第十九章 王国最大の公開裁判
夜明け前に、知らせが来た。
執務室の椅子で浅い眠りについていたところを、文官が揺り起こした。
目を開けると、窓の外がまだ暗い。
「リリアーヌ顧問、東部から報告です」
受け取って、眠い目を擦りながら読んだ。
一行目を見た瞬間、眠気が飛んだ。
王弟ヴァルター侯爵、投降。
「投降した……」
「はい。昨夜遅くに、ヴァルナー辺境伯の騎士団に身柄を引き渡したとのことです」
身柄を引き渡した。
終わった。
少なくとも、逃走は終わった。
「おーっとここで!! 速報でございます!! 王弟ヴァルター侯爵、ヴァルナー辺境伯騎士団に投降!! 身柄を確保されました!!」
夜明け前の実況に、外から声が上がった。
眠れずに待っていた人たちがいたのだ。
その声が、夜の静けさの中に広がっていく。
私はしばらく、報告書を手に持ったまま動かなかった。
よかった、という気持ちと、終わったのかという気持ちが混ざり合っている。
「アネット」
「はい、ここにいます」
後ろにいた。
ずっといてくれていたのだ。
「終わったみたい」
「お疲れ様でした」
アネットの声が、少し湿っていた。
アレクシス卿が王都に戻ってきたのは、翌朝だった。
私は王宮の執務室で書類を片付けていた。
廊下に足音が聞こえて、顔を上げると、扉が開いた。
旅装のままのアレクシス卿が立っていた。
埃が少しついていて、疲れている顔をしている。
でも目が、いつもと同じ落ち着きを持っていた。
「戻りました」
「お帰りなさい」
言ってから、また少し顔が熱くなった。
お帰りなさい、というのは自然に出た言葉で、他意はない。
でも改めて言葉にすると、少し距離が近い気がした。
「無事でよかった」
「心配をかけました」
「心配しました。正直に言うと」
アレクシス卿が少し目を細めた。
「おーっとここで!! 辺境伯帰還!! そしてリリアーヌ嬢から心配していたとの発言が!! 全国の皆様、お聞きになりましたでしょうか!!」
「なぜいつも聞いているんですか……!!」
「全部聞こえております!!」
外から笑い声と歓声が上がった。
アレクシス卿が、声を出して笑った。
旅の疲れが残る顔で笑うと、普段より少し柔らかく見える。
「笑わないでください……」
「失礼しました。でも——心配してもらえていたのは、素直に嬉しい」
今度はアレクシス卿がそう言った。
素直に嬉しい、という言い方が、また少し距離を縮めた気がして、余計に顔が熱くなった。
「おーっと!! 辺境伯から素直な発言が!! リリアーヌ嬢の顔が赤い模様でございます!!」
「もうやめてください……!!」
公開裁判は三日後に設定された。
準備のための三日間は、目が回るほど忙しかった。
証人の確認、証拠書類の整理、裁判の進行について王宮法務官との打ち合わせ。
その全てに、私が関わる形になっていた。
裁判は王宮の大広間で行われる。
傍聴席には貴族と代表市民が座り、天の声が全国に中継する。
史上初の、公開裁判だ。
「リリアーヌ顧問、証人台に立つ際の順序を確認させてください」
法務官が書類を広げた。
「はい」
「顧問は三番目に証言を行います。財務書類の差異についての証言と、宰相府との関係についての証言をお願いします」
「分かりました」
「緊張されていますか」
「しています」
「正直ですね」
「嘘をついても仕方がないので」
法務官が苦笑した。
私も苦笑した。
こうして苦笑するのも、すっかり癖になった。
裁判当日の朝は、晴れていた。
着替えながら、今日一日のことを考えた。
証言台に立つ。
全国放送で。
怖いかと言えば、怖い。
でもやるしかない。
父の言葉通りだ。
「リリアーヌ様、今日はお綺麗です」
アネットが言った。
「アネットが選んでくれたドレスだから」
「それはそうですが……いつもより凛として見えます」
「緊張で固まっているだけかもしれない」
「それでも格好いいです」
アネットが真顔で言うので、少し笑えた。
笑えると、少し楽になった。
「おはようございます全国の皆様!! 本日は歴史的な日でございます!! 王国史上初の公開裁判、間もなく開廷でございます!! 全国の皆様、どうぞお見守りください!!」
天の声が、今日はいつもより落ち着いたトーンで始まった。
それがかえって、今日の重さを伝えていた。
大広間は、入った瞬間から空気が違った。
天井が高く、両側に傍聴席が並んでいる。
すでに席は埋まっていて、貴族も市民代表も、全員が静かに前を向いている。
正面に裁判官席。
その手前に証言台。
被告席には、ヴァルター侯爵が座っていた。
初めて見る顔だ。
四十代前半の男性で、温厚そうな顔立ちをしている。
でも目が、温厚ではなかった。
何かを計算し続けている目だ。
私は証人控えの席に座った。
アレクシス卿が隣にいた。
「緊張していますか」
小声で聞いてきた。
「しています」
「私もです」
「卿でも」
「戦場と違う種類の緊張です」
戦場と違う種類。
その言い方が少し可笑しくて、緊張がわずかに和らいだ。
「本日の公開裁判、只今開廷でございます!! 全国の皆様、実況参ります!!」
天の声が宣言した。
大広間が、しんと静まった。
裁判は粛々と進んだ。
最初に法務官が起訴内容を読み上げた。
王国財政横領、聖女候補の偽装工作、王位簒奪計画の企図、王族監査システムへの妨害工作——項目が続く。
一つ一つ読まれるたびに、傍聴席がざわめいた。
「被告、ヴァルター侯爵。起訴内容について、何か申し述べることはありますか」
裁判長が静かに問いかけた。
王弟が立ち上がった。
姿勢は良かった。
それだけは認めざるを得ない。
「私は、王国の将来を案じて動いた。それだけのことだ」
王国の将来を案じた。
その言い方に、傍聴席がざわついた。
「おーっと!! 王弟の第一声!! 王国の将来を案じていたとのご主張でございます!! それでは証拠と照らし合わせてみましょうか!!」
天の声が即座に入ってきた。
王弟の目が、わずかに動いた。
「まず!! 財政横領について!! 王国の将来を案じる人物が、国民の税金を五年間にわたって私的に流用するでしょうか!! 累計二十万枚の金貨!! こちらをご覧ください!!」
大広間の壁に、光の魔法で数字が映し出された。
年度別の横領額の一覧だ。
規則的な数字が、整然と並んでいる。
私のメモと同じ並びだ、と気づいた。
「なお!! この差異を最初に発見し、記録に残していたのはリリアーヌ・エルシェイド嬢でございます!! 嬢の几帳面さが、今日の証拠の柱になっております!!」
また私の名前が出た。
傍聴席が一斉にこちらを向いた。
顔が熱くなるのを感じながら、正面を向き続けた。
証言台に立ったのは、三番目だった。
裁判長から名前を確認され、証言の内容について聞かれた。
財務書類の差異を最初に気づいたのはいつか。
どのように記録したか。
なぜ誰かに伝えなかったのか。
一つ一つ、正直に答えた。
声が震えないよう、ゆっくり話すことだけを意識した。
最後の質問が来た。
「あなたは今回の件を通じて、何を感じましたか」
予定外の質問だった。
少し考えてから、答えた。
「一人に業務が集中する体制が、問題の温床になったと思います。誰かが気づいても、言える場所がなかった。今後はそれを変えていきたいと思っています」
傍聴席が静かになった。
天の声も、珍しく少し間を置いた。
「リリアーヌ嬢の証言、以上でございます!! なお今の言葉!! 全国の皆様、しっかり聞こえましたでしょうか!! 個人の話ではなく、王国の構造の話をされています!! さすがでございます!!」
さすが、と言われると照れる。
証言台から戻るとき、足が少し震えていた。
アレクシス卿が、控えの席で静かに頷いてくれた。
それだけで十分だった。
王弟の弁明は、証拠の前に一つずつ崩れていった。
王国の将来を案じていたと言い続けた。
でも天の声が証拠を提示するたびに、その主張の根拠が消えていく。
財政を意図的に悪化させた記録。
ミレイアへの術式使用の指示書。
宰相への指示内容。
最後の証拠が提示されたとき、王弟は口を閉じた。
長い沈黙があった。
「被告、最後に何か申し述べることはありますか」
裁判長が再び聞いた。
王弟が、ゆっくりと前を向いた。
「……全て、私が指示した」
傍聴席が、どよめいた。
「認めるということですか」
「認める。ただし——私が間違っていたとは思っていない」
最後まで、そういう人だった。
善悪ではなく、自分の論理で動いていた。
だからこそ十年間、続けられた。
「おーっとここで!! 被告の自白でございます!! 全国の皆様、お聞きになりましたでしょうか!! 証拠四十七点に加え、本人の自白!! これ以上の完敗はございません!!」
外から、今日一番の歓声が上がった。
裁判長が裁決を宣言した。
王族の地位剥奪。
王国への財産没収。
終身の謹慎処分。
読み上げられるたびに、傍聴席が静かに聞いていた。
全部終わったとき、大広間が少し静まり返った。
それからゆっくりと、拍手が広がっていった。
「おーっとここで全証拠が提示され裁決が下りました!! 王弟完全敗北でございます!!」
外からの歓声が、大広間の壁を通して届いてきた。
遠いのに、大きな声だった。
「そして本日、改めてご紹介したい人物がいます!! リリアーヌ・エルシェイド嬢!! 今回の件において、最初に不正を発見し記録した人物!! ミレイア嬢の証言を引き出した人物!! 行政顧問として王国の再建を担っている人物!!」
天の声が、続ける。
「この事件を解決に導いた最大の功労者は——几帳面に数字を記録し続けた、一人の侯爵令嬢でございます!!」
傍聴席が、一斉にこちらを向いた。
貴族も、市民代表も。
拍手が起きた。
静かだった大広間に、拍手が広がっていく。
私は立ち上がれなかった。
座ったまま、顔が燃えるように熱かった。
「アレクシス卿……立った方がいいですか」
小声で聞いた。
「立ちましょう」
促されて、立ち上がった。
傍聴席の視線が全部こちらに向いている。
外からも歓声が聞こえてくる。
消えたい、という気持ちが最大値になった。
でも消えられない。
だから立っていた。
「全国の皆様から大きな反応が届いております!! リリアーヌ嬢、本日も顔が赤い模様でございます!!」
「今だけは黙っていてほしかった……!!」
「大変申し訳ございません!! でも全国の皆様が気にしておりますので!!」
傍聴席からくすくすと笑い声が起きた。
裁判の重い空気が、少しだけ和らいだ。
アレクシス卿が隣で、静かに笑っていた。
大広間を出ると、廊下が人でいっぱいだった。
文官たちが頭を下げてくれる。
騎士が礼をしてくれる。
傍聴していた貴族が声をかけてくれる。
全部ありがたかった。
全部恥ずかしかった。
廊下の窓から外を見ると、王都の街が見えた。
人々が空に向かって何かを叫んでいる。
天の声への反応だろう。
裁判の結果を聞いて、今日は祭りのような夜になるかもしれない。
「リリアーヌ嬢」
アレクシス卿が後ろから来た。
「はい」
「今日の証言、よかったと思います」
「……震えていましたが」
「震えていても、正直に話せた。それでいい」
「正直に話すのは得意なので」
「それが一番の強みだと思います」
また、真っ直ぐに言う。
顔が熱くなるのを感じながら、窓の外を見た。
「おーっとここで!! 辺境伯からリリアーヌ嬢への言葉が!! 全国の皆様、引き続き注目でございます!!」
「注目しないでください……!!」
「全国注目中でございます!!」
廊下から笑い声が上がった。
今日は本当に、ずっと恥ずかしい一日だった。
でも全部終わった。
王弟の裁判が終わった。
夕方、父と短く話した。
「よくやった」
父がそれだけ言った。
いつもの言葉だったけれど、今日は少し音が違った気がした。
「ありがとうございます」
「あとは新しい王国をどう作るかだ」
「そうですね」
「お前の仕事は、まだ続く」
「分かっています」
でも今日くらいは、ゆっくりしたい。
そう思いながら、夜の王宮の廊下を歩いた。
「本日の天の声、これにて終了でございます!! 本日の一言まとめ!! 史上初の公開裁判、王弟完全敗北、リリアーヌ嬢の証言!! 歴史に残る一日でございました!!」
「なお明日以降も、王国の再建に関する続報をお届けします!! 全国の皆様、もう少しだけお付き合いください!!」
もう少しだけ。
その言葉を聞きながら、今夜はよく眠れそうだと思った。
アネットがシチューを作ってくれているはずだ。
野菜がたくさん入った、温かいシチュー。
今夜はそれを食べて、眠る。
それだけでいい。
廊下の窓から、夜空が見えた。
星が出ていた。
今夜の星は、いつもより少し明るく見えた。




