第八十四話:なぜ、私は騙されやすいのか
二十代の頃、私はよく知らない人から話しかけられた。
駅でおじいさんに道を聞かれる。
スーパーでおばさんに商品の場所を聞かれる。
道でおばあさんに荷物を持ってほしいと頼まれる。
「この人なら話しやすそう」と思われていたのだろう。それだけなら微笑ましい思い出で済んだのかもしれない。だが、声をかけてくるのは親切な人ばかりではなかった。
宗教の勧誘、マルチ商法、なんか美容にいいらしいサプリメント、そして寸借詐欺。そういう人たちにも、なぜか私はよく狙われた。
当時の私は、「私、必要とされてる! はいはい、なんでしょう?」と満面の説明顔で対応していたのだ。そんなに騙しやすそうな顔をしていたのだろうか、失敬である。
結婚してから夫や義父母の誰かと出かけるようになると、ピタリと声をかけられなくなった。三十を超えた頃には、一人で歩いていてたまに道を尋ねられるくらいだ。騙されなくなったので、おばさんになってよかったなあと、感謝している。
「なぜ私はあんなに騙されやすかったのだろうか?」
自分の自衛策を振り返る。
今でも自分が騙されやすいと自覚しているため、クレジットカードは持たず、いつもニコニコ現金払い。一点一万円以上の個人的な買い物は必ず夫や義父母に事前通達。訪問販売や電話勧誘には「嫁の立場なので発言権がありません」と家族を盾にして断り、少しでもモヤモヤしたら家族や警察、時にはAIに相談している。
結婚前はこれを実家の父母ときょうだいにやっていたし、働いていた頃は部署の先輩や上司に相談していた。周囲から「そんなことまで聞くの? 自分の判断でいいんじゃない?」と困惑されたこともあったが、「なんか騙されそうな気がして落ち着かないんです」と押し通してきた。
さて、以上の話を『認知の歪み』に話し終えると、彼女は手元のノートを開きペンを走らせた。
「まず、一つ目の仮説です」
『認知の歪み』は静かに話し始めた。
「あなたは、人の言葉を額面どおりに受け取りやすい傾向があります」
「そうなのよー」
「『あなたは優しいですね』『あなたならできますよ』『あなたは特別な人です』……そう言われると、その言葉を自分への評価として受け取りやすい」
私はうんうん、頷いた。思い当たる節しかない。褒められた、認めてもらえた、と素直に喜んでいたのだ。
「ですが、」
彼女は穏やかな、けれど芯のある声で続ける。
「その言葉は、評価ではなく、相手に行動してもらうための『働きかけ』である場合もあります。褒め言葉も情報なんです。そして情報には、目的があることがあります」
私は黙ってその言葉を頭の中で転がした。褒め言葉も、情報。なるほど。そんな風に考えたことは一度もなかった。頭に入れよう。
「二つ目」
彼女はノートに視線を落とし、二つ目の項目を指した。
「あなたは自分の倫理観を基準に他者を理解しようとします。あなた自身、人を騙そうとは考えません。ですから、相手も同じように考えていると、無意識に仮定してしまいます」
私は神妙に頷いた。
「それは……、すごくある」
「嘘をつくことに抵抗がある人ほど、他人の嘘を見抜く経験が少ない傾向があります。これは欠点ではありません。あなたの誠実さです」
彼女は優しく微笑んだ。
「ですが、世の中には全く異なる価値観で行動する人もいます。その存在を知識として持っておくことは、自分を守ることにつながります」
人はみな善人として生れ落ち、悪になっていくにはきっかけがある。そんな言葉を思い出した。
「三つ目。あなたは、熱意を信頼の根拠にしやすい」
その指摘に、あーそうだ、と手を叩く。夢を語る人。目を輝かせる人。真剣な眼差しで迫ってくる人。私は昔から、そういう人が好きだった。「この人は本気なんだ」と、疑いもなく信じ込んでしまっていた。
「熱量は、その人が本気である可能性は示します。ですが、その内容が正しいことまでは証明しません。感情と事実は、別々に観察してもいいんですよ」
騙す方は、成果を上げないといけないんだから必死なのも頷ける。
「四つ目。あなたは、『なぜ私なのか』を考える前に、会話を始めてしまいます」
私は目を丸くした。
確かにそうだ。知らない人が話しかけてくる。私は反射的に笑顔で返事をしてしまう。でも本来なら、「なぜ、この人は見ず知らずの私に声をかけたんだろう?」という問いが先にあってもよかったのだ。
「五つ目。あなたは、自分が悪かった可能性を先に検討します。相手が怒る。相手が困った顔をする。すると、『私が何か悪いことをしたのかな』と考えてしまう。相手の問題である可能性より、自分の問題を先に探してしまうんです」
私は小さくため息をついた。
「あるね……本当に」
「それは、責任感が強いからです。ですが、責任感が強い人ほど、必要以上に他人の責任まで背負ってしまうことがあります」
そして彼女は、少しだけトーンを落とし、まっすぐに私を見つめた。
「六つ目です。あなたは、悪意を前提に考えることが苦手です」
私は少し首をかしげた。
「あなたは、人を利用しようと思ったことがありません。ですから、『人を利用する』という発想そのものが、自分の中に存在しにくい。だから見えないんです」
心のどこかが何かが、すとん、と音を立てて落ちた気がした。
そうか。私は、人を見る目がないわけじゃなかったんだ。ただ、悪意を見る経験が少なかったのか。
『認知の歪み』は急かすことなく、私が自分の中で答えを咀嚼するのをじっと待ってくれている。
「一つ、お聞きします」
彼女が静かに口を開く。
「今挙げた特徴は、悪い性質でしょうか」
私は自分の心の中を覗き込んだ。優しいこと。誠実。人を信じられる。責任感が強い。困っている人を放っておけない。
「……違う」
「そうです」
彼女は満足そうに、穏やかに笑った。
「どれも素晴らしい長所です。ただ、長所には『取扱説明書』が必要なんですよ。」
予想外のフレーズに、私は思わず吹き出してしまった。
「ここでも取扱説明書?」
「ええ。包丁も、使い方を知らなければ自分や誰かを傷つける危険があるでしょう? 優しさも同じです。正しい知識という取扱説明書がなければ、自分を傷つける道具になってしまうことがあります。」
私は深く深く頷きながら、ようやく気づいた。
これまで「情報リテラシー」という言葉を聞くと、フェイクニュース、SNSのデマ、生成AI……そんなデジタルなものばかりを思い浮かべていた。
でも、違うのだ。
目の前の人が話す言葉も、情報だ。
笑顔も情報。涙も情報。肩書きも情報。熱意も情報。そして、褒め言葉だって情報なのだ。
一番大切なのは、「その情報は本当か嘘か」を暴くことだけではない。
「なぜ今、この人は私に、この情報を伝えているのだろう?」
一歩引いて、そう問いかけることなのだ。
「二十代のあなたは、騙されやすかったのではありません。人を信じる力が、とても強かった。そして、その大切な力を守るための知識が、まだ十分ではなかっただけです」
私はゆっくりと頷いた。
騙されたことは悔しいし、思い出すのも恥ずかしい。それでも、取り返しのつかない結果にならなかったのは、周囲が助けてくれたことと、運がよかっただけじゃなくて、私が助けてと訴えて、騙されて損したくない精神で試行錯誤したことが今に生きている。
「優しさだけでは、自分は守れない。多分、大事な人も守れない。だから知識を学ぶ。知識があれば、優しさは弱点ではなく、強さになる」
彼女はゆっくりと微笑んだ。
「よっしゃ!!子どもたちに『なんで、勉強しなきゃいけないの?』って言われたときの一つ目の答えができた!」
「ふふふ」
「あとさ、漫画や小説でさ。優しいだけじゃだめなんだって主人公が言われるのがなんとなく分かったかも。優しさだけじゃ壊されちゃうから、強さ(知識)でコーティングして中心の優しさを守って戦えばいいんだね。悪の道に行かなくてもいいんだよ」
駅とか道端で配ってる美容に良いサプリメントって、よく考えたら麻薬とかドラッグとか毒の可能性もありますよね。全員が悪い人ではないと思うのですが、私に声かけてきた女性が持っていたのは小さいジップロックみたいなのに入れてたのでなんか不衛生で嫌でした。本当に効くのか、プラセボじゃないか、成分分析表見せてこないし偽物だと決めつけていました。健康なのでいりませんと断りましたが危なかったです。




