第十六章 辺境伯登場
朝、目が覚めたら本が顔の上に乗っていた。
途中で眠ってしまったらしい。
ランプは消えていて、夜明けの光が窓から差し込んでいる。
アネットが消してくれたのだろう。
体を起こして、外を見た。
護衛騎士が屋敷の前に立っているのが見える。
夜通し立っていたのか。
頭が下がった。
着替えながら、昨日のことを思い返した。
王弟が行方不明。
護衛が強化された。
ミレイアが王宮を去った。
一日でこれだけのことが起きて、よく眠れたものだと自分でも思う。
本の効果か、疲れ果てていたせいか。
おそらく両方だ。
「リリアーヌ様、今日は顔色がいいですね」
アネットが朝食を運びながら言った。
「昨夜よく眠れた」
「本が顔に乗っていましたが」
「最後まで読もうとしたのに、無理だった」
「それくらいが丁度よかったのかもしれませんね」
そうかもしれない、と思いながら朝食に手をつけた。
「おはようございます全国の皆様!! 本日も天の声、参ります!! 王弟ヴァルター侯爵の行方、昨夜から引き続き捜索中でございます!! 全国の皆様からの情報提供をお待ちしております!!」
王弟の捜索はまだ続いている。
一夜明けても、見つかっていないということだ。
少し胃が重くなった。
「リリアーヌ様、今日は大丈夫ですか」
アネットが心配そうに言った。
「大丈夫。でも早く王宮に行きたい」
「なぜですか」
「屋敷にいると、考える時間が長くなる。動いている方が落ち着く」
アネットが少し驚いた顔をした。
「そういうお方だとは思っていましたが、改めて聞くと逞しいですね」
「逞しいというか、じっとしているのが苦手なだけで」
王宮に着いた。
護衛騎士が一人後ろについているのは、少し気恥ずかしかったけれど仕方がない。
執務室に向かうと、廊下が昨日より賑やかだった。
文官たちが早足で行き来していて、誰かが誰かに何かを伝えている声がする。
「何かありましたか」
すれ違った文官に声をかけると、
「アレクシス卿が国王陛下に謁見を求めたとのことで、急遽——」
「謁見を」
「はい。今朝早くに申し入れがあったそうです」
アレクシス卿が国王陛下に謁見を求めた。
それはかなり大きな動きだ。
辺境伯が国王陛下に直接話を通すというのは、通常の手続きを飛ばすことを意味する。
急いで執務室に向かった。
執務室に入ると、アレクシス卿はいなかった。
謁見中なのだろう。
しばらく書類を確認して待っていると、一時間ほどして戻ってきた。
「謁見していたんですね」
「はい。王弟の件で、直接話す必要がありました」
「どんな話をしたんですか」
アレクシス卿が椅子に座って、少し間を置いた。
「王弟を捕らえるための権限を正式に求めました」
「権限」
「辺境伯として持つ騎士団を、この件に投入する許可です。王宮騎士団だけでは人手が足りない」
「許可が出ましたか」
「出ました」
それはつまり——アレクシス卿が直接、この件を動かすということだ。
今まで参考人や助言者として動いていたのが、今日から立場が変わった。
「おーっとここで!! 緊急速報でございます!!」
天の声が突然、いつもより興奮したトーンで入ってきた。
「ヴァルナー辺境伯アレクシス卿が国王陛下より正式に王弟捜索の全権を委任されました!! 全権でございます!! 北方戦争を終結させた戦争英雄が、ここに本格参戦!!」
本格参戦、という言い方が妙に躍動的だった。
「ヴァルナー辺境伯といえば!! 二十八歳!! 長身!! 北方の英雄!! 女性人気全国トップクラス!! 今回の件で初めてその活躍を知った方も多いと思いますが——ここで改めてご紹介いたします!!」
「改めて紹介しなくていいです……」
アレクシス卿が静かに言った。
私も同感だった。
「いえ!! ご紹介いたします!! アレクシス・ヴァルナー卿!! 王国史上最年少で辺境伯に就任!! 北方国境紛争を最小限の犠牲で終結!! 地元領民の信頼は絶大!! そして今回、リリアーヌ嬢の窮地に颯爽と現れた騎士役!! まさにSSRでございます!!」
外から、黄色い声が上がった。
女性の声が多い。
王都の女性たちが、朝から天の声に反応している。
アレクシス卿が無表情のまま天井を見上げていた。
表情は変わっていない。
でも耳が、わずかに赤かった。
「リリアーヌ嬢の窮地に現れた騎士役、というのはやめてください」
「なぜでございますか!! 事実でございます!!」
「事実でも言い方というものがある」
「失礼いたしました!! ではリリアーヌ嬢の窮地に颯爽と現れた完璧な護り人、と訂正いたします!!」
「悪化している」
アレクシス卿が珍しく、はっきりと言った。
私は顔が熱くなっていくのを感じていた。
護り人、という言い方が、じわじわと恥ずかしさとして広がってくる。
「なお!! 当のリリアーヌ嬢、現在顔が赤い模様でございます!!」
「見ないでください……!!」
「全国放送でございます!!」
分かっている。
分かっているけれど、そういうことを言われると余計に赤くなる。
外からまた笑い声が上がった。
女性の声が多い。
私への笑いか、アレクシス卿への反応か、両方が混ざっているようだった。
「SSR登場に全国が沸いております!!」
「もうやめてください……」
私とアレクシス卿が同時に言った。
声が揃ってしまって、お互い少し気まずくなった。
午前中の後半、アレクシス卿が本格的に動き始めた。
騎士団への指示を出し、各地の詰め所に連絡を入れ、王都内の主要な出口に人員を配置する。
手際が良かった。
迷いがない。
指示が短くて明確だ。
私はその傍らで、今日の執務を続けた。
止まっている行政案件は山積みで、アレクシス卿が動いている間も、書類は待ってくれない。
「リリアーヌ嬢」
指示を一通り終えたアレクシス卿が、私の机の傍に来た。
「はい」
「少し、聞いてもいいですか」
「何ですか」
「この件が片付いたら、どうするつもりですか」
「この件、というのは王弟の件ですか」
「全部片付いた後のことです」
全部片付いた後。
その言葉を頭の中で転がした。
「顧問として仕事を続けます。条件が通りましたから」
「それ以外に何かありますか」
「それ以外、というのは」
アレクシス卿が少し間を置いた。
何かを選んで言おうとしているような間だった。
「今は聞くべきではないですね」
「え」
「この件が片付いたときに、改めて聞きます」
何を聞こうとしていたのか、よく分からなかった。
でも聞き返す前に、アレクシス卿が書類に視線を戻したので、そのままになった。
「おーっと!! ここで意味深な会話が展開されました!! 全国の皆様、お気づきでしょうか!!」
「気づかなくていいです……!!」
「気になりますよ全国の皆様も!!」
「気にしないでください……!!」
外から、くすくすと笑い声が聞こえた。
アレクシス卿は書類を見たまま、何も言わなかった。
その沈黙が、また少し恥ずかしかった。
午後になって、王弟の動向に進展があった。
王都から東に向かう街道で、王弟の馬車に似た一行が目撃されたという報告が入ってきた。
「東か」
アレクシス卿が静かに言った。
「東に何があるんですか」
「東部三州です」
東部三州。
横領で差異が出ていた地域だ。
王弟の息がかかった地域だということは、すでに分かっていた。
「逃げているのか、それとも何かをしに行ったのか」
「後者の可能性があります」
「何かをしに」
「東部三州には、王弟の影響下にある地方貴族が複数います。そこで人を集めて、反撃を試みるかもしれない」
反撃。
追い詰められた人間が、最後に力で押し返そうとする。
それが一番怖い展開だと思った。
「おーっと!! 重大情報でございます!! 王弟ヴァルター侯爵の馬車と思われる一行が、東街道を進んでいることが確認されました!! ヴァルナー辺境伯の騎士団が追跡を開始しております!!」
外から、緊張した空気が伝わってきた。
笑い声ではない。
今度は本当に、国民が固唾を呑んで聞いている気配だ。
「私はここに残りますか、それとも」
アレクシス卿に聞いた。
「残ってください。王都での行政を止めるわけにはいかない」
「分かりました」
「ただ——」
アレクシス卿が、珍しく少し言い淀んだ。
「何ですか」
「安全には十分気をつけてください。護衛をよく使ってください」
「はい」
「食事も抜かないでください」
「……それは少し細かくないですか」
「細かくないです。無理をしがちな人に言っています」
無理をしがちな人。
私のことだろう。
自覚はある。
「気をつけます」
「信じていいですか」
「半分くらいは」
アレクシス卿が、口の端を少し上げた。
「正直なところが評価できます」
「おーっとここで!! 辺境伯から直接心配されるリリアーヌ嬢!! 全国の皆様いかがでしょうか!!」
「もう実況しないでほしい……!!」
「全国の皆様は大変気にしているようです!!」
外から、また笑い声と黄色い声が混ざった音が上がった。
私は書類で顔を隠した。
紙の裏から、アレクシス卿の苦笑する気配がした。
夕方、アレクシス卿が王都を発つ前に、玄関先で少しだけ話した。
馬が用意されていて、騎士団の面々が整列している。
それを見ると、話が現実になった気がした。
「気をつけてください」
私が言うと、アレクシス卿が少し驚いたような顔をした。
私からそう言うのは、初めてだったかもしれない。
「はい」
「片付いたら戻ってきてください」
「戻ります」
「約束できますか」
少し間があった。
「できます」
断言だった。
いつも断言する人だ。
でも今日の断言は、いつもより少し重かった。
「おーっとここで!! 辺境伯出陣前の別れのシーンでございます!! 全国の皆様、固唾を呑んでお見守りください!!」
「見守らなくていいです……!!」
アレクシス卿が馬に乗った。
高い位置から見下ろして、
「行ってきます」
と言った。
「行ってらっしゃい」
馬が動き出した。
騎士団が続く。
夕暮れの街道を、一行が進んでいく。
私は門の前で、その背中が見えなくなるまで見ていた。
「リリアーヌ様」
アネットがそっと傍に来た。
「うん」
「大丈夫ですか」
「大丈夫。でも——少し、心配だな」
正直に言えた。
アネットが小さく頷いた。
「本日の天の声、これにて終了でございます!! 本日の一言まとめ!! SSR辺境伯、全権委任を受けて出陣!! 王弟追跡、いよいよ本格化でございます!!」
「なお出陣前のやり取りについて、全国から大変温かい反応が届いております!! 詳細は伏せますが!!」
「詳細が気になるので言わないでほしいです……!!」
「賢明な判断でございます!!」
外から笑い声が上がった。
夕暮れの中に笑い声が響いて、どこか和やかな夜の始まりだった。
屋敷に戻って、夕食を父と食べながら今日のことを話した。
アレクシス卿が出陣したこと、東街道で王弟の一行が目撃されたこと。
父は黙って聞いていた。
「アレクシス卿は信頼できる人物だ」
食後に父が言った。
「私もそう思っています」
「どのくらい信頼しているんだ」
「……かなり」
父が珍しく、少し柔らかい顔をした。
何も言わなかった。
でも何かを思っているのは分かった。
「お父様、何か言いたいことがあるなら言ってください」
「特にない」
「絶対あります」
「特にない」
父はそれ以上言わなかった。
でも口元が、わずかに緩んでいた気がした。
自室に戻って、窓の外を見た。
夜空に星が出ている。
東の方角を見た。
アレクシス卿はもう、街道を進んでいるだろう。
早く帰ってきてほしい、と思った。
思ってから、少し顔が熱くなった。
天の声は今夜は黙っていた。
聞こえていなかっただけかもしれないけれど。
「早く片付くといいな……」
誰にも聞こえない声で、窓に向かって呟いた。
星が、静かに瞬いていた。




