第十一章 聖女の違和感
王国行政顧問という肩書きが、まだ実感を持って体に馴染んでいない。
就任が決まってから三日が経つ。
父から書類が届き、王宮からの使者が挨拶に来て、アレクシス卿から引継ぎの説明を受けた。
一つ一つこなしていく中で、少しずつ形になっていく感覚はある。
でも鏡を見ても、見た目は何も変わっていない。
地味な侯爵令嬢がそこにいるだけだ。
「リリアーヌ様、今日はご出仕の日ですね」
アネットが声をかけた。
「うん。初めて王宮に顔を出す」
「緊張していますか」
「している」
「顔に出ていませんが」
「内側でしている」
アネットが苦笑した。
私も苦笑した。
緊張はしている。
でも怖いとは少し違う。
新しい場所に足を踏み入れる前の、あの独特の重さだ。
着替えをしながら、今日の予定を頭の中で整理した。
午前中に王宮の執務室に挨拶に行って、午後から業務の引継ぎ資料を確認する。
最初の仕事はまず、現状把握だ。
何がどこまで進んでいて、何が止まっているのかを整理する。
それだけで今日は終わるだろう。
「おはようございます全国の皆様!! 本日も天の声、参ります!! 本日よりリリアーヌ嬢が王国行政顧問として初出仕でございます!! 歴史的な初日!! どうかお見守りください!!」
「実況しなくていいです……」
「大変申し訳ございません!! でも気になりますので!!」
毎回同じやり取りになっている気がする。
分かっているけれど、言わずにはいられない。
馬車で王宮に向かった。
窓から外を見ると、街はいつもより少し賑やかだった。
天の声の発表が続いたおかげで、王都全体がまだ何かを期待している空気がある。
王宮の門をくぐるのは、婚約破棄の夜以来だった。
あの夜とは全然違う立場で、全然違う形で戻ってきた。
門番の騎士が私を見て、少し驚いた顔をしたあと、
「お帰りなさいませ、顧問閣下」
と言った。
「……閣下はやめてください」
「では何とお呼びすれば」
「リリアーヌ嬢で十分です」
騎士が少し苦笑した。
閣下呼びは想像していなかった。
今後ずっとこれが続くのかと思うと、やや憂鬱だ。
執務室に入ると、すでに数名の文官が待っていた。
顔ぶれを見渡すと、何人かは見覚えがある。
以前、書類のやり取りをしたことがある人たちだ。
「お待ちしておりました、リリアーヌ顧問」
主席文官らしき男性が頭を下げた。
「よろしくお願いします。まず現状を教えてください。止まっている案件から」
「はい。実は——かなりの数になっています」
「分かっていました。見せてください」
文官が持ってきた書類の束を受け取った。
重い。
物理的にも、内容的にも。
でも不思議と、怖くなかった。
むしろ手の中に書類があると、落ち着く気持ちがある。
これが私の場所なのだと、改めて感じた。
午前中はひたすら書類を読んだ。
止まっている案件の多さに眩暈がしそうだったけれど、一つずつ整理していけば必ず形になる。
焦らなくていい。
宰相が捕まってから日が浅い。
全部を一日で解決しようとするのが間違いだ。
「リリアーヌ顧問、少しよろしいですか」
若い文官が声をかけてきた。
「何ですか」
「聖女候補ミレイア嬢の件なのですが」
その名前に、手が止まった。
「ミレイアさんの件?」
「はい。婚約破棄の件が落ち着いてから、ミレイア嬢の処遇について明確な決定が出ていないままで」
そういえば、そうだった。
宰相の件、殿下の廃嫡と続いて、ミレイアの話題が後回しになっていた。
彼女は今も王宮内にいるのか。
「今もいるんですか、王宮に」
「はい。第三居室に滞在されています」
「……処遇が決まるまで、動けないということか」
「そうです。神殿との協議も必要で、なかなか話が進まず」
神殿との協議。
そうだ、ミレイアは聖女候補として王宮に招かれた。
その手続きを殿下が省略したせいで、神殿がまだ納得していない。
「分かりました。その件も把握しておきます」
午後、アレクシス卿が執務室に来た。
今日の引継ぎ説明のためだ。
二人で並んで資料を確認していると、外から声が聞こえた。
廊下を歩く人の声だ。
複数人が何かを話しながら通り過ぎていく。
「ミレイア様が今朝も泣いておられたとか」
「また? 何がお辛いのかしら」
「殿下のことじゃないですか。廃嫡になってしまったから」
声が遠ざかっていった。
アレクシス卿と目が合った。
「ミレイア嬢の件、聞きましたか」
「聞きました。処遇が決まっていないんですね」
「神殿側の主張が強くて、簡単には進まない。嬢が本物の聖女かどうかの検証が必要だという意見もある」
「検証というのは」
「光属性の魔力があることは確認されているそうです。ただ、聖女としての能力がそれだけかどうか」
「それだけかどうか、というのは」
「聖女には治癒能力があるとされています。ただ、ミレイア嬢がその能力を実際に使った記録がないとのことで」
ない。
その言葉が、小さな違和感として引っかかった。
王宮に三ヶ月いて、治癒能力を一度も使っていない。
それはおかしくないか。
「王宮には病人や怪我人が来ることもあるはずで」
「そうです。ただ、ミレイア嬢はそういった場面でいつも席を外しているとのことで」
「席を外している」
「体調が優れないとか、光の加護の修行中とか、理由は毎回違うようですが」
毎回違う理由で、毎回席を外す。
その規則性が、何かを語っている気がした。
「アレクシス卿、ミレイアさんに会ったことはありますか」
「一度だけ、正式な場で。印象は——明るい方だと思いました」
「悪い印象ではなかった」
「ありませんでした。ただ」
「ただ?」
「私は人を見るとき、笑い方を見る癖があって」
「笑い方」
「目が笑っているかどうか。ミレイア嬢は口元は笑っていましたが、目が——少し違っていた」
その言葉に、私は黙った。
人の笑い方を見る、とはアレクシス卿らしい観察だと思った。
戦場で人を見てきた人間の目だ。
「リリアーヌ嬢はどう思いますか、ミレイア嬢を」
「正直に言うと——会った回数が少なすぎて、よく分からない。でも天の声が言っていた四十四回の涙は引っかかっている」
「どう引っかかるんですか」
「泣くことが目的になっている人と、感情で泣く人は違う。あの数字は、少し多すぎる気がして」
アレクシス卿が静かに頷いた。
「同じことを私も思っていました」
夕方近くになって、少し休憩を取ろうと廊下に出た。
王宮の廊下は広くて、今は人通りが少ない。
宰相府関係者が大量に拘束されたせいで、廊下を歩く人の数も減っている。
廊下の突き当たりまで歩いて、窓の外を見た。
王宮の庭が見える。
手入れの行き届いた庭で、今の季節は緑が濃い。
その庭に、一人の人影があった。
ミレイアだと、すぐに分かった。
砂糖菓子みたいな笑顔の、あの少女。
庭のベンチに座って、空を見上げている。
誰もいない庭で、一人で何かを考えているようだった。
私は動かずに見ていた。
遠目でも、彼女の表情が普段と違うことは分かった。
泣いてもいない。
笑ってもいない。
ただ、じっと空を見ている。
あの表情が、本当の顔なのかもしれないと思った。
「リリアーヌ顧問」
後ろから声がかかった。
若い文官だった。
「次の書類のご確認をお願いしたいのですが」
「はい、今行きます」
窓から離れた。
庭の方をもう一度だけ振り返った。
ミレイアはまだ空を見ていた。
何かが引っかかる。
でも何が引っかかっているのか、まだ言葉にできない。
違和感だけが、胸の中に小さく残った。
帰りの馬車の中でアネットに今日のことを話した。
「ミレイアさんを見た」
「どうでしたか」
「いつもと違う顔をしていた。誰も見ていないところで」
「どんな顔ですか」
「……疲れた顔。でも、少し安心しているような顔でもあった」
アネットが少し考えてから、
「誰かを演じていた人が、演じるのをやめた顔、みたいな」
と言った。
「そう、それに近い」
馬車が揺れた。
窓の外に、夕暮れの街が流れていく。
ミレイアが誰かを演じているとすれば、その相手は誰なのか。
演じている目的は何なのか。
「おーっとここで顧問リリアーヌ嬢が重要な観察をされた模様!! 詳細は後日お伝えできるかもしれません!! 乞うご期待でございます!!」
「推測の段階なんですが……!!」
「推測も大事でございます!!」
馬車の中で天の声に言い返しているのが、なんとも間抜けな状況だと思った。
アネットが肩を震わせた。
私も少し笑いながら、窓の外に目を戻した。
屋敷に戻ると、父が珍しく早く帰っていた。
夕食を父とアネットも交えて食べながら、今日の話をした。
父は黙って聞いていた。
食後に、父が言った。
「ミレイアの件は慎重に動きなさい」
「まだ推測です」
「だから慎重に、と言っている。確証のないことで動くと、お前が傷つく」
「はい」
「ただ——お前の勘は、今まで当たってきた」
父がそれだけ言って立ち上がった。
いつもの短い言葉だったけれど、今夜の言葉は少し違う重みがあった。
「天の声、今夜は何か言う気がしますね」
アネットが呟いた。
「どうして」
「今日は一日、静かすぎましたから」
確かに、今日は実況が少なかった。
朝の挨拶と、馬車の中での一言くらいで、あとはずっと沈黙していた。
何かを溜めているのだろうか。
「全国の皆様、本日もお疲れ様でございました!! 明日は少々、驚く情報をお届けできそうでございます!! どうぞお楽しみに!!」
天の声が唐突に締めくくりを言った。
「少々、驚く情報……」
「楽しみなような、怖いような」
アネットが正直に言った。
私も同じ気持ちだった。
明日、何が来るのか。
ミレイアに関係することかもしれない。
違うことかもしれない。
どちらにせよ、私は明日も顧問として王宮に行く。
書類と向き合って、違和感の正体を少しずつ確かめていく。
それだけのことだ、と自分に言い聞かせながら、夜の廊下を歩いた。
静かな夜だった。
でも静けさの奥に、何かが動き始めている予感が、確かにあった。




