意地悪をされて、という項目が十四回あった。
十四回。
三ヶ月で十四回、私が意地悪をしたと言って泣いていたことになる。
私と彼女が同じ空間にいた回数は、両手で数えられるくらいしかない。
どこで十四回分の意地悪をしたというのだろう。
「ちなみに!! リリアーヌ嬢に意地悪をされて泣いた十四回のうち、リリアーヌ嬢と同じ場所にいた日——ゼロ回!!」
ゼロ。
また、ゼロだ。
外がどっと沸いた。
笑い声が混じっている。
怒りの声もある。
さまざまな声が混ざり合って、通りがざわめいている。
私は窓から離れた。
見ていると余計に心がざわつく。
アネットがお茶を持ってきてくれた。
黙って受け取って、一口飲む。
温かかった。
「リリアーヌ様」
「何」
「怒らないんですか」
少し考えた。
「怒る気力より、疲れる気力の方が先に来た」
「……そうですか」
「ミレイアさんが嘘をついていたとしても、それはミレイアさんの問題で、私がどうにかすることじゃない。天の声が全部言ってくれているし」
「でも、悔しくはないですか」
悔しい。
悔しいという感情が全くないかと言えば、嘘になる。
五年間、誠実に務めてきた。
それを「意地悪な婚約者」として誰かに語られていたのだとしたら、悔しくないわけがない。
でも。
「悔しさより、恥ずかしさの方が大きい。こんなに注目されたくなかった」
アネットが困ったような、でも少し微笑んでいるような顔をした。
そのとき、天の声がまた響いた。
「追加情報でございます!! 現在、王宮ではミレイア嬢への事情聴取が行われている模様!! 詳細は追って!! なお事情聴取の場においても、ミレイア嬢は涙を見せられているとのこと!! 本日三回目でーーす!!」
本日三回目。
朝から三回。
事情聴取で泣くというのは、なかなかに強靭な精神だと思う。
感心すらしてしまう。
「……強い人だ」
思わず呟くと、アネットが目を丸くした。
「リリアーヌ様、今ミレイア嬢を褒めましたか」
「褒めてない。ただ、そういう生き方は私には絶対できないなと思っただけ」
私は泣くのが苦手だ。
泣きたいときでも、なかなか涙が出ない。
昨夜も、婚約破棄を宣言されたときも、泣けなかった。
恥ずかしさの方が先に来てしまって。
人前で涙を武器にできる人間というのは、私とは別の生き物なのかもしれない。
昼過ぎに、父から呼ばれた。
応接間に行くと、見知らぬ男性が座っていた。
年齢は三十代ほど。
貴族の礼服を着ているが、よく見ると旅の埃がわずかに残っている。
最近まで遠くにいた人だと分かった。
「リリアーヌ、紹介する。辺境伯アレクシス・ヴァルナー卿だ」
辺境伯。
その名前には聞き覚えがある。
北方辺境を治める若き辺境伯で、数年前の国境紛争を収めた人物だ。
戦争英雄、という言葉がよく使われていた記憶がある。
「初めまして、リリアーヌ嬢。急な訪問をお許しください」
低くて落ち着いた声だった。
立ち上がって礼をする仕草に、無駄がない。
「初めまして」
私も礼をした。
なぜこの人がここにいるのか、分からなかった。
「昨日からの件で、確認したいことがあって参りました。リリアーヌ嬢が作成に関わった北方兵站の見直し提案書——あれは嬢が単独で書かれたのですか」
単刀直入な人だ。
挨拶もそこそこに本題に入ってきた。
嫌いではない。
「単独ではありません。現場の将校からの報告書を参考にして、整理した形で提出しただけです。実際の知識は現場の方々の方が遥かに上で」
「なるほど」
アレクシス卿は短く言って、少し考える顔をした。
「あの提案書のおかげで、北方の物資調達が三割効率化されました。现場の人間は皆、王太子殿下に感謝していましたが——本当に感謝すべき相手が分かりました」
「それは……現場の方々の工夫があってこそで、私はただ書類にしただけで」
「書類にする、というのは誰にでもできることではありません」
静かに、でもはっきりと言われた。
反論しようとしたけれど、言葉が出てこなかった。
「おーっと!! ここで辺境伯アレクシス卿が登場でございます!! 北方戦争英雄にして現役最年少辺境伯!! 女性人気全国トップクラスの実力者がエルシェイド邸を訪問!! 理由はリリアーヌ嬢への直接確認!! なんとも熱い展開でございます!!」
アレクシス卿が天井を一瞥した。
表情は変わらない。
「……相変わらず、賑やかですね」
「ご存知でしたか、天の声のことは」
「北の砦にも届いていました。昨日の婚約破棄の実況から」
北の砦まで。
本当に全国放送なのだと、改めて実感した。
「リリアーヌ嬢」
「はい」
「今後、何かお力になれることがあれば言ってください。今日はそれだけお伝えしたかった」
「……なぜ」
聞いてから、失礼だったかと思った。
でもアレクシス卿は気分を害した様子もなく、
「あの提案書の恩義です」
とだけ言った。
シンプルで、真っ直ぐな言葉だった。
「女性人気全国トップクラス辺境伯からの申し出、リリアーヌ嬢いかがでしょうか!!」
天の声がよりによってそこで入ってきた。
私の顔が熱くなった。
女性人気とか、そういう話を今しなくていい。
「……ありがとうございます」
なんとか絞り出した返事に、アレクシス卿はわずかに口の端を上げた。
笑ったのだと気づくのに、少し時間がかかった。
その日の夕方、天の声は一日の締めくくりとして短くこう言った。
「本日のミレイア嬢の涙、最終集計は七回でございました!! うち事情聴取中が三回、廊下通過中が二回、夕食中が一回、理由不明が一回でございます!! 明日も引き続きお届けします!!」
七回。
一日で七回。
私は夕食の席で、父と二人で黙って食べた。
父も何も言わなかった。
ただ食事を終える頃に、
「明日も家にいなさい」
とだけ言った。
「はい」
と答えながら、私は窓の外を見た。
夜になっても、通りにはまだ人が残っていた。
天の声の話をしているのだろう。
笑い声が夜風に乗って、かすかに聞こえてくる。
私は明日も恥ずかしい思いをするのだろうか。
きっとそうだ。
もう分かっている。
「……もう少し静かにしてくれればいいのに」
呟いた言葉は、誰にも届かなかった。
天の声も、今夜は黙っていた。
それだけが、わずかな救いだった。




