第八十七話:守りたいこの命モード
どうして私は、『観測者』や『社長』たちのように、コンプレックスや弱点、短所を外在化できないんだろう。
『脳内外在化メンバー』は、一人ひとりちゃんと顔があって、声があって、性格(機能)がある。でも、コンプレックスたちになると急に輪郭がぼやける。
唯一、人の姿になったのは『被害妄想』くらいだった。あの子だけは、高さ九十センチくらいの赤い小鬼の姿をしている。ちょっと、歯がギザギザしてる。目はギョロッとしていて髪は逆立ったトウモロコシの髭みたいに根本は黄色っぽくて先が茶色くなる。
初めて外在化した時は服がボロボロだった、でも赤ちゃんの匂いがした。『観測者』が服を用意して半袖短パンで過ごしている、靴下が嫌いで裸足が楽で、あれ?甚平と下駄なら着こなしそう。……あ、これ天狗だ。地域宗教観が無意識に混ざってた。
よく考えたら、『被害妄想』は一人じゃなかった。あの子は、もっと小さな子たちをぎゅっと抱きしめた、親玉みたいな存在だった。その下にいる子たちが見えなかった。改めて見ようとすると、もっと小さい。
人の形すらしていないカラーボールくらいの大きさ。いや、それよりも曖昧かも。ふわふわと漂う、人魂みたいなもの。煙みたいでもあるし、思念みたいでもある。
「あ、いるな」と思って目を凝らすと、逆に見えなくなる。そんな頼りない存在だった。だから私は、ずっと掴めなかったのかもしれない。でも、小鬼を擬人化して、内なる声や被害妄想の声を加工して見るようになったら複数いるなとなった。
……この子たち、赤子?いや、それよりももっと幼い。
まだ言葉にもならない。
怖い。
寂しい。
助けて。
そのくらいしか言えない、小さな小さな存在なんじゃないだろうか。そう思った瞬間、気持ちが変わった。
そうだ、私はこの子たちのママになればいいんだ、保護者になればいいんだって。
私は二人の子どもを育ててきた。もちろん毎日が試行錯誤だったし、今でも完璧な親だなんて思わない。でも、子どもが泣いた時、不安そうな顔をした時、上手くできなくて落ち込んでいる時。
「どうしたの?」そう言って話を聞く。
「怖かったんだね」
「悲しかったね」
「びっくりしたんだね」
「悔しかったんだね」
そんなふうに、声をかけている。私がそうして欲しかったからもある。療育に息子が通うようになって、先生たちの声掛けが気持ちの言語化をしていた。家でもそう声をかけてとも言われた。
息子に意識的に言うようになって、時々息子がうんうんと頷く。合ってるときもあれば、違う時もあって違いますと睨まれる。泣きすぎて私の声が入っていない時もある気がするが、目を閉じて泣いていても耳は閉じてないから聞こえているはずだ。多分、ちょっとづつ入っている。
これを上の娘にもするようになったら、感情の言語化ができるようになった。娘がイライラして物や私に八つ当たりし始めた時に「今、悲しい?ぎゅーする?それとも一人になりたい?」と聞くと、どちらかを選んで落ち着くようになった。
そろそろ聞いてもいいかと思った。
「娘は、娘ちゃんのこと好き?」
「……ちょっと、嫌い」
「そうかあ、嫌いなとこ分かる?」
「少し分かる、言いたくない」
「うん、ママが娘ちゃんを大好きなのは知ってる?」
「うん」
「パパもじいじもばあばも、弟も娘ちゃんが大好きなの知ってる?」
「知ってるよ」
「娘ちゃんはみんなのこと好き?」
「うん!好き」
「娘の中にいる娘ちゃんは、娘ちゃんが大好きだよ」
「ママ、保育園の頃からそれ言ってる」
「そうだっけ」
「うん。テストで零点でも好き?お手伝いしなくても?」
「うん、いてくれるだけで嬉しい」
「弟はいつしゃべれるようになるの?しゃべらなくても好き?」
「好きだよ、口で話してないけどよく見ると、顔と動きと口から出す音の高さで分かるようになってきたとママは思う」
「たしかに、あれが弟のおしゃべりなのかも。赤ちゃんの頃より何が言いたいのか分かるようになった」
「マジで?娘ちゃんすごいな」
「お姉ちゃんだもん」
……娘との五分にも満たない会話で話があちこち飛んでるな。でも、会話は続いてたから良いと思う。この会話が夏休みに入った直後くらいの話だった。こういう印象に残った会話や出来事は日時、場所とか会話の一字一句覚えてられるのに、なんで卵買い忘れたり、学校のメール読み忘れるんだろう?
記憶メモリの回路が独特なんだろうな。なんだかなあ、どうして私はその力を自分の内側には使わなかったんだろう。私はずっと育む力を外へ向けていた。
子どもたちへ。
家族へ。
患者さんへ。
困っている人へ。
でも、自分の心の中で震えている小さな子たちは、ずっと置き去りだった。
世の中には、こんな言葉がある。
「子どもを愛するように、自分も大切にしよう」
理屈は分かる。でも、それができなかった。自分を、娘や息子と同じように愛しなさい。そう言われても、どうしても方法が分からなかった。
ところが、ここへ来て急に道が見えた。
はい、整列。
そう声をかけると、人魂みたいな小さな子たちが、ふよふよと私の前に集まってくる。
「普通になれない」も。
「嫌われたくない」も。
「迷惑をかけたくない」も。
「頑張らないと価値がない」も。
みんな人の形にもなれないくらい幼い。
「どうしたの?」
「そんなに怖かったの?」
「今まで頑張ってくれてありがとう。」
子どもに向けるように、一人ずつ声をかけていけばいい。これならできる。
『裁判官』も通行許可を出してくれた。ニコニコ顔で手を振っていたから大丈夫。まだ始まったばかりだから、本当にうまくいくかも分からない。
でも、イメージだけは驚くほどはっきりしている。私はこの子たちを追い出すんじゃない。否定するんじゃない。無理やり大人にするんでもない。
泣いたら抱っこして。転んだら手をつないで。安心できる場所があることを何度でも教えていく。
今まで、この子たちは私を守るために必死だった。だから今度は、私がこの子たちを守る番なんだと思う。
「自分を愛しましょう」
この言葉を、私は何年聞いてきただろう。何度、吐いて泣いてきただろう。
頭では意味が分かる。
理屈も分かる。
でも、どうやればいいのかだけは分からなかった。
私は私を大切にしていいと許可を出せない、『裁判官』と『認知の歪み』と『観測者』が抜け道を探してくれているが思い込みが強すぎて現時点では解除できない。私と言う人間の姿では駄目だと関所が開かない。もはや【呪い】である。
しかし、ここで幸いしたのが私のコンプレックスや弱点の源は人間の姿をしていなかった。
一人ひとり名前があるわけでもない。もっと小さくて、もっと曖昧で。ふわふわと漂う、人魂みたいなものだった。赤子よりも、もっと幼い。まだ形にもなりきっていない、「不安」という感情のかけらのようなものだ。
私じゃない、と分離できたからこそ「この子たち(他人)を育てればいいんだ」と思えた。私は母親である前に、困ってる人を見ると助けに行きたい特性を持っている。老若男女問わずに助けたい、特に傷病者を発見すると走って向かってしまう。この前も道で倒れた人に駆け寄った、ゴチャゴチャした雑念はまとめて山の方に投げた。ヒーロー願望だろうか?それも山に投げた。今そいういう時じゃないから目の前の困ってる人に全集中!!となる。傷病者を前にしたら私の自尊心や自己肯定感などいい意味で塵以下となる。
「普通になれない」と泣いている子がいる。
「役に立てなかった」と落ち込んでいる子がいる。
「嫌われたかもしれない」と震えている子がいる。
この子たちを守りたい、育みたい!しか考えられない。なんのモードなんだ、これ。
これは、子どもがいる人だけの話ではないと思う。
後輩を教えたことがある人。
新人を育てたことがある人。
ペットなど小さい命を育てた人。
植物に毎日水をあげた人。
ゲームのキャラクター育成も入る。
誰かや何かを、「育む」という経験をしたことがある人なら、きっと分かる感覚だ。多分。
その優しさを、外に向けるだけではなく、自分の内側にも向けてみる。自己受容とは、自分を甘やかすことではなく、自分の中にいる小さな存在を、見捨てずに守り育て続けることなのかもしれない。
うん、これならできる。




