第七十二話:誰の視点か
五年程前だろうか。
SNSのタイムラインをスクロールしていると、たまにこんな動画や広告が流れてきた。
「親子関係改善セラピー」
画面の向こうで、成人した娘が涙を流して訴えている。
「お母さん、本当は私、ずっと寂しかった、苦しかった」
対峙する母親もまた、顔を歪めて涙をこぼす。
「気づいてあげられなくて、ごめんね」
二人は互いの手を取り合い、静かに涙していく。
動画のコメント欄には、感動の言葉が敷き詰められていた。
『本当に良かった』
『私も勇気を出して、母に今の気持ちを伝えたいです』
画面が発する湿度の高い熱量を指先で弾き飛ばしながら、私は小さく息を吐く。うん。いい話だ。実にいい話だと思う。他人の家庭の救済を否定する気なんて毛頭ない。まあ、これ広告だけど。
でも、その手の美談を見るたびに、私の脳内には決まって一歩も譲らない結論が立ち上がるのだ。
「……うちは無理だな」
そう呟いてスマホの電源を切った。
***
私の母が悪人だったとか、いわゆる毒親の類だったとか、そういうドロドロとした話ではない。むしろ、話はその真逆なのだ。
母は本当に一生懸命生きていた。ただ、その熱量が少々「一生懸命すぎた」のだ。
外での仕事、家庭の切り盛り、深く傾倒していた宗教の活動、親戚付き合い、気難しい祖父母の相手、そして、私たち子どもの世話。
彼女の人生は、常にそれらすべてのタスクで溢れかえっていた。例えるなら、今にも悲鳴を上げそうな常時フル積載の軽トラックである。
そこへ幼い私は、何を持ち込もうとしていたか。
「お母さん、私を百パーセント理解して、こっちを向いて」
そんな、とてつもなく巨大で重たい大型冷蔵庫を、無理やり荷台に積もうとしていたのだ。積めるわけがない。どう考えても無理だ。そんなものを強引に押し込めば、積載オーバーで車体ごとひっくり返るか、サスペンションが粉々に折れる未来しか見えない。
だから、やらなかった。できなかった。……にじみ出ていたものはあっただろうな。
「あの人には私の全容を受け止めるなんて、最初から無理だったんだな」
これは決して、拗ねた諦めではない。恨みつらみを込めた悪口でもない。ただの、極めて客観的な「現実確認」である。
RPGに例えるなら、攻略サイトを開いて、「このボスには炎属性の魔法は効きません」という一行のステータスを確認した、くらいの情報だ。
効かないと分かっている相手に、感情を乗せて炎魔法を千発撃ち込んだところで、ゼロはどこまでいってもゼロである。じゃあ、氷魔法なら効くのか。雷なら通るのか。
いや、違う。属性がどうこうという次元の話ではないのだ。どれほど強く、絶対的な存在に見えるボスにだって、上限のあるHPが設定されている。母という一人の人間が持つキャパシティの限界を、私は認識していただけだった。
だからこそ、思考のシミュレーションをしてみる。もし今、目の前に母が生きていて私が覚悟を決めて、「お母さん、私、本当はあのとき、すごく寂しかったんだよ」と打ち明けたら、一体どうなるだろう。
たぶん、母は「ごめんね」と言う。
問題はその先だ。その謝罪を受け取ったあと、私はどうなるのか。
想像してみる。……たぶん、猛烈に困るのだ。
呆然と立ち尽くす自分の姿が、容易に想像できてしまう。
だって、どれほど涙ながらに謝罪されたところで、過ぎ去った時間は一秒たりとも戻らない。令和の現在からタイムパラドックスを起こして、平成の空気に泣いていた私を直に救出することなんて不可能なのだ。完全にタイムマシンが必要な案件である。
そこに至って、私はようやく一つの事実に気づいた。
私が本当に欲しかったのは、母からの謝罪ではなかったのだ。
物質的な補償でもなければ、心の慰謝料でもない。過去の交通事故に対する、大人のビジネスライクな示談交渉がしたいわけでもない。
平成の私は「お母さんは、今のあなたのままでいいと思っているよ」という全肯定の言葉を、その瞬間に言ってほしかっただけなのだ。
それは、三十年以上の時を経て届けられる未来の「ごめんね」では、絶対に代替できないものだった。
……あと、言ったら母は傷つくことも想像できる。母が母なりに私を大事に思ってくれていたことは分かっているし感謝もしている。
「ありのままの自分を好きになって欲しい」というのは私を含めた、一部の人間の悲願かもしれない。でも、それを他人に願うのと叶わない。無理なんだ、どうしても。相手のキャパシティーを見たら、相手が壊れるか離れるか想像がついてしまう。
親なら受け止めてくれるか?受け止めた瞬間に潰れるんじゃないかな、特にうちの場合。よそはどうかわからない。
昔からテレビや新聞のお悩み相談とか最近ではネットやSNSの投稿で、思春期の子供の暴言に親が傷ついたと親側の意見が乗っている。そりゃあ、そうだろう。人間だもの。
そこで対話が必要とか、思春期だから理解をとかコメンテーターや感想がある。私は思春期に父母に対して嫌いとか暴言を言えなかった。母に言ったら壊れそうだし、夜遅くまで家族のために働く父にもいえなかった。なぜ、言えるのか不思議だった。言った後に自分の不利益になるんじゃないかとも。思春期の自分では家もお金もどうにもならないし、家庭内の居場所が無くなると考えていた。
今なら、家族ぐるみでのカウンセリングを含めた医療支援・福祉介入案件と言えるが当時は我慢したり、気合と根性でなんとかするしかなかった。日本の家庭で解決すべき課題という閉じた風潮もあるだろう。
ただ、反抗期に反抗できないと私みたいに四十歳になっても引きずっていると言う症例もあるため、早期の対処が必要だと考える。普通はここまで引きずらないよね。
***
昨日、第七十一話を書いた。『執筆の合間の自己カウンセリング』。そして今日、第七十二話の前半を書いた。
書き終えて読み返した瞬間、私は首をかしげた。
「あれ?」
テーマは同じなのに雰囲気が違う、文体の問題ではなくもっと根っこの部分。誰の視点なんだろう。私は脳内外在化メンバーを一人ずつ思い浮かべてみる。
まず、第七十一話。これは『五歳の子』だな、出来事よりも感情が前に出ている。
「お母さんが好き」
「認めてほしい」
「苦しかった」
論理は後ろに下がっていて、感情が文章を引っ張っている。これは、あの子だ。じゃあ、第七十二話は?
最初『観測者』かと思った。でもなあ、『観測者』だったら。
「母親は複数の役割を抱えていた」
「境界線が曖昧だった」
「情緒的ペアレンティフィケーションが起きていた」
そんなふうに事実を整理して終わる。『女王』なら王の目線だし、『認知の歪み』ならもう少し柔らかくなる、『法王』は第七十二話の前半のような一歩引いているようでトゲトゲした観方はしない。『エンタメ』ならもっと、明るく楽しく悲しみをネタにしていく。
「うーん……誰だろう」
私は脳内シェアハウスを見回すイメージをした。すると、部屋の隅から、小さな影がひょこっと顔を出した。
『創作者(七歳)』だった。
「あ、君が書いたんだね」
私が声を上げると、『創作者』は小さく頷く。
「ねえ、『五歳の子』も、この文章を読んだと思うんだ。ちょっと連れてきてもらってもいい?」
『創作者』は、くるりと向きを変えて、小走りで廊下の向こうへ消えていった。ショートヘアの少しクセのある髪の毛がピョコピョコ揺れていた。
昨日は寝落ちしてしまったので、今日は二話投稿できたらいいなと思っています。




