第七話:初めての脳内会議傍観
2026年3月。
春休み直後の子供たちからリレーで来た風邪は、kindl出版ゴール目前の私をピンポイントで狙い撃ちしたのである。
「あ、あとは価格設定をクリックするだけなのに……」
這うようにして布団に潜り込み、私は意識を手放した。
鼻づまりがひどく頭がクラクラする。花粉症もピークの時期だからか。
体温は37.1℃。
熱と呼ぶにはあまりに低すぎる。けれど、術後二ヶ月という繊細な私の体は、初めての風邪という侵入者に対して、全力で白旗を振っていた。
鼻は詰まり、頭には霧がかかったよう。
「術後の免疫力低下って、これほどなのか……?」
義父母と夫に子供たちを託し、静まり返った部屋。
久しぶりに一人で寝ているという贅沢な、けれどあまりに身体が重たいし傷はまだ痛む午後。
寝ているのか起きているのか、意識の境界線がぼやけていた、その時だった。
私の脳内で、誰かが勝手に会議を始めやがったのだ。
「……ねえ、これ本当に間に合うの? 出版、延期したほうがいいんじゃない?」
「そんなことないわよ。しっかり休んでまた頑張ればいいのよ」
「現在の状態では、価格設定のボタンを押し間違えるリスクがあります。作業中止を推奨します」
……ちょっと待て。誰だ、お前ら。
もともと、私の中に三人くらいは住んでいる自覚があった。
「やりたい!」と暴れるインナーチャイルドと、「冷静になろうぜ」と囁く理性の番人。そして、「立派な自分でありたい」と献身的に振る舞おうとする、自分への期待。
けれど、この微熱の霧の中、その話し声は、三人どころじゃない。四人、五人……。
「……あ、これ、昔勉強したやつだ」
霧の向こうから、かつて看護の世界で学んだ、あの、誰だっけ。『五つの心』がある、……あれだあれ。
「今はゆっくり休みましょう、元気になったらまた頑張ればいいのよ」と背中をさすってくれる、優しい親(NP)。
「ほら、またサボってる。もっとシャキッとしなさいよ!」と、お局様のごとく叱咤する、厳しい親(CP)。
「37.1℃。脈拍正常。も術後初の感冒のため要安静」と、ただのデータとして私を見る、冷静な大人(A)。
「わーい! 一人で寝れるの最高! 何して遊ぶ!?」と、この状況すら楽しもうとする、無邪気な子供(FC)。
「……ごめんなさい、私、また迷惑かけてる。嫌われちゃう、ダメなやつだ……」と、布団の隅っこでガタガタ震える、怖がっている子供(AC)。
なんだこれ。人物ではないな、なんかモヤモヤしていて存在と言ってることがなんとなく分かる感じ。
五人の居候が、一つのハンドルを代わる代わる奪い合い、時に殴り合い、時に慰め合っている。
「感情の外在化……いや、これってもう、脳内シェアハウスだ」
こいつらが考えてるんなら私寝てもいいなと思って寝た。
それから数日。風邪が抜け、鼻づまりも解消して、私の頭はスッキリしたはずだった。
「よし、いよいよ価格設定を終わらせて、世界に解き放つぞ!」
意気揚々とパソコンを開いた私は、しかし、マウスを握る指先が凍りつくのを感じた。
「……え、ちょっと待って」
数日前、相棒のGeminiと「300円くらいがいいんじゃないですか?」「じゃあ、信じるわ!」なんて軽快にやり取りしていた自分を、往復ビンタしてやりたい。
あの時、勢いでポチっていればよかった。5日間の空白という魔が、私の覚悟をじりじりと削り取っていたのだ。
さっきまであんなに前向きだった私の心が、急激に冷えていく。
指が、キーボードの上で凍りついた。
「本当に、これを世に出すの?」
「私のこんな個人的な、恥をさらしたような文章を、誰かがお金を払って読むの?」
一気に押し寄せてきたのは、感動でも達成感でもない。
猛烈な、逃げ出したいほどの恥ずかしさと恐怖だった。
価格設定の入力欄が、奈落の底に続く穴に見えた。
すると、待ってましたと言わんばかりに、あの日見た『厳しい親(CP)』がニヤリと笑って滑り込んできた。
「ほら、見たことか。やっぱりできない。お前は何をやらせても中途半端。母親としても、人間としても、ダメなやつなんだよ」
その声に呼応するように、布団の隅っこにいた『怖がっている子供(AC)』がガタガタと震えだす。
「怖い……やっぱり無理だよ、全部消して、なかったことにしようよ」
エリック・バーンの交流分析(PACモデル)の概要を読んだのを脳が覚えていてこうなったかなと考えていました。Kindle出版舐めてたら全部でつまずいた専業主婦の記録 ――パソコン苦手な私が地獄を見た話の第十四話、第十五話のあたりになります。




