最終章 本日のMVP
王弟の裁判から、三週間が経った。
王都は少しずつ、落ち着きを取り戻しつつある。
市場の声が戻ってきた。
通りを歩く人の足が、以前より軽い。
あの緊張した空気は、もうない。
でも王国の仕事は、全然終わっていなかった。
むしろ裁判が終わってからの方が、書類の量が増えた。
王弟の資産の処理、宰相府の再建、地方行政の監査体制の整備、横領された税収の一部を国民に還元する計画。
全部が同時に動いている。
「リリアーヌ様、今日も量が多いですね」
アネットが朝食を運びながら、机の上の書類を見て言った。
「増える一方だった。でも今日で一区切りつくはず」
「今日は式典がありますね」
「そう。それが終わったら、少し休もうと思っている」
「少し、というのが気になりますが」
「少しでも休めれば十分」
アネットが苦笑した。
私も苦笑した。
「おはようございます全国の皆様!! 本日も天の声、参ります!! 本日は王国にとって重要な式典の日でございます!! 新たな王国体制が正式に発表されます!!」
新たな王国体制。
今日の式典では、国王陛下が今後の王国運営について正式な発表を行う。
廃嫡となった殿下に代わる後継者の問題と、行政の再建計画が中心だ。
私も出席を求められている。
また全国の前に出なければならない。
朝から少し憂鬱だった。
式典は午後に行われた。
王宮の正殿に、貴族と重臣が集まった。
国王陛下が玉座に座り、静かに場を見渡した。
今日の陛下は、いつもより表情が穏やかだった。
この三週間、陛下にとっても大変な日々だったはずだ。
弟が謀反を企てていたと知ったとき、どれほど辛かったか。
「本日は皆に報告がある」
陛下の声が正殿に響いた。
「まず王国の財政再建について。行政顧問リリアーヌ・エルシェイドの指揮のもと、立て直しの計画が整った。来年度から正式に実施する」
私の名前が出た。
正殿の視線がこちらに向く。
もう慣れた、と思いたいけれど、まだ慣れていない。
「次に後継者について。ユリウスに代わる王太子を、来月正式に発表する。それまでは余が直接政務を執る」
正殿がざわめいた。
後継者の発表は別の機会になるらしい。
今日はその予告だけだ。
「そして——」
陛下が少し間を置いた。
「リリアーヌ・エルシェイドに、改めて正式な感謝を述べたい」
正殿が静まり返った。
「お前の仕事が、この王国を支えていた。婚約者という名目の下で、五年間。それを余は知らなかった。知らなかったことを、恥じる」
「おーっとここで!! 国王陛下直々の御言葉でございます!! 全国の皆様、お聞きになりましたでしょうか!!」
天の声が、今日は少し静かなトーンで入ってきた。
正殿の重みを、わきまえているらしい。
私は頭を下げた。
何を言えばいいか分からなかったので、ただ頭を下げた。
顔が熱かった。
でも今日は、それでいいと思った。
式典が終わって、廊下を歩いていると、重臣の一人に呼び止められた。
「リリアーヌ顧問、少しよろしいですか」
「何でしょう」
「今後の顧問職についてですが、今の体制をさらに拡充する話が出ています。顧問の権限を広げて、正式な閣僚に近い立場にしたいという意見がありまして」
閣僚に近い立場。
それはつまり、今よりさらに仕事が増えるということだ。
「……少し待ってください」
「え?」
「今日で一段落するはずだったんです。少し休ませてもらえませんか」
重臣が困った顔をした。
「それはもちろん休んでいただいて構わないのですが、拡充の件は前向きに」
「その件は、休んでから考えます」
「はあ……」
「というか正直に言うと——もう少し、働きたくありません」
言い切った。
重臣が目を丸くした。
廊下にいた文官たちも、一斉に振り向いた。
「もう働きたくない、というのは」
「休みたいということです。この三週間、ずっと動いていたので」
「それは……もっともなのですが」
「しかし休ませてもらえない模様ーー!!」
天の声が入ってきた。
「なぜ分かるんですか……!!」
「全部見えております!!」
「今の発言もですか」
「もちろんでございます!! リリアーヌ嬢が『もう働きたくありません』と宣言しました!! 全国の皆様、聞こえましたでしょうか!!」
外から笑い声が上がった。
重臣が苦笑している。
「顧問、今の発言は全国に……」
「聞こえていたんですね、やはり」
「もう少しだけお願いします。本当にもう少しだけ」
「……分かりました。でも絶対に休みは取ります」
「もちろんです!」
そういう話になってしまった。
結局休めない。
天の声の言う通りだった。
夕方、式典後の片付けを終えて、中庭に出た。
久しぶりに、一人で外の空気を吸いたかった。
中庭には誰もいない。
緑が夕日に照らされて、橙色に染まっている。
今日も色々あった。
でも確実に、何かが片付いた気がする。
「リリアーヌ嬢」
後ろから声がかかった。
アレクシス卿だった。
「いつからいたんですか」
「今来ました。探していました」
「探していた」
「式典の後、姿が見えなくなったので」
「少し外の空気を吸いたくて」
アレクシス卿が隣に来た。
二人で夕暮れの中庭を見た。
しばらく、沈黙があった。
でも不思議と、居心地が悪くない沈黙だった。
「リリアーヌ嬢」
「はい」
「この件が片付いたら改めて聞く、と言っていたことがあります」
思い出した。
あの日、執務室で言われた言葉だ。
今は聞くべきではない、と言って先延ばしにされた何かがあった。
「何を聞くつもりでしたか」
アレクシス卿が、正面を向いたまま少し間を置いた。
「この件が全部片付いた後、リリアーヌ嬢の隣にいてもいいですか」
夕暮れの中庭に、その言葉が落ちた。
私は、しばらく何も言えなかった。
隣にいてもいいか。
その言葉の意味を、ゆっくりと頭の中で確かめた。
「それは……どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
「そのままの意味というのは」
「婚約者として、という意味です」
中庭が静まり返った。
いや、静まり返ったのは私の頭の中かもしれない。
顔が、一瞬で熱くなった。
耳まで熱い。
「ここでハッピーエンド突入でーーす!!」
天の声が、最大級のテンションで叫んだ。
外から、爆発するような歓声が上がった。
今まで聞いた中で、一番大きな声だった。
笑い声と、黄色い声と、応援の声が混ざり合って、王都全体が沸いているようだった。
「今だけは黙っていてほしかった……!!」
私が言うと、
「大変申し訳ございません!! でも全国の皆様が待っておりましたので!!」
「全国が待っていたんですか」
「待っておりました!! 非常に!!」
「おーっとリリアーヌ嬢の顔、今日一番赤い模様でございます!!」
「見ないでください……!!」
アレクシス卿が、声を出して笑った。
こんなに笑うのを見るのは、珍しかった。
「答えを聞かせてもらえますか」
笑いながら、でも真剣な目で聞いてきた。
私は中庭の緑を見た。
夕日が当たって、きれいだった。
婚約者として、と言った。
隣にいてもいいか、と言った。
怖いかと言えば、少し怖い。
でも嫌かと言えば、全然違う。
この三週間、何度も支えてもらった。
何度も正直に話してもらった。
何度も断言してもらった。
その全部が、今の私の一部になっている。
「……はい」
小さく言った。
「はい、いてもいいということですか」
「そうです」
アレクシス卿が、口の端を上げた。
いつもの笑い方だったけれど、今日は少し違う種類の笑いに見えた。
「おーっとここで!! リリアーヌ嬢から承諾の返事が!! 全国の皆様!!!!」
天の声が、今まで聞いた中で最もテンションの高い声を出した。
外からの歓声が、さらに大きくなった。
王都中が沸いている。
夕暮れの空に、その声が響き渡っていく。
私は顔を覆いたかったけれど、今日だけは我慢した。
「おーっとここで!! 本日の天の声、締めくくりでございます!!」
天の声のトーンが、少しだけ落ち着いた。
でも明るさは変わらない。
「本日のMVP!!」
外が静まった。
全国が聞いている。
「苦労人令嬢リリアーヌーーーッ!!」
どっと歓声が上がった。
王都だけじゃない。
きっと全国のどこかでも、今同じ声が上がっている。
「几帳面にメモを取り続けた令嬢が、気づけば王国を救っていた!! 本人は恥ずかしがり続けたが!! それも含めて最高でございます!!」
「最後にそれを言うんですか……!!」
「言います!!」
外からまた大きな笑い声が上がった。
アレクシス卿がまた笑った。
今日は本当によく笑う人だ。
私は中庭に立って、夕暮れの空を見上げた。
これで、全部終わった。
王弟は裁判で裁かれた。
宰相と共犯者も捕まった。
ミレイアは神殿へ向かった。
殿下は謹慎中だ。
本物の聖女候補は神殿で保護されている。
王国の財政再建が始まった。
全部、終わった。
「ありがとうございます!! 全国の皆様の応援があってこそでございます!! それでは——天の声、本日をもちまして当面の実況を終了いたします!! 王国が平和で安定した日々を取り戻したとき、このシステムが起動することがないよう、心から祈っております!!」
「またいつか起動されそうな気がしますが!!」
思わず言ったら、
「起動しないことを願っておりますが——もし起動するような事態があれば、またお付き合いください!! それでは!!」
どこかへ消えていくような、最後の言葉だった。
外から、温かい拍手が聞こえてきた。
天の声への、送り出す拍手だ。
中庭が静かになった。
本当に静かになった。
あの始まりの夜から、ずっと聞こえていた声が、今はない。
不思議な感覚だった。
うるさいと思っていたのに、なくなると少し寂しいような気がする。
少しだけ。
「静かですね」
アレクシス卿が言った。
「そうですね」
「どうですか」
「……少し、寂しいかもしれない」
「私も」
二人で、しばらく静かな中庭を見ていた。
夕日が沈んでいく。
夜が来る。
でも今夜は、怖い夜じゃない。
「リリアーヌ嬢」
「はい」
「今夜、夕食をご一緒していただけますか。ゆっくり話したいことがある」
「……はい」
顔が、また熱くなった。
でも今日は何度熱くなっても仕方がないと、半ば諦めていた。
屋敷に帰ったら、アネットに話さなければならない。
アネットはきっと、驚いた顔をするだろう。
それとも、知っていたような顔をするだろうか。
あの侍女のことだから、知っていた顔をしそうだ。
中庭を出て、廊下を歩いた。
王宮の廊下は夕暮れの光で橙色に染まっている。
静かで、きれいだった。
あの夜、婚約破棄を宣言されたときから始まったことが、ここまで来た。
全国放送されて、恥ずかしくて、でも全部終わって。
そしてまた、新しい何かが始まろうとしている。
廊下の窓から、王都が見えた。
夕暮れの街に、灯りが一つ一つ点り始めている。
「もう二度と実況されたくない……」
思わず、声に出た。
「おーっとここで!! 最後の最後にリリアーヌ嬢から本音が届きました!! お気持ちはよく分かります!! でもとても素敵な一言でした!! ありがとうございました!!」
「まだいたんですか……!!」
「少しだけお名残惜しくて!! では今度こそ!! ごきげんよう全国の皆様!!」
今度こそ、天の声は静かになった。
廊下に、夕暮れの光だけが残った。
アレクシス卿が隣で、肩を震わせている。
笑っているのだ。
「笑わないでください」
「失礼しました」
「全然反省していない顔をしています」
「していません」
「正直な人ですね」
「あなたに言われると説得力があります」
今度は私が笑いそうになった。
笑いながら、廊下を歩いた。
隣に、アレクシス卿がいる。
外には、夜が来る。
王都の灯りが、街を温かく照らしている。
全部終わって、全部始まる。
そういう夕暮れだった。
終幕




