第六十二話:闇落ちした人は、どうやって這いあがってくるのか③:承
副題:私の脳では、何が起きていたのだろう、多分脳がこんな働きしてたのかな考察
胸の腫瘍摘出手術が終わっても、すぐには元に戻らなかった。
独身時代なら休日を丸ごと使って読んでいた作品なのに、今は連載の三話も読むと頭が疲れてしまう。
「あの頃の私の脳では、いったい何が起きていたんだろう」
なぜかそう考える。ただ、MRIを撮りながら小説を読んだわけでもないし、脳血流や脳波を測ったわけでもないから科学的根拠が行方不明になっている。……正直全部の検査をしてみたいのが本音だが。
この先に書くことは、私自身の体験と心理学や脳科学の本を読みながら組み立てた、一つの仮説である。自分だけの症例検討かつケーススタディである。
私は医師でも研究者でもないが、物心ついた五歳くらいから自分の脳を観察することだけは三十五年以上続けてきた。
「私のアンチ脳モード」を脳科学っぽく眺めてみたい。
扁桃体は、生きるための危険を素早く察知する警報装置のような役割を担っていると言われている。
火事、事故、怒鳴り声、強い恐怖。
そうした危険を察知すると、まず扁桃体が反応し身体を「戦うか、逃げるか」の方向へ切り替えていく。問題はこの警報装置が本当に命の危険だけに反応するわけではない、という点だ。
物心ついた時からの継続したコミュニケーションエラー
自己否定による自己肯定感の歪み
慢性的な睡眠不足
終わりの見えない育児
仕事の疲労
退職による役割の喪失
病気への不安
手術
こうした長期間続くストレスも、脳にとっては安全ではない状態として積み重なっていくことが知られている。私の生活を振り返ると、この警報装置は何十年も鳴りっぱなしだったのではないかと思う。被害妄想がずっとお祭り状態だった。
そう考えるとあの頃の読書体験にも説明がつく気がする。胸の腫瘍が分かった時は人生の暗黒期だった。漫画と小説を読んでも、
「長そう」
「情報量が多い」
「理解するのにエネルギーがいる」
「今は処理したくない」
「めんどくさい」
物語の内容を評価する前に、脳が『消費エネルギー』を計算していたような感覚がある。それは作品への評価ではなかった。作品に向き合うだけの余力が、自分の脳から失われていたということなのではないか。
もし私の仮説が正しいなら、あの頃の私の脳は「面白くない」と判断していたのではない。
「今は読むだけの体力がありません」
脳が悲鳴を上げていたのである。私の唯一のピュアな心が死にかけていたのだ。
次に思い浮かんだのは、前頭前野である。
前頭前野は、考える、比較する、判断する、我慢する、優先順位を決める――そうした実行機能を担う場所だと言われている。
例えば、小説を読むとき。一文一文を読みながら登場人物を整理し、世界観を理解して伏線を記憶。「まだ分からないから続きを読もう」と判断する。
そうした作業は、一見当たり前のように思えるが、実はかなり多くの認知機能を同時に使っている。
ワーキングメモリで登場人物や設定を一時的に保持しながら、注意を維持し、前の場面とのつながりを確認し、「まだ結論は出さない」と判断を保留する。
そういえば、京極〇彦先生と北方〇三先生の本では私のワーキングメモリが全然足りなくなるため、登場人物と役割をA4用紙にメモして読んでいた。中学生のころのハリー〇ッターの時もそうしていた。
つまり、小説を読むという行為は、思っている以上に脳の総合力を使う作業なのである。大変だ。
ところが、私がアンチ脳モードだった頃は、その「保留」ができなかった。なんてこったい、小説読む醍醐味じゃねえか。
数ページ読んだだけで、
「もういい」
「次」
「読む価値ある?」
「もっと、私の好きだけを詰め込みつつ短くて面白くてすぐにドーパミン出る小説や漫画ないの?」
そんな考えが浮かんでくる。以前の私は「最後まで読まないと分からない」と自然に思えていた。伏線かもしれない、ここから面白くなるかもしれない、作者に意図があるかもしれない、そう考えて読み続けるだけの余裕があった。
しかし、あの頃の私は違ったのだ。脳が結論を急ぐ、曖昧な状態に耐えられない、続きを読むための認知的な投資をしたくない。
もし前頭前野の働きがストレスや疲労によって十分に発揮できていなかったとすれば、この変化にも一つの説明がつく。
情報を吟味するよりも、続けるか、やめるかを早く決めて脳の負担を減らそうとする。
つまり、正しく判断することより、早く処理を終えることが優先されていたのではないだろうか。
そう考えると、当時の私は作品を評価していたのではない。脳の省エネモードが、「これ以上エネルギーを使うな」と命令を出していただけだったのかもしれない。
今なら言える、もったいない読み方してんじゃないよ。でも気持ちわかるよ分かる。うん、寝よ?
まだまだあるよ、報酬系。
以前の私は、小説を読むたびに小さなご褒美を受け取っていた。
一話読めばワクワクして、続きを知りたくなる。また読んでもまた楽しい。その積み重ねで、五百話でも千話でも平気で読めた。
ところが、あの頃は違った。なろうの一話読だけで疲れたのだ、情報を整理するだけで精一杯。続きを読みたいという気持ちが湧かずに途中で閉じた。文字が文章として頭の中に入って来ずInstagramの動画やPinterestの画像で報酬系をカバーしていた。いや、動画や画像見てないで寝れや。
最後に海馬である。
海馬は記憶に関わる場所として知られている。私は以前、大好きな作品を何度も読み返していた。この作者なら間違いなく面白い。このヒロインが大好き、世界観が好き、この伏線が好き。
そういう良い記憶は確かに残っていたはずだった。なのに、実際に読み始めるとその楽しさを思い出せない。
前は面白かったという事実は覚えている。でも、面白いという感覚が戻ってこない。記憶と感情がうまくつながらなくなっていた。ここでやっと、ミステリー小説のように「何かがおかしい」と気づくことができた。
私は物語が嫌いになったと思っていた。でも、こうして振り返ると違う気がしている。
扁桃体は危険を知らせ、前頭前野は考える余裕を失い、報酬系は喜びを感じられなくなり、海馬は「昔は楽しかった」という記憶だけを残したまま、その感情をうまく呼び戻せなくなっていた。
私の脳は、物語を拒絶したのではない。生き延びるために、これ以上エネルギーを使わせないよう制限をかけていたと言えるだろう。
①導入、②起は漫画小説へのアンチ脳モードと厨二病、③承はアンチ脳モードは多分脳がこんな働きしてたのかな考察、④転はアンチ脳モード=闇落ち(抑うつ)の入り口かそれとも躁鬱の前触れなのか、自分と他人を攻撃してしまう獣に転じてしまうのか、⑤アンチ脳モードの解除または解呪ってどうやるの?(白井ちよの約一年観察記録から考察)⓺……なぜか『引き寄せの法則』を思い出し検証欲が湧く。本の構成がこれで合ってるかは横に置いて『五歳の子』と『創作者(七歳)』が飽きる前に勢いで書ききりたいです。この次に生成AIとわたし(生母特化型AI爆誕ほんのりSF小説)つなげていきたいです。




